浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

『覚悟のススメ』、汗っかきの悩み、仙台旅行:8月の振り返り

ども!! 今年もまた、為すすべもなく8月が去っていきましたが、皆様お元気でしょうか。我々はあと何度無力に8月を見送り、そのたびに哀愁を感じることになるのでしょうか。しかし猛暑ではなくなったのは嬉しいですね。

すでに本日、9月2日ですが、8月の振り返り記事を放出します。先月同様、暇な時間にメモを貯めておいて、それをひと月分まとめて記事にする感じです。

これはどちらかというと、他人に見せるようというよりは、自己の魂の救済のためにやっているものですね。

あと、8月は全くブログを更新せず、大変申し訳ありませんでした。雨の日が続くとブログを更新しない傾向にあります(図書館やカフェなどでしか書かないから)。9月こそは頑張りたいと思っている。そして8月を振り返ります。

 

8/10(土)

覚悟完了!!

championcross.jp

実家に帰省している。実家に帰ると、特にすることがないので、姉や母に頼んで快活クラブに輸送してもらう。同様に迎えにも来てもらう。いいご身分になったものです。

快活クラブで『覚悟のススメ』を全巻読んだ。これより熱い漫画を僕は知らない。

 

1巻の表紙カバーの作者コメント。

 

少年の名は覚悟! 穏やかな瞳に秘めた運命・必勝!

鎧の名は零! 物言わぬ鋼に込めた悲願・七生!

牙を持たぬ人の血が流れる時、少年と鎧は一つになる!

その時は只今! 只今がその時なり!

ふさわしい場所に堕ちよ現人鬼!

死戦の彼方に見えるのは因果!

 

熱すぎる。

 

8/19(月)

仕事終わりにジムに来て地獄の運動をした。

この頃体重がかなり増えてしまい、運動が必須になっている。3年前と比べると13kgぐらい増えている。

ジムについては前にnoteで本当にしょうもない記事を書いた。noteも月一ぐらいで更新していきたいな。

ジムに行くのはよいのだが、自分が汗っかき過ぎてつらい。親曰く汗っかきは遺伝らしい。激しい運動をするとサウナ出た後みたいに汗をかいてしまう。じゃあサウナを出たあとはどれぐらい汗をかくのかというと、これもサウナ出たあとと同じぐらい汗をかく。汗っかきのせいで、学生時代からしばしば恥ずかしい思いをしてきた。

今日も、チャリライドマシンを爆走したら、マシンにだいぶ汗が飛んでしまった。終わった後にちゃんとマシンの汗を拭いたつもりなのだが、完璧ではなく、係の人から注意を受けてしまった。

「君、マシンの側面にまで汗が飛んでるよ。ちゃんと拭いてってね」と。

 

 

 

 

 

チクショおおおお!!!!!!!

 

 

 

という気持ちをなんとか抑えた。

ジムの休憩室でこのメモを書いてます。

 

 

 

整いましたー!!(サウナだけに?)

 

汗っかきの人と掛けまして、パンデミックと解きますー!!!

 

その心は?



どちらも、感染(汗腺)が止められないでしょう〜〜〜

 

あんまりうまくないな。

 

体力を絞り切った後は、意外と文章が回るのかもしれない。

 

汗っかきの人は涙腺もゆるいのか、誰か検証してください。ちなみに私は涙脆いです。

 

8/22(木)

湯船に浸かりながら更新。

filmarks.com

この間、『ヘザース ベロニカの熱い夏』という映画を観た。

映画を観たきっかけは、若い頃のウィノナ・ライダーを見たかったから。この辺のことは過去に書いたnoteのクソ記事にまとめている。

そしてこの映画、普通に面白かったっす。

最近は映画を観る際は、ストーリーとか背景とかオチとかではなく、あまり全体に絡まないようなちょっとしたシーンのほうが好きだったりする。この映画で言うと、冒頭にクラスの一軍女子たちが、他の生徒にインタビューするシーンがある。

インタビューの内容はこう。

あなたは宝くじで100万ドル当たりました。小切手を受け取った帰り道、宇宙人に出会い、2日後に地球を爆破することを告げられました。何をして過ごしますか?

これについて、パンピーの生徒たちはつまらない回答ばかりするのだが、一人だけ洒落た回答をするミステリアスな男子がいて...... という話。このミステリアス男子の回答、「こりゃモテるわ」という感じで好きだった。ただ、他の生徒たちが、「100万ドル当選と言っても、税金でこれだけ取られるはずだから、手元にはこれぐらいしか残らなくて......」とか超絶くだらない議論を始めるシーンがもっと好き。

この映画は1988年のものだが「高校という空間がいかに狭苦しく生きづらいか」ということが非常によく描かれていると思う。僕も高校時代はとにかく息苦しかった。今思うと、馴染めない空間に毎日9時間も晒されるのやばいっすよね。職場だったら即転職しろという話になるけれど、学校はそうもいかないのが大変ですね。

「この学校は社会の無関心によって歪められたのではなくて、学校こそが歪な社会そのものだったんだ」

いいですねー。

 

8/27(火)

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昨日から仙台に来ている。

我が職場にはリフレッシュ休暇なるものがあって、有給とはまた別に3日間休みを取ることが可能である。そしてこの3日は出来るだけ続けて取ることが推奨されているらしい。旅行などに行けとのこと。今回はその2日分を使った。

仙台にはずっと前から行きたい行きたい思っていたのだが、なかなか行く機会に恵まれずここまで来てしまった。今回急遽、行ける時に行ってみようと思って行ってみた感じ(前日に決心した)。

簡単な旅行記を残します。

 

東北大学(片平キャンパス)

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仙台駅から徒歩圏内に、東北大学片平キャンパスがある。東北大学も前から行ってみたかったので、ようやく訪れることができた。

片平キャンパスは、理系の研究所系がいくつかと、事務の本部棟などがあるらしい。この感じは大阪大学の吹田キャンパスに似てるなーと思った。

もし東北大事務職員として就活するならこのキャンパスに来るんだろうなと。違ったらごめん。


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東北大学博物館が無料で入れたので行ってみた。東北大学の歴史がわかる。面白い。

東北大学は、片平キャンパスから比較的近いところに青葉山キャンパスと川内キャンパスがある。てっきり、駅近の便利さを活かして、後から片山キャンパスを作ったのかと思ったが、そうではないらしい。先に片平キャンパスがあり、後から青葉山・川内キャンパスができたとのこと。段々駅から遠くなってくのは珍しい気がしないでもない。

大学ファンドのあれに選ばれた系のニュースは、ぱっと見では掲載されてないようだった。今後の東北大学、どうなっていくんでしょうね。

 

広瀬川
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片平キャンパスの後は青葉山・川内キャンパスを目指す。シェアモビリティの自転車をレンタルした。川が綺麗。仙台、自然豊かでいいところですね。

 

東北大学(川内キャンパス)
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川内キャンパス。猪が出るらしい東北大学だなあと感じた。


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熊の目撃情報も多数寄せられてるらしい。


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総合図書館。一瞬だけ中に入ったが、かなり「市の図書館」という佇まいだった。他の国立大学の図書館でこんな垂れ幕が下がってるところ、あまり見ないと思います。そこも市の図書館っぽいなーと感じた。

それと東北大学は、建物がどれも新しいと思った。普通に綺麗である。しばしば東北大の人から、東北大は山の中にあり近くに店や施設がなんもないと聞いていたので、全体的に古びた感じなのかと思ってた。が、実際はかなりハイカラなキャンパスである印象(分からんけど)。確かに、飯屋やコインランドリーなどは本当に何もなかったが、名古屋大なんかよりは建物がよほど立派だった。フリスビー投げられそうなスポットも多かったです(最近フリスビーにハマりすぎてやばい)。

 

仙台城跡(伊達政宗像)
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近くに仙台城跡もあったのでついでに見に行った。

仙台城はいろいろあって、今は跡形もないらしい。伊達政宗関ヶ原以降に居を構えた城であるが、火事によって消失したり、明治時代に取り壊し令が出たりしたらしい(現地の解説では「心無い俗吏によって破壊された」とあった)。

お城は今となっては楽しい観光資源だが、当時は反逆の予兆や不穏因子になってしまったりして、なかなか残すのが難しいんだなーと感じた。確かにこんなところに籠城されたらどうしようもない。しかし仙台城は空襲でも焼けたらしい。そう考えると空からの攻撃、強すぎる。


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仙台城跡からは、仙台の街が一望できる。よい。


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夕飯は宿の近くの居酒屋で食べた。

今回は一人旅だったが、旅行先で夜に居酒屋で一杯引っ掛けるのが、かねてよりの夢だった。

いつからの夢かというと、松本に旅行して以来の夢。学部4年のときにゼミ合宿で松本に行ったことがあるのだが、その時はゼミのメンバーが全く仲良くなく、自分も4年生は一人だったため、夜は一人で出歩いていた。その時に行ったのが「松本つなぐ横丁」。いろんな飲み屋があって、かつ観光客も多く、自分がどこから何用で来たか〜的な話をしている人が多かった。僕は社会人ではなかったので、お金もあまりなく、せこい飲み方しかできずに帰ってしまった。が、この時から、働いて自分で稼ぐようになったら、旅行先の居酒屋で一人で飲んでやろうという夢があった。それが叶った。無駄話終わり。

このお店は夕飯兼ちょい飲みにちょうどよかった。餃子もうまかった。しかしビールが若干高かった。

 

勾当台公園 野外音楽堂

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2日目。仙台といえば伊坂幸太郎というイメージがあり、伊坂作品で出てきた場所をちょっと巡りたいと思った。が、ググった感じではあまり出てこず、行ってみたのは上記の「勾当台公園 野外音楽堂」のみ。

こちら、どの作品で出てきたか、みなさん分かりますでしょうか。ヒントは映画です。

正解は映画版『ゴールデンスランバー」』でした。堺雅人がここで無実を訴えました。この映画を観たの中学生の時なので「そんなシーンもあったなあ」という感じ。

伊坂作品には中学生の時にめっちゃハマった。『オーデュボンの祈り』から入って、『ラッシュライフ』『アヒルと鴨』『陽気なギャング』『重力ピエロ』『死神の精度』『チルドレン』『フィッシュストーリー』『終末のフール』 『砂漠』あたりを読んだ。結構読んでるな。

高校時代に『モダンタイムス』を読んで、なんかよくわかんねえなと思って伊坂作品からは離れてしまった。個人的に、小説で一番好きなのがオーデュボンで(最初に読んだ作品なので思い入れが深い)、映画だとフィッシュストーリー。ただ今読み返すと違うかもな。


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話戻って勾当台公園、喫煙注意系の貼り紙が至る所にされていた。確かに大量の喫煙者のいる公園だった。

ここで無実を声高に主張しに行ったら、喫煙者しか聞いてなかったらちょっと面白い。


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仙台はもう木々が色づき始めている......?


メディアテック
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仙台メディアテック。公園から近かったのでついでに寄ってみた。市民ホールのような感じで、市民の交流企画なども開催されつつ、3・4階が図書館になっている。図書館はおしゃれで綺麗だった。


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どうも館長があの鷲田清一らしく、哲学カフェとかもやっていた。ちょっと企画展示を見てみたが、こちらはユース向けということで、10代・20代の任意の参加者が「友達とは何か」「才能とは何か」「多様性とは何か」といったテーマで議論していた様子(簡単な議事録が残されている)。割と面白かった。

こういう場にもし自分が参加したとすると...... と考えると、きっと思ったことや感じたことをありのままに話すのではなく、まずは用語の意味や用法を整理しようとか、あの人はあまり会話に参加できてないから話を振ってみようとか、そういう「交通整理」的な役割に終始するんだろうなと思う。悪い癖でございますね。

こういう場で思ったままのことを言ったり、個人的経験を話したりするのが苦手で、なぜかというとスルーされたり軽くあしらわれたりすると悲しくなるから。他の人のはウケがいいと、やはり僕自身の経験なんて何の価値もないな.......などと考えてしまう。だから議論の整理などを頑張ってしまうが、そうすると、整理のしようのない突飛な意見や個人の暴走に対して、かなり冷淡になってしまうので、こういうのに優しい人こそ、本当に心の優しい人なんだろうなと思ったりする。何の話?

ちなみに、今は松島に向かう途中の電車でこの文章を書いています。

 

牛タン 司
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牛タンは「司」という店で食べるとよいと聞いたので、ほぼ開店と同時ぐらいに行ってみた。平日昼なので流石にすんなり入れたが、出る頃には行列ができていた。人気店。

普通にうまかった。

ちなみに、なぜ仙台で牛タンが有名なのかと言えば、牛タン焼きの発祥の地だかららしい。登場したのは戦後だとか。こういう名物の由来を調べて披露するのが結構好き。

 

松島

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そのあとは松島に行くなどしたが、風が強すぎて島に渡れず、ほとんどただ歩いただけだった。一応瑞巌寺などにも行ったが、歩き疲れてあまり情報が頭に入ってこなかった。そんなこんなで、仙台旅は終了。この文章は帰りの新幹線やまびこで書いており、この後は寝ます。雑でごめん。

仙台は伊達政宗の街だったな、、、どこに行っても伊達政宗の名前を目にしたと思う。

 

8/29(木)

労働労働労働労働労働労働労働労働忍耐

残業残業残業残業残業残業残業残業悪鬼

*「旅行に行っていたせいで仕事が溜まっており、残業続きである」の意

*『覚悟のススメ』単行本6巻 作者コメントをパクった。

 

 

 

 

以上!!!

いかがだったでしょうか。8月はブログ更新のモチベをだいぶなくしてしまい、全然かけませんでした。改めてすみませんでした。

これから涼しくなって、過ごしやすくなってくれるといいなと思います。次回、またお会いしましょう。それでは。

 

 

 

 

 

 

 

巨大ロボット展、東京のお盆、名古屋のアパート、「サクリファイス」....... 7月の振り返り(メモ集)

も!! 去年まで、毎月月末になると、その月の振り返り記事というものを書いていました。↓がその記事です。

betweeeeeen.hateblo.jp

毎月25日ぐらいになったら構想を練り始め、月の最終日に合わせて更新していたのですが、次第に書くことがなくなってきてやめてしまいました。

が、以前こうした日記系のコツとして、知人から「毎日Twitterなどを開くタイミングで、ちょっとずつ下書きに書き溜めればよい」という話を聞いており、今月はちょっとそれを試していました。ので、今日はそれを放出します(ただしだいぶ加筆修正あり)。7月の振り返りとなります。あまり読む価値はないです。

 

7/7(日)

都知事選終了

www3.nhk.or.jp

  • 都知事選終。以下、感想の書き残し。小池百合子当選は予想通りだったが、石丸2位がだいぶ驚き。蓮舫に勝つとは。石丸慎二はtiktokをうまく使って若年層にアピールしたとあったが、自分は文字媒体の情報しかチェックしておらず、動画とかは一切見てなかった。政見放送も見ていなかったので、ちゃんと見ておくべきだったかなと思う。特にtiktok。やはり世の情勢を知るためにも、tiktokをはじめて、パンケーキを食べる動画をアップロードすべきか。
  • noteに七夕ネタを更新。noteは暇なときに投稿しているが、はてブロよりも読者の反応がわかりやすいのがよいかも。これからもライトなネタを投稿していきたい。

 

大阪・京都観光

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  • 7/6、7は大阪・京都観光。大阪では大阪城大阪歴史博物館
  • 大阪城には初めて行った。が、中身が思ったより全然「城」ではなくちょっと残念。完全に博物館だった。しかも展示ケースが暗くて視力弱者に優しくなかったな、、、前に行った彦根城などをイメージして行ったが、むしろあそこまで「城」としての中身が残ってるほうが珍しいのだとか。
  • 大阪歴史博物館にも行った。難波宮の歴史などを見られたのが面白かった。おそらく、大阪の土地の歴史が最も熱かったのがヤマト朝廷の時代で、次が安土桃山時代だったのではないか。その後、江戸に政治や文化の中心が移ったわけだが、そこで決して廃れることなく町人の街として栄えたのは本当にすごいと思う。

www.bunpaku.or.jp

  • 京都では、京都文化博物館の「日本の巨大ロボット群像」という展示を見た。全く巨大ロボのことを知らない僕だがガンダムエヴァも観ていない)、かなり楽しめた。
  • 巨大ロボットは、普通に考えれば荒唐無稽なフィクションなのだが、魔法などとは違い、ロボットは科学技術の粋であるから、見た者に「未来に起こりうるかも」と感じさせる何かが大事だとのことだった。「存在しうる」と思わせるためには、デザインなどに合理性があった方が良い。そんなわけで、「この形にはこんな意味や意義があるんだ」というのがたくさん込められており、その解釈を読むのが面白かった。

shogakukan-comic.jp

  • 話は変わるが、このところ、『劇光仮面』という漫画が大変面白い(シグルイの作者の新作です)。特撮に魅せられた現代人をテーマにした本作だが、ここでも映像作品に対する熱い「解釈」が溢れている。なぜヒーロー戦隊は日本刀などのシンプルな武器ではなく、特殊ギミックのついたニッチな武器で戦いたがるのか? なぜどう見ても敵から目立つド派手な衣装で登場するのか? そういう、一見馬鹿げたことに対して、できるだけ合理的な説明が与えられていく様が面白い。また、特撮で大事なのは、見た者に「現実にあるかも」と思わせることだとあり、そこも巨大ロボット展に通じるなあと思った。
  • 結局のところ、「解釈」というものがどこまでも個人的にフェチ。現に"ある"ものから、どんな意味や物語を見出すかというのが、たまらなく面白いところだと思う。単なる答え合わせではなくて、多少の飛躍を含みつつも、全体で見れば筋が通っているような解釈が好きです。
  • ちなみに「劇光仮面」、主人公がガチヤベーガンギマリマンで面白いので、是非読んでください。ミカドヴェヒター 漆黒が震えるほどかっこよかったです。

 

7/13(土)

東京の盆

  • この7月の前半は結構忙しかった。今職場では「2年目が1年目に自分の業務を紹介する」という研修が行われており、自分も2年目として準備に追われている(こういうのちょっと書いただけでも身バレを招きそうで本当に怖い)。それだけでなく、今月前半は何かとイレギュラー対応に追われた。イレギュラーが発生すると途端に忙しくなる。飲み会の幹事なども担当し、大変疲れた。
  • 東京はお盆が他の地方と違い、7月であることを知る。7/13〜15がお盆なのだとか。なぜなのか? 一説によると「ご先祖様が一斉に帰ると交通渋滞が発生するから、東京人だけ気を利かせて7月に帰っている」らしい。ほんとかよ→嘘でした。正確には、明治時代に暦を新暦にする際に、東京だけ対応がよかったのだとか。(ソース
  • 可愛いは正義だが、可愛すぎは罪(何の話?)。

 

7/16(火)

仕事に保身を持ち込むなという話

  • 某アプリでちまちまと「ラーメン発見伝」を読んでいる。今日はその感想。167話「店員採用の条件は何!?」。藤本のセリフでこんなのが出てくる。

〔あの店員たちは〕保身第一で責任は一切負いたくなく、そのためにお客とマトモなコミュニケーションを取りたくない類の人間なんだ」

  • 客に対しててきとうなあしらいをした店員を批判した言葉だが、これは仕事をしてると「わかるなあ」と感じる。何か顧客から要望があった際に、その顧客に積極的にコミュニケーションを取って問題を聴き取ろうとするのではなく、最初に「自分にとっての面倒くささ」を気にする感じ。まず自分の保身のことや内輪での立ち回りのことに気が向いて、顧客のことは二の次になる。これは働いていると、周りでよく感じるところ。こういうの本当にどーーなんだろうなあと思う。
  • これからは「全力で働かなくていい時代」「全身全霊で働くのをやめよう」ということが言われているが、その中で「カスタマーと真摯に向き合う」というのはどう評価されるんだろうなと思う。ほどほどに働く、ということの中に、「ほどほどに面倒事を避ける」というのもやはり含まれるんだろうか。例えば、「あえてカスタマーサポートの問い合わせ方法を分かりづらくして、担当者の負担を減らす」という戦略も取れるわけだが(一時期のAmazonが完全にこれだったが、最近は対応がよくなったと感じている)。こういう、顧客にとっての使い心地よりも身内にとっての負担減を優先する態度は本当にどうなの?? と思ってしまう。他だと「メールをもらったらすぐにでも返信しろ」というのは負担が大きいのであれだが、かといって「相手から催促が来るまでは放置してもOKと考える」というのはどうなのなど(職場には本当にこういう人いる)。もちろん程度の差はあるだろうが、やっぱり我々、できるだけ顧客に向き合うべきではないかと思う。あなたはどう思いますか??
  • もう少し続けると、先月漫画「医龍」も読破した。秋葉原献血に行ったときに全部読んだ。献血、皆さん行きましょう(献血行ってるマウント)。医龍でも、「仕事に自分や組織の保身を持ち込むな」という話がしきりにされている。手術室に保身を持ち込む医者は、危篤の患者を前にしても自身の評価や査定を気にしてしまい、患者の命を最優先にしなくなってしまうからとか。ただ、医龍の朝田は明らかに「全身全霊で働き過ぎ」であり、このバランスを取るのが難しいところ。自分の最近の仕事の悩みでもある。

 

7/21(日)

名古屋来訪

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@名古屋大学(工事中)

  • 名古屋に遊びに行きました。この1ヶ月で、北海道・大阪京都・名古屋に旅行に行きました。この名古屋が6月のボーナス旅行の最終弾です。楽しかったーーー。
  • 旅行に行くときは、誰かに会いに行くという場合が多い。今回の旅行は3つとも「現地で旧友に会う」というものだった。住む場所の離れた友人と定期的に会うようにしているのは、数ある僕の有徳な行為の中でも、最も優れた徳であると思う。みんなも昔の友人に、積極的に連絡を取ろう。

kiyo-shit.hatenablog.com

  • ちょうどこの頃読んで、一番印象に残っている記事。会いに行くだけでなく「会われに行く」というのは積極的に使いたい表現だと感じた。確かに我々、いつ死ぬか分からんしな。今回の名古屋旅行は、名古屋の友人に会いに行っただけでなく、名古屋という街そのものに「会われに行った」という感覚も強い。この僕が昔住んでた街に帰ってきてやったぞ的な。成長したところを見せてみろ的な。名古屋に怒られるかもしれない。

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@川名公園。昔よく行った。いい公園だが、この日は暑すぎて人がまったくいなかった。

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@名古屋のCOSTNAコストコの再販売店

  • 一番の衝撃は、昔住んでいたアパート(愛知県名古屋市昭和区前山町1丁目8−1)の隣に、コストコ売店再販売店ができていたことコストコの会員じゃなくてもコストコの製品が買えるお店。これは、すごい。自分が住んでいた5年前にできてほしかった....... 少し立ち入ってみたが、ここで宅飲みの買い物とかしたらテンション爆上がりですよ。

 

  • スピッツの曲に「アパート」という曲がある。「君のアパートは今はもうない。だけど僕は夢から醒めちゃいない」と始まる歌だが、なんとなくこの歌は、「元カノが住んでたアパートを見に行ったけど、そのアパートはもう取り壊されてなくなっていた。しかし自分はあの頃から何も前に進めていない」という歌かと勝手に思っている。
  • この歌に感化されて....... というわけではないのだが、僕も「昔自分が住んでたアパートの周辺」に行くのが好きである。今もまだあのアパートがあるかどうか見に行ってしまう(あくまで自分のですよ)。今回も名古屋で見に行ったし、京都の時も北白川の銀閣寺のあたりに足を運ぶ。そこで「ここに弁当屋があったなあ」とか「あの謎の店、まだあるんだ」とかを確かめるのが楽しい。久しぶりに訪れる土地は、いろいろ変わってくれていた方が「出て行った感」があり感慨深い。地元についてもそうで、よく「地元に帰ると何も変わってなくて安心する」という声を聞くが、僕の場合は完全に逆で、何も変わっていないと「自分が出ていっても何も変わっていないじゃないか」とちょっと寂しくなる。だから、久しぶりに行った時にいろいろ変わってくれていた方が、時の流れを感じられてよい。君のアパートも今はもうない方がいいかもな。
  • 名古屋では特に観光もせず、ただ昔の友人と駄弁っていた。7月は他の日も、久しぶりに大学時代の友人の家に遊びに行ったが、大学生の時みたいに宅飲みしたりスマブラしたりボドゲしたりアルティメットチキンホースするのが一番楽しいかも。フリスビーも楽しい。名古屋でも夕方涼しくなってから投げまくった。
  • 社会人になってから、キャバクラや風俗に行ったという話も周りでよく聞くようになったが、結局フリスビーが一番楽しいと思う。

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@日比野。やたら細い居酒屋を眺めたりもした。

 

7/29(月)

小説「サクリファイス」を読んだ

  • 7月は久しぶりに小説を読んだ。近藤史恵の2008年文庫化の小説。めちゃくちゃ面白かった。
  • 先月、漫画「かもめ☆チャンス」についての記事をちょっとだけ書いたが、これについて調べているとき、同じくロードレースを舞台にした作品として名前が挙がっていたのが本作だった。タイトルは知っていたが、ロードの小説だとは知らなかった。ついでに表紙がロードの写真なのも買ってから気付いた。

www.bitters.co.jp

  • 少し話は変わって、映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」が大好きなのだが、個人的にフェチなのが(またフェチの話)、「心に深い傷を負った男が、それでもなんとか藻掻くように生きる」という話。同じ理由で漫画「サルチネス」とかも好き。上の「かもめ☆チャンス」もそうですね。
  • で、本作も、主人公が失恋の痛みをずっと抱えている。そしてその痛みと付き合いながらロードレースに挑む姿が描かれている。そこがまず好きポイントだった。かつ、ロードレースの醍醐味である「アシスト」という存在に焦点が当てられていて、ずっと一貫して「自己犠牲」がテーマとなっている。僕は凡俗な人間なので、小説でも分かりやすくテーマが一貫していた方が好き。本作は非常に読みやすく、それでいて大変面白かった。おすすめです。先に「かもめ☆チャンス」を読んでおくと、視覚的にもロードレースのことが分かりやすくなるので、近所に快活クラブがある人はぜひ読んでおこう。

 

7月のプレイリスト



中でもおすすめの一曲

Mustard Service / (Your Cat) Don't Stand a Chance


www.youtube.com

 

 

以上!!

久しぶりに、月の振り返り記事を投稿してみました。いかがだったでしょうか。

このスタイルでやってみて分かったのは、結局のところ修正やリライトが結構大変だということです。月末にその月にあったことをいちいち思い出さなくてもよいのは利点ですが、見出し付けたり日本語直したりと、手直しが結局大変でした。ので、次月もやるかどうかは正直分かりませんが、できるだけ頑張っていこうとは思います。(あと、こうして振り返り記事を書こうとすると、あのことも書こうこれも書こうとなりがちですが、そこはメモしていた範囲のみに留めました)

この7月は本当に暑くて大変で、かつコロナもまた流行り始めていました。ぜひ皆さん体調に気をつけて、猛暑真っ盛りの8月に備えましょう。嫌だ。もう暑いのは嫌だぁっぁぁぁ。。。。。それでは。

 

 

 

 

 

読書に何を求めるか?:読書記録#6 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024,集英社新書)

もう7月も下旬ですよ

 

皆さんどうもお久しぶりです。

暑いですね! これを書いている現在、最高気温37度とかです。暑すぎるだろ!!!!! この頃は、買っておいた野菜などが暑さで全てダメになってしまい、家には小バエが大量発生し、もう何の気力も湧きません。

さて、7月は更新多めにしたいと言いつつ、25日振りの更新となりすみませんでした。暑さのせいです。今日も読書記録をやっていきますが、本日紹介するのは、今話題のあの本、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です。

こちら気になっている人も多いのではないでしょうか。

いつも通り、読んだきっかけ→内容紹介→読んだ感想でやっていきます。ちなみに今回、長いです。

 

読んだきっかけ

まず、書名に惹かれました。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」。よいタイトルですよね。学生の時はたくさん本を読んでいたのに、就職してからトンと読まなくなったという人の話をよく聞きます。このあるあるが書名になっているというのがまず嬉しいところです。

ただその逆に、 僕自身は社会人の中ではまあまあ本を読んでいる方ではないか? という気持ちもあります。以前のブログにも書きましたが、大学院生の時より、よっぽど社会人になってからの方が本が読めています。これはどのように説明されるのか? というのも気になりました。

一つ思っていたのは、働き始めると本が読めなくなるのは「仕事と読書で、あまりに脳の動かし方が似すぎているからではないか」ということです。僕は事務系の仕事をやっていますが、日々メールを読んだり書類を解読したりして、とにかく情報処理することに追われています。で、仕事終わりに読書をしようにも、既に仕事で脳の処理野がイカれてダメになってしまっているので、今日は1ページも読めないなという日が多々あります。仕事をすると本が読めなくなっているのは、仕事と読書がタスクとして似すぎているからと感じていました。

で、本書についても、前にちょっと紹介したデイヴィッド・J・リンデン『快感回路』のように、脳科学や心理学の話なのかなーと思っていました。ただ実際のところは、それとはだいぶ毛色の違う内容です。では内容を紹介していきます。

 

内容紹介

本書は「なぜ現代人は、働き始めると本が読めなくなるのか」という問いに、労働の歴史や就労観という視点から切り込んでいます。

皆さん、映画「花束みたいな恋をした」はもうご覧になっていますでしょうか。

hana-koi.jp

まあ僕は観ていないんですが....... 「そろそろ観る」と言い続けて3年弱になります。

で、本書ではまず、「花束みたいな恋をした」の登場人物(麦)がフォーカスされます。この映画では、サブカルを愛し読書を愛したはずの青年が、社会人になってどんどん「本が読めなくなっていく」様子が描かれています。この描写に共感を覚えた人は結構多いのだとか。そして筆者もここに問題意識を据えます。すなわち、「現代人が読書と労働を両立させるにはどうすればよいか?」「働きながら本が読める社会にするにはどうればよいか?」という問題に取り組んでいきます。

その際のアプローチとしては、歴史社会学的な手法が採られます。というのも、読書と労働との関係についてはすでに明治時代から議論がありました。ので、そこから遡って日本の労働観を見ていくという感じですね。

目次を見ると、第1章が明治時代、第2章が大正時代、第3章が戦前・戦中、第4章が1950年代~60年代ときて、第5章以降はそこから10年刻みなります。5章が1970年代で、その後の6・7・8章が80s, 90s, 00s,と進んで、最後の第9章が2010年代になります。かなり細かく時代を区切っているのがわかりますね。

そしてその時代において「どのような本が読まれていたか」が注目されます。例えば1970年代では、司馬遼太郎歴史小説がヒットしていました。そのヒット本から当時の時代精神や労働観を読み解いていきます。例えばこの1970年代であれば、「当時のサラリーマンは、司馬作品の戦国武将や明治の軍人たちの在り方に、自分の組織論や仕事論を投影していたKindle版 p106)といったことが言われています。まあこれはあくまで一例ですが。

で、このような時代考証を明治から現代まで遡っていくことによって、一体どんなことが見えてくるのかというのは、是非本書を読んでいただいてということで.......(ぶっちゃけうまくまとめる自信が全くない)。一応、ここまでの話がいい感じにまとまっている箇所があったので、ちょっと長いけど引用しておきます。これさえ読めばこの本の流れがわかるはず。

本書は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」というタイトルを冠している。

普通に考えれば、長時間労働によって本を読む「時間」を奪われたのだという結論に至る。だが第一章では、それにしては日本人はずっと長時間労働を課されてきており、現代にはじまったことではない、と指摘した。

序章で引用した映画『花束みたいな恋をした』の麦は、長時間労働に追われるなかで、「パズドラ」はできても「読書」はできない。「パズドラ」をする時間はある。でも「読書」はできない。ここにある溝とは何なのかを知りたくて、私は近現代日本の読書と労働の歴史を追いかけてきた。

戦後、本が売れていた。とくに戦後の好景気からバブル経済に至るまで、人口増加にともない本は売れていたし、読まれていた。しかし1990年代後半以降、とくに2000年代に至ってからの書籍購入額は明らかに落ちている(第六章〈本をみんな読んでいた?〉参照)

しかし一方で、自己啓発書の市場は伸びているKindle版 p137, 強調は引用者)

引用箇所の最後で自己啓発書の話が出てきました。この引用は第7章からですが、本書では7~9章あたりにかけて、「なぜ働くと本が読めなくなるのに、自己啓発書は読めるのか?」という問題も追いかけていきます。「花束みたいな恋をした」の主人公も、以前読んでいたような本への興味をなくした代わりに、自己啓発本に関しては読めていたそうです。これは一体なぜなのか??

これについて本書の内容を紹介しますと、筆者はこのことについてノイズの有無という考え方を持ち出します。この「ノイズ」というのが本書において非常に重要な概念です。著者曰く、働くと本が読めなくなるのに、他方で自己啓発書は読めるのは、本はノイズに満ちているのに、自己啓発書はそれが取り除かれているからとなります。

そもそもノイズとは何なのか? という点については、「ノイズ=歴史や他作品の文脈・想定していない展開」と書かれていますKindle版 p174)。例えば自己啓発本の世界では、物事が上手くいかないのは自分自身のせいだとか、成功する人は自分で努力しているだとか、あらゆることが個人や自助努力の話に還元されがちです。そして、自分を離れた「社会」というものはそこでは触れられません(と筆者は見ています)。この「社会」というものこそ、筆者が言うところの他者の文脈・自分から離れたところにあるもの、つまり「ノイズ」であるとされます。

忙しい社会人は、ノイズの摂取をよしとしません。自分に関係のある、無駄のない情報だけを好みます。自分でコントロールできない事象はノイズとして切り捨てます。だからこそ、「社会」という文脈を切り離した自己啓発本は、忙しい社会人でも手に取れるのだと、筆者はそのように分析しています。

①読書――ノイズ込みの知を得る

②情報――ノイズ抜きの知を得る

Kindle版 p174)

本書ではこのように、「読書」と「情報」が区別されたうえで、自己啓発本は、あくまで「情報」を摂取するものだ、ということが言われます。そして読書という行為について、次のように述べています。

自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。

そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。

仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。Kindle版 p183)

つまりは、本が読めない原因は、我々の「余裕の無さ」にあるとのこと。なぜ余裕がないのかと言えば、全身全霊で働き過ぎだからとなります(最終章)

本書の最後の主張は、「全身全霊で働くのをやめよう」「むしろ、半身で働こう」となります。「全身」の対比としての「半身」が提唱されます(これ自体は上野千鶴子が言った言葉とのこと)。我々は全身をかけて働き過ぎであり、そうなると仕事に関係のないノイズまみれの情報は摂取しなくなってしまう。ただ、筆者の分析では、そもそも読書とは「ノイズ込みの知を得る」(自分から遠く離れた文脈に触れる)行為です。つまろ働きすぎとは相入れないわけですね。

ここまでの流れをまとめると、

  • 読書とは、ノイズ込みの知を得ることである
  • 我々は全身で働きすぎると、ノイズを排除しがちになる
  • ゆえに、働いていると本が読めなくなる

という感じになります。

ちなみに著者が提案する「半身で働くこと」はその名の通り、仕事のことは半分、そしてもう半分で趣味や文化的活動の時間を取ろうという提案です。また、本書の最後には、働きながらも本を読むコツなどが紹介されています。興味のある人はぜひ手に取ってみてください!!

 

読んだ感想

本書については、いろいろと、本当に色々と思うところがあるのですが.......

まずはポジティブな感想から書くと、結論の「半身で働く」ということについては、本当によい提案だなと思いました。

僕自身、こうして週5で働きながらも読書感想が書けているのは、確実に「半身で働いているから」となります。お仕事、真面目にやっておりますが、決して全身全霊とか人生を懸けてではありません。ほどほどに定時で帰って、ほどほどに有給も取って、その反面でほどほどに真面目に働いています。仕事の勉強(財務や会計の勉強)もたまにしていますが、その情報以外をノイズと判断するとかそんなことは全然ないです。

むしろ、何かに全身全霊で取り組んでおり、全く本が読めなくなっていたのは、大学院生の頃でした。B4、M1の時とか、「研究に関係のない本」が全く読めなくなってしまいました。今でもあのときは、読書が趣味ではなくなった瞬間として記憶に残っています。

ので、僕の場合は「働いていると本が読めない」ではなく、「大学院に行くと本が読めない」ですね。もちろん研究用の本は読んでいますが、趣味の文化的な読書は一切しなくなっておりました(漫画はめちゃくちゃ読んでたけど)

それを考えてもやはり、今の仕事は、ほどよく半身で行えているのだと思います。

ただ当然、本が読めなくなった背景には、「成果を出さなければならない」という強い焦りがありました。それは今本を読めていない人たちも同じではと思います。

で、この焦りはそのままに「いや半身で働けばいいんだよ〜」と言うだけでは何も解決しないなーとは感じます。著者は意外と、「まずやってみよ? やってみたらうまくいくかもしれんから」などと言いそうですが(偏見)、この辺は本当にどうするべきなんでしょうね。

別に我々、のんびり気楽に過ごしていても生きていけるというわけではなくて、院生なら研究して論文を書き上げなければならないし、社会人にも多くのタスクが溜まっていると思います。「やるべきこと」が常にある状態ですね。で、中には「全然関係ない本を読んでいたら、本業の方でも着想が得られた」という方もいそうですが、大体の場合は「いや今読まなきゃならん本が山積みなのに関係ねえ本なんて読んでられんよ」という状態だと思います。それをほどよく両立させている人間が超人なのであって...... そこを標準としてはならないとも感じます。

当然ですが、心の余裕があるからこそ関係のないこともできるのであって、関係のないことをし始めれば心に余裕が生まれるわけではないということは、一応気を付けなければならないとは思いました。

 

 

 

 

........で、ここからは、本書に対して批判的な内容となります。先入観を持たないためにも、まだ読んでない人は読んでからの方がいいかもしれません!!

 

 

 

 

 

 

読みました? もう本書読みましたね? 読んだということで、もう少し率直な感想を書いていきます。

この本、個人的にはかなりうーーーん........という感じでした。今回で読書記録は6回目となりますが、過去に挙げた本がどれも☆4~5つだとすると、今回は☆3いくかどうかというところです。それぐらいイマイチだったというか、なんというか、最近の左寄りの論者の問題点がギュッと詰まった一冊だと感じました。批判等も覚悟の上で、そうした感想を書いていきます。

 

 

分析の進め方が.......

まず、分析がかなりガバガバに感じました。「新書なんてそんなもんだろ」という反論は最後に取り上げるのでここではひとまず置いておいて...... 僕は日本現代史や労働史の専門家ではないので、むしろ勉強させてもらうつもりで読んでいたのですが、素人目にも「これは話半分で読んだ方がいいな......」と感じました。

どういうところが不満であるかというと、主に本書の論じ方のスタイルについてです。本書を読んでいてとにかく感じたのが、自説と異なる見解・事例をほとんど取り上げないということです。

説得的な文章の多くは次のようなスタイルを採っていると思います。すなわち、まず事例を集め、そこから仮説を展開した後、その仮説を補強するためにあえてその仮説に合わない事例を取り上げるという流れです(あるいは同じ事例からも別の主張ができるかもしれないとして別説を展開する)。時には自説の修正を強いられるかもしれません。ただ、そうしたことを積み重ねて、多角的な批判にも応えられる主張を練り上げていくのだと思います。

そこについて本書を見てみると、次のようなパターンが目立ちます。すなわち、まず何らかの特徴的な事例を取り上げて(この時代には○○が流行っていたなど)、次に自説を展開し(ここから、この時代には△△という思想が根付いていたと言えるなど)、その後、もう一度自説と合致する事例が取り上げられます。反例を取り上げたり、あえて自説と別の見解を取り上げたりといったことがほとんどありません。それがあれば「確かにそういうことも言えるな」と、読者としても続きの展開に期待できるんですが、本書では、「そう考えると、Aがこの時代に生じたのも無関係ではないだろう」とか、「Bという社会学者も同じことを言っている」とか、とにかく自分の主張への反省というもの無しに話が進みます。

そうなると、個人的には、事例を分析した結果として筆者の主張があるのではなく、あらかじめ筆者の言いたいことがあって、それを補うための事例をピックアップしているという印象を受けてしまいます。特に時代分析ともなれば、どの事例をピックアップするかは恣意的になりがちです。そんな中で、自説と異なる事例が全く触れられず、むしろ親和的な例ばかり挙げられて、「この事例もそのように説明できる」「誰々も同じような話をしている」と続くのは、正直、言いたいことだけ言ってんな〜〜〜と強く感じてしまいます。具体例については、長くなってしまったので註を辿ってもらえればと幸いです*1

ついでに言うと、先行研究への批判もほぼ無いですね。先行研究が引用されるときは、筆者もその意見に共感していそうな場合が多いです。そして、それが本当に妥当であるのかや、何かしらの反論が挙げられていないかなどがほとんど気にされません*2。これもかなり不満で、先行研究を聖典のように使うなと思ってしまいます。むしろその妥当性や有効性に疑問を投げかけて、彼ら・彼女らの研究を批判し、自分の手で前に進めるようなことをやってほしいなと感じます。「誰々もこう言っている」と、無批判に引用するのではなくて。

で、この問題は正直、『映画を早送りにする人たち』『ファスト教養』を読んだ時にも感じました。3つとも、自説や先行研究への批判をほとんど行わず、とにかく話が一本調子で進むんですよね。スタイルが結構似ていると思います。文章としては、非常に流麗というか、流れるような展開でスルスルと読めるんですが、逆に突っかかりや障害がなさ過ぎて、「いやほんとにそうなのか??」と度々感じてしまいます。そんなわけで、「近頃の左寄りの論者の問題がギュッと詰まっている」ということを最初に書いた次第です。

 

用語の定義も......

「近頃の左寄りの論者の問題」でいうと、用語の使用法にもいくらか気になるところが...... 本書で頻出するワードに、「階級」そして「格差」そして「新自由主義」があります。いかにも近頃の左派論者が好きそうなワードですね。本書では特に「階級」という言葉がよく出てくるのですが、これがほとんど定義がされず便利に使われすぎだと感じました。労働者階級、エリート階級という言葉が頻出し、「自己啓発書は読者の社会的階級を無効化する」とか、果ては「モテの階級」ということも言われるんですが、なんのことだかもう少し説明してほしいなと感じます。単なる年収を指しているわけではなさそうなんですが、じゃあそこでいう階級って何で測られているの? 本当に実態ある? というところが、ふんわりと使われすぎに思いました(ただ、新自由主義についてはp167でそれなりに説明されていて、そこはよかったです)

極めつけは「ノイズ」ですね。内容紹介でも書いたとおり、本書では、「ノイズがある=読書」、「ノイズが剥ぎ取られている=情報」と分類されます。かつ、自己啓発書やインターネットについては、「ノイズが剥ぎ取られている(情報である)」ことが指摘されています。そう考えると、「自己啓発書を読む=読書ではない」ということになりそうですが、本当かよと思います。あまりにも定義が曖昧であるか、自己啓発書を舐めすぎかのどちらかと感じます。本書の中心的問いであった、「社会人は読書ができないと言われているが、自己啓発書は読まれている」ということへの回答が、「自己啓発書は読書ではない」となるのは、正直おいおいおいと思ったところでした*3

それと、反例を取り上げないという話にも通じますが、現代の自己啓発書について、どんな本が売れているかとかがあまり紹介されないんですよね。僕のイメージでは『FACTFULNESS』とか、全く面白くはなかったけど社会的問題に触れている自己啓発書も売れているかなという感じなんですが、どうなんでしょう?

試しに自己啓発書の売れ筋ランキングを調べてみようと、ブックウォーカーというサイトを訪れたところ、

本書が一位でした自己啓発書とは何なのか、改めて定義を考えることも大事かもしれませんね。

 

お気持ちの表明が先行

「お気持ち」という言葉、本当は好きじゃないんですが、今回は使います....... 

本書の分析・考証パートは、上記の理由で、あまり説得力や納得感を得られませんでした。

ただ、感想の冒頭でも書いたように、本書の主張である「全身全霊で働くのをやめよう」「半身で働こう」については、よい提案だなと感じたのも事実です。

とはいえ、共感は覚えるのですが、あまりにお気持ちの表明が先行しすぎだとも感じました。この辺りの「半身」に関する主張は、主に第9章・最終章で行われるのですが、ここに来ると途端に改行が増えるのが特徴的です。

大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。

仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。

仕事以外の文脈を思い出すこと。

そのノイズを、受け入れること。

それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。(p181-182)

こんな具合の文章がしばらく続くのですが、急にふんわりエッセイみたいな文体にしだすのやめてほしいなと思いました。note読んでるんじゃないんだから......と。締めだけならまだしも、ほぼ2章分です。何か主張があるのなら、具体的に何を改善すればそれが実現するかとか、どういうところから制度改革を始めるべきだとか、ゆるふわ文体で凌ぐのではなく、もう少し最後まで粘ってほしかったなと思います。

ここも最近の左派論者の弱さを感じるところで、現代の問題を論じるという時に、新自由主義への批判をお気持ち的に表明しすぎなんですよね。これは自分の見解に親和的な人たちにはウケるかもしれないけど、本当に自己責任論を信奉する人間に対しては、全く説得的な議論になってないと思います(上の引用とかほぼ根性論だし......)。例えばですが、本当に経済成長は追わなくてよいのかとか、何らかの合理性があったからこそ新自由主義が台頭したのではないかとか、衰退を続けるこの国で焦りを抱かなくてよいのかという点は、もう少し具体的に論じて欲しいと感じました。

 

新書に何を求めるか

色々書きましたが正直なところ、これは新書に何を求めるかという問題でもあると思います。僕自身は、そういう左派のお気持ち表明はネットでいくらでも読めるのだから、新書では分析や論証を中心にしてほしいと感じています。ただ、これはかなり個人差があるとも思うので、次回「新書論」でも書いて、たくさん思うことを述べたいと思います。

ただ、やはり気になるのは、本書に本当に「ノイズ」があったのかということです。どうにも本書では、著者と異なる見解がほとんど紹介されておらず、新自由主義批判など左派論者にとって聞き慣れた話も並ぶため、言いたいことを言ってるなーというか、著者やそれに親和的な人たちにとっては「読書=自分から遠く離れた文脈に触れること」が起こらないのではないかなど、そういうことを感じました。逆に言えば、我々からすれば自己啓発書は「ノイズ」だらけかもしれませんね。実際未知の世界だし。

僕自身、読書をするときには確かに未知=自分から離れたところにあるものを求めますが、もちろんそれだけではないです。実用的な知識を重視することもあるし、単に笑いや刺激がほしい場合もあります。その点でいうと、本書はちょっと読書を神格化し過ぎという点も気になりました。「〈読書的人文知〉には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性や文脈性を重んじようとする知的な誠実さが存在している」(p156)といったことも書かれるんですが、あまりに読書の格を上げようとし過ぎていて、ちょっと怖いです。もちろん、読書に限らず「文化的趣味一般」の話なのだと最初に前置きされてはいるのですが、本編での話を読書に絞っている分、読書の多様性が失われていないかも心配でした。

で、僕個人としては、新書であろうとある程度は「しっかり論じる」ことを求めてしまいますが、その点は様々だと思います。むしろ、「我々は読書に何を求めるのか?」という点を、もっと争点にしていってよいのかもしれません。著者のようにやや崇高な理念を掲げてもよいし、単なる暇つぶしでもよいし、「売れてる新書を読んでもの申す老害修士卒の回」というクソ記事を書くためでもよいかもしれません(それはダメか)。本書は「読書」について扱った新書でありながら、やや「読書」の範囲を狭めるような見解も見えたので、最後にそのことを指摘しておきたかったという次第です。

 

 

 

 

 

終わり!!!!!

 

終わりです。

と言うわけで今回は、読書記録第6回でした。

この本、結構人気だし、著者も有名な方なので、批判的なことを書くことには正直かなりの勇気が要りました。25日振りの更新となったのは、この勇気が湧かなかったことが原因だと思っていただけると幸いです。ただまあ、ブログで自分の感想を書くのは自由だろうと、こうして一本書き切きったところです。著作権違反や事実誤認など、重大な問題がある際は遠慮無くご指摘ください。

あと、タイトルに惹かれたという方も、ぜひ遠慮をせずに読んでみてください。自分の感想を持つことが何より大事だ!!!!!!

 

次回は、「不正」についての本を扱う予定です。僕自身、仕事がら常に「不正」との闘いですが、この闘いは結構過酷です。それでは次回もよろしくお願いします。あしたのあなたがエネルギーで幸せになりますよに。合い言葉は、ハピエネ!!!!

 

 


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最近ハマっててよく見ています。

 

 

 

 

 

 

 

*1:一例として、第6章の議論を取り上げます。第6章では「『コミュ力』の時代到来」と題した節があり、ここで「BIG tomorrow」という雑誌が流行ったことが取り上げられます。1980年代に流行ったBIG tomorrowは、主に「職場の処世術」と「女性にモテる術」の2つを教えてくれる、男性にとって即物的で実用的な雑誌でした。で、これまでの分析で筆者は、70年代には学歴が重視されていたことを指摘しています。しかし80年代には、こうした教養的ではない雑誌が流行りました。なぜなのか? 筆者が言うには「答えは簡単で、サラリーマンの間で『学歴よりも処世術のほうが大切である』という価値観が広まったからだkindle版 p114)とのこと。なぜ学歴より処世術の方が大事であるかと言えば、80年代に入ると大卒者が増えてきた影響で、入社段階の学歴よりも、入社後のコミュニケーション能力こそが命運を分けると考えられたからだとか。

そこから筆者は、「労働に必要なのは、教養ではなく、コミュニケーション能力である。——当時のサラリーマンがおそらく最も読んでいたであろう「BIGtomorrow」のコンセプトからは、そのような当時の思想が透けて見える」Kindle版 p115)と言っているのですが、これが反例に着目しない例の一つ目ですね。正直なところ、雑誌一つ取ってそこまで言う? と思ってしまいます。もう少しそれに合致しない例もあるのではないかと。

ただ、筆者は、この事例一つのみで話を進めるわけではありません(早とちりで済みませんでした)。次に、同じ時代のベストセラー文芸に着目します。ここはまるっと引用します。

このような補助線を引くと、1980年代のベストセラー文芸――『窓ぎわのトットちゃん』が500万部超、『ノルウェイの森』が350万部超、『サラダ記念日』が200万部超――という華麗なる発行部数にも、ある種の合点がいく。というのもこの3作品、どれも一人称視点の物語なのだ。

[中略]つまりこの3作品、どれも「僕」や「私」の物語なのであるKindle版 p115) 

1980年代、つまり10年の間にヒットした3作品を挙げて、「どれも一人称視点の物語なのだ」と言っているのですが、ここは正直、3作品だけならそういうこともあるだろと感じました。ここで、「とはいえ、この時代には○○もヒットしていて、必ずしもそうとは言えないのだが......」とかがあれば別なんですが、本書全体を通じてそういうことはほぼ無いです。そして、上記の事例から、次のように続きます。

そう、70年代と比較して、80年代は急速に「自分」の物語が増える。そしてそれが売れる。これは当時、コミュニケーションの問題が最も重要視されていたからではないか。Kindle版 p116-117) 

この辺りの流れが、先ほどから書いている「自説の反証を取り上げない」「自説を補強する話ばかり取り上げる」といったところです。自己批判が本当にないんですよね。だいぶ長々と書きましたが、批判をするからにはちゃんと証拠を挙げなきゃと思い、このようになった次第です......

*2:ただ一箇所、伊藤昌亮のひろゆき論は明確に反論されていた p155

*3:あと、面接に来た若者がフリッパーズ・ギターを知っていたという事例が紹介される際、「若者と、フリッパーズ・ギターの間には、『(自分の時代とは関係のない)過去の流行』というノイズ性が横たわっている」(p177)と言われているのですが、「過去の流行」ってノイズ性なんだとは思いました。それをノイズに含むなら、世の中でノイズじゃないことってほとんどなさそうですが、どうなんでしょう。なんだかこの辺よくわからないなと感じたところです。

人間に嫉妬してるんだ:読書記録#5 山本圭『嫉妬論』(2024,光文社新書)

この度、私事ではございますが、お風呂の読書で使っているKindle PaperWhiteが2台ともぶっ壊れました。

1台は無限に再起動(アップデート?)を繰り返しており、もう一台は木の画面のままピクリとも動きません。1台目がたまにこの状態になるため、2台目を買いつつ両方使っていたわけですが、この度無事にどちらも死亡しました。

防水とはいえ、お風呂でずっと使っているのがよくないらしいです。使った後は浴室にそのまま放置するのではなく、よく拭いたうえで乾かしとかなければなのだとか(当たり前か)。 僕はこれでKindleを3台破壊していますが、ようやく「風呂に放置するのはダメ」と気付きました。遅すぎる。

そんなわけで、最近あまり風呂読書が出来ていないのですが、先日読み終えた本を紹介したいと思います。

山本圭『嫉妬論』(2024,光文社新書)

今年の2月に出た新書、『嫉妬論』です。ポケモンXYカロス地方ミアレシティのジムリーダーは?(それはシトロン)。くだらないことは言ってないで、いつも通りやっていきます。

あと先に断っておくと、タイトル詐欺というか、ハガレンの話は別にしていないです。ほんとすみません(今回マジでタイトルが思い浮かばなくて......)

 

読んだきっかけ

あまりちゃんと書いたことはないような気がするんですが、私、名古屋大学を卒業しております。牡丹亭で学生セットを頼むとか、名大おじさんがいなくなってしまったとか、名大生あるあるもちゃんと言えます。専門は法学系だったわけですが、政治学の院ゼミにも顔を出したりしておりました。もう5年ぐらい前になります。

で、本書の著者である山本圭さんも名古屋大学で博士を取っているということで、なんとなく、かねてより一方的に親近感を覚えておりました。政治学や哲学系の授業で名前を聞いたりもしていたので。そしてこの度新書が出たので、読んでみようと思った次第です。

もうひとつ、最近政治哲学の議論から離れがちだったので、この機にもう一回摂取しておこうと思ったのがあります。社会人になってからも読書は続けてるけど、こういう学部時代の専門の分野はあまり読まず、どちらかというと雑学・教養系の本を読みがちです。ので、改めて政治哲学の話に触れることで、どんなノスタルジーが生まれるかというのが気になっていたところでした (3月に読み終えたのでそのときは意識していなかったが、ちょうど今は都知事選がありタイムリーですね)

 

内容紹介

早速内容紹介ですが、本書は「嫉妬」について扱った本です。ただし、嫉妬するのをやめようとか、そういう自己啓発系の本ではなく、「我々の嫉妬感情というものが、この社会や政治にどのような影響を与えているか?」についてを論じています。社会学政治学系の本です。

著者はまず、嫉妬という感情が隠蔽されがちなことを指摘しております。我々は普通、他者に対して「怒っている」とか「許せない」ということは口にしますが、「私は○○さんに嫉妬しています」とはなかなか言いません。言うとしてもよい意味で「羨望」的なニュアンスだろうし、「俺は○○が嫉ましいのでこうやって批判しています」ということを明言する人はいないはず。一応本文から引用。

私たちは嫉妬の存在を容易には認めようとしない。誰かの成功に妬んでいたとしても、「あいつは大したことない」といったように、その価値を否定することで自分を慰めることも多い。そのためこの感情は、たとえば怒りや悲しみといった感情に比べると、ストレートには表に現れにくい。それはたいていの場合、自らを偽装する。

山本 圭. 嫉妬論~民主社会に渦巻く情念を解剖する~ (光文社新書) (pp.37-38). Kindle 版. 太字は引用者。

そんなわけで、嫉妬は表に出されないので、これを主題として扱うことは結構難しいわけです。

ただ、本書はあえてそこに挑んでおります。これも続けて引用します(上の文章の続きです)

そのためだろうか、現実の政治分析において、嫉妬が主題化されることはあまりない。だとすると、この感情にはどのような特徴があり、それが人々の判断や評価にどれほどの影響を与えているのか、あるいはもっと広く、嫉妬が持つ政治的な意味合いについて、私たちはあまり理解してこなかったのではないだろうか。本書が目指したいのは、この感情の秘密を心の暗部から引きずり出し、そこに光を当てることである――たとえその作業がときに苦痛に満ちたものだとしても。Kindle版,p38、太字は引用者)

このように、「今まで正面から取り上げられてこなかった『嫉妬』という感情を、政治的な文脈できちんと扱う」というところが、本書の一番の特徴であるかと思います。本書でも言われている通り、我々は嫉妬という感情を、他人に対してだけでなく、自らに対しても隠しがちです。嫉妬していることを自ら認めるのは大変悔しいことであるため(ここはハガレンのエンヴィーの最後みたいですね)。ただ、我々の社会に嫉妬心が渦巻いているのは事実であるため、まず嫉妬とは何なのか、それが現実にどう影響しているか、そして我々はそれとどう付き合っていくべきか..... というのが本書の内容となっています。

もう少し具体的には、第1章が嫉妬の概念分析、第2章が「嫉妬の思想史」、第3章は嫉妬と「誇示・自慢」の関係について、第4章・第5章が嫉妬と民主主義(政治理論)との関係について、となっています。第1章は導入のようなものだけど、第2章はプラトンプルタルコス、カント、ヒューム、ルソー、福沢諭吉など、過去から現代に至るまでの多様な思想家を扱っていて、まさに「嫉妬思想の系譜図」が見て取れます。第3章ではSNSなどの話もしているため、より今日的な問題を知りたい人にはここが刺さるかも。4章・5章は著者の政治哲学上の見解が現れており、まさに嫉妬と民主主義の関係が論じられます。

著者の結論を大雑把に言えば、「この社会から嫉妬をなくすことはできないし、むしろそれとうまく付き合っていく方法を探す方が有意義だぜ」という感じ。我々は、嫉妬するときは苦しいし、他人から嫉妬を向けられるのも結構嫌です。そのため、嫉妬なんて無い方がよいと思いがちですが、著者の見解はそうではなく、まず、嫉妬をなくすのが「無理」とのこと。その理由というのは、「嫉妬というのは他者との差異に気付くことから生まれるが、この現代民主主義社会で、他者との差異をゼロにすることなどできないから」となります。これも引用しておきます。

嫉妬は等しい者同士のあいだに生じるものだが、同時にそこには最小限の違いが求められることに注意しよう。つまり、嫉妬は平等と差異の絶妙なバランスのうえに成立する感情なのである。そしてほかならぬ平等と差異こそ、私たちの民主主義に不可欠な構成要素であるとすれば、嫉妬が民主的な社会において不可避であることが理解できる。Kindle版, p221、太字は引用者) 

続けて著者はこうも述べます。「嫉妬のない社会とは、人々のあいだに差異のない完全に同質的な社会であるか、絶対的な差異のもとでいっさいの比較を許さない前近代的な社会であるかのいずれかであろう」Kindle版, p221)。つまりは、前近代的な社会では、身分差が固定されており、平等というものがまるで無かったが、その分、平民が貴族に「嫉妬」するようなこともなかったわけです。まるで階級が違いすぎると、逆に嫉妬は生じないと。「あいつと俺は同じはずなのに、なぜこうも違うのか......」というのが嫉妬の根本に存在する感情であり、そこでは「ある程度の平等」というものが条件となっています。

で、この「あいつと俺は同じ人間だ」というのを強く打ち出したのが、民主主義というものでした。我々はみんな平等であるからこそ、絶対の支配者というものを置かずに、絶えず自分たちで反省を繰り返しながらやっていこうと。ただ、「平等」と言っても完全に誰しも同じというわけではなく、現実には様々な「差異」が存在しています。この差異というものも、民主主義にとっては重要な要素です。そのため、平等と差異が民主主義の条件である以上、「嫉妬と民主主義は切っても切り離せない」と著者は考えます。逆に、嫉妬を敵視しそれを無くそうとするような政治理論に対しての批判も述べられています(批判対象としてはヌスバウムなど)

内容紹介としてはだいたいこんな感じです。最後に、じゃあ僕たちは嫉妬とどう付き合っていけばいいの? というところについては、是非本書を読んでご確認をということで....... 嫉妬についての思想的・社会的・政治的分析がたくさん詰まっており、また、ある意味「政治学入門」的な要素も含む一冊で、おすすめです!!

 

読んだ感想

まず正直なところ、この本、めちゃくちゃ面白かったです。まさに「新書の楽しみここにあり」という感じでした。専門家が自身の研究内容を、ちょっとキャッチーな話題で分かりやすく初学者に伝えるということが、非常に効果的になされていたと思います。文書も読みやすく、内容が専門的な割にはスラスラと読めました。

個人的には、2章・3章辺りの内容が特に面白かったです。2章・3章は、過去→現在という時間軸で嫉妬に関する思想の変遷を追っていて、登場人物やトピックは多いのだけれど、どれも説明が簡潔でよかったです。思想の系譜なんかは、ともすれば学説の列挙になりそうなところを、ちゃんと読みやすい一本の流れを作っているのはすごいなと思いました。

逆に、4章は個人的にはちょっとイマイチでした。内容としてはロールズ批判になっているのですが、ちょっと批判としては弱いかな〜〜と感じたところ。話の筋としては「ロールズは格差を減少することで嫉妬が抑えられる言ってるが、むしろ格差を縮めると、嫉妬が蔓延し手に負えない社会になりかねない」という感じなんですが、個人的には、「格差が縮まることで弱められる嫉妬もあるだろうし(同期のボーナスが自分より20万多いよりは当然5万しか差がない方が我慢できる)、そもそも格差の減少は、嫉妬以上に大切な何かを解決しているのではないか?」などと思ったところです。第1章では「よい嫉妬」「悪い嫉妬」などの話も出てくるのですが、それがここではあまり活かされていないように感じました。この辺は反論もあるかと思いますが、一応感想として書いておく次第です。

 

「どう見えるか」と「実際にどうであるか」

で、本書の感想はいくつかあるのですが、正直どれもうまくまとまってはおらず、書いても面白くないだろうな〜〜〜と思っているところ。3月に読み終わってたくせにここまで感想書くのが遅れたのはそれが原因ですね、、、ちょっと微妙な感想ばかりになるのですが、一応書いておきます。

本書の感想は諸々あるのですが、一つに個人的に以前から気になっている問題、すなわち、どう見えるかと実際にどうであるかの問題というのがあります。

この記事の最初の方で、「嫉妬の感情は隠されやすい」ということに触れました。本人が実際は嫉妬心を行動原理としていたとしても、それを表立っては言わないし、なんなら自分自身でも認めようとしないので、「本当に嫉妬感情が原因なのか?」というのがよくわからないという話です。

これは裏を返せば、相手の言動に対して、「ただ嫉妬してるだけだろ?」とも言いやすいということだと思います。そういう煽り、よくありますよね。相手がそれを認めたがらなければ「誰だって嫉妬を認めたくはないもんな」と言い返せるし、とりあえずと言っておけばいい感があるので、批判や中傷の手段としてもお手軽です。当然、相手を矮小化した言葉なので、真摯にその人と向き合ってる限りは出てこなさそうですが、まあネットでも現実でもよく目にする論法です。

で、本書でも度々、「これこれの社会制度は、実は人々の嫉妬心に結びついている」ということが言われます。例えば累進課税制など。あれは富める者から多く取る制度なので、人々の嫉妬心をある程度利用していると。また筆者は、古代アテネで取られていた「陶片追放」も、人々の嫉妬心に基づいていたと言います。そうしたところから、民主主義と嫉妬の切り離せ無さを主張したりもしています。他にはコロナ禍の自粛警察なども挙げられています。

ただ、別に本書への批判というわけではないのですが、この点は本当に慎重であるべきだなと感じました。つまりは、一見すると嫉妬が原動力に「見える」ことでも、「実際にどうであるか」という点については、我々はもっと想像力を働かせられるだろうということです。嫉妬も確かに、その行動の原因の一つとしてあるかもしれないが、それ以上に不正を許さない心や憤りがあるかもしれない。その人の感情の一部でしかないものを、まるで「それが全部」であるかのように見なすのは、本当によくないな〜〜と思います。嫉妬してるだけだろ? と言うのがあまりに簡単すぎることもあり、そう「見える」ことと「そうである」ことを混在させてはならないと強く思います。

そんなわけで、感想としては微妙なんですが、ともかく「相手の感情を一方的に決めるのはやめよう」ということを、改めて思った次第でした。

ちなみに、どう見えるか(how it looks)とどうであるか(how it is)は違うというのは、映画『スーパー!』を観たときに出てきたセリフです。この映画、僕は非常に好きなので観るものを探しているという方は是非。

この映画も、「一見嫉妬心に狂っているように見えて、実は正義の心があった」という話かもしれないですね。

 

ヘイト管理は重要だ!!

もう一つ、本書の感想として、やっぱりヘイト管理は大事だなと思ったのがあります。現代人にとって最も重要なのはこのヘイト管理かもしれませんね。

本書の第三章は、嫉妬と「誇示・自慢」との関係となっています。これがどういう関係かというと、昔の人は、他人から嫉妬されるのを避けるために「誇示・自慢」を控えていた(あるいは上手にやっていた)という話が挙げられています。例えば大昔、狩猟でマンモスを仕留めた若者は、そのことを皆に自慢するのではなく、むしろ謙虚に振る舞うようにしていたとのこと。あまりに功績を上げすぎると、他人の嫉妬によって引きずり下ろされるリスクが高まるので、あえて自身の分け前を少なくしたり、功績自体を隠蔽したりしてリスク管理するということですね。

で、面白いのが、著者の見方によれば、現代のSNS社会ではそうではないとのこと。引用すると、

かつて「持つ者」は「持たざる者」からの嫉妬を恐れ、富や成功を隠す傾向にあったが、ソーシャルメディアの時代にあって人々は自身の幸福をもはや隠そうとはしない。それどころか、自身の幸福を過剰に繕い、実態以上に見せることすらある。Kindle版, p153)

 ここは本当に、「たし蟹」と思ったところでした。特にインスタが顕著かと思いますが(というのは時代遅れおじさんの偏見ですか.....)、我々は自身の充実振りを臆面もなくアピールしたりしていますね。Youtubeでも「セレブの日常」や「ラブラブカップルのいちゃつき」なんかがちゃんとウケているし。まあ本当は皆、チャンスがあれば殺したいと思いながら観ているのかもしれませんが.......

で、結局ウケている人間というのはヘイト管理がうまいんだという話もよく耳にします。僕もブログをやっていて、実は一番怖いのが炎上です(次に身バレ。身バレして炎上したら本当に終わり)。で、炎上回避のコツとして、当然不正や差別に加担しないことがあるけれど、同時に嫉妬をうまく管理するということがあるかと思います。つまりは、人の目を引くコンテンツでありながら、オチとして自虐や失敗を入れるなどして、妬みを向けられないようにうまくコントロールするということですね。

先ほどの話でもあった通り、著者の見解としては「この社会から嫉妬はなくせないし、なくそうとするとさらなる不都合が生じる」というものでした。だからといって当然、嫉妬が奨励されたり全肯定されたりするというわけでもありませんが、ただ嫉妬が不可避なものだとしたら、我々の「ヘイト管理」こそが重要になるのかもしれません(自己防衛)。そんな社会は窮屈で嫌だ!! とは思いますが、一方で、それこそ我々が身につけるべき慎ましさや処世術なのかもしれない、とも感じます。格差というものは確かにこの社会に存在するので、自身の幸せのみを誇示するのではなく、「それを見た人々が何を感じるか」というのを考えるのも大切というか。

今時こんなこと言う人もいないかなとは思います。今はむしろ、「我々には自由に発信する権利があり、そこに嫉妬を覚える人間こそが狭量である」という見解が強いはず。ただ、この点については筆者の「嫉妬のない社会など無理」という意見に僕も同意で、嫉妬がどうしても生じてしまう社会だからこそ、我々は自身の嫉妬を抑える術だけでなく、「相手の嫉妬心を煽らない方法」も模索していくべきなのではないかと感じます。それは炎上回避の自己防衛でありながら、格差や差異に敏感であるという他者への配慮も含んでいるのかもしれません、な!!!

歯切れの悪い微妙な感想でほんと申し訳ないっす!!!! あんまりまとまった感想が浮かんでこなくて、、、、

 

 

 

以上

今回は読書感想第5弾でした。

非常に面白い本だったのですが、なぜか感想をまとめるのが難しかったです。読んでから書くまで3ヶ月もため込んでしまった、、、あとタイトルを考えるのも難しかったです。最初にも言ったけどタイトル詐欺ですみませんでした。

僕の記事は歯切れ悪しでしたが、これぞまさに「新書の楽しみここにあり」な本なので、ぜひ読んでみてください!! 政治哲学に触れてみたいという方は特に。

今回はこんな感じです。

次回。社会人の皆さん、本、読めてますか? 読めてませんか? 読めてないとしたら、最近出たあの新書が気になっているかもしれませんね。近いうちにあれを扱います。それではそれでは。

 

 

 

 

 

 

おまけ

結局、Kindle Oasisを買いました。3万円。高い!! 大事に使います。

 

 

 

 

 

 

どうなる!? 混沌極まる東京都知事選

皆さん、東京、住んでますか? 僕は住み始めて約1年と4ヶ月になります。住む前は「人の心も枯れ果てたコンクリートジャングル」などと思っていましたが、住んでみると意外と居心地がよく、なんだかんだいい場所だなと思っています。ただしこれからの季節は地獄です。

で、2024年6月23日現在、東京都を賑わせているものがあります。もちろん東京都知事ですね。僕はテレビは見ませんが、Twitterのトレンドという名の掃き溜めはわりかしチェックしています。そして、そこではいつも都知事選のニュースばかり入ってきます。住んでいる地域のトレンド的な感じで。

で、僕は本当に毎日なんかしらこの話題を見聞きしているのですが、東京に住んでいない人にとってはそこまで関心のないことかもしれません。かつ、この東京都知事選によってどんなカオスが巻き起こっているも、あまりご存じでないかもしれません。やべーことになってますよ皆さん!!

そんなわけで、今日は一東京在住者から見た都知事選の雑感となります。こういう記録を残しておくのも大切かもしれませんね。できるだけ特定の候補者を持ち上げたり貶したりということはしないつもりですが、まあ左寄りの思想の持主であることはご容赦ください。とはいえ、自分の政治的意見を出すというよりは、「マジでこの選挙、どうなるんやろな〜〜〜」という、この頃の肌感覚を記しておくのが狙いです

 

混沌の都知事

まずは、今の東京都に掲示されている選挙ポスターを見てみましょう。出勤時に毎朝見かけています。

まずですね、掲示板がデカすぎですね。これは去年の文京区区長選挙の時も思いました。東京は候補者が多いようで、他のどこでも見たことのないような掲示板のデカさになっています。まずこれにビビる。これを都内の至るところに設置するコストだけでもかなりのものでは。ちなみに今回の立候補者は56人とのことです。

そして皆さん見えていますでしょうか、一帯を占める黄色いポスターが。これが東京都知事選のカオスその1、NHK党による掲示板ジャックです。ここは立花氏の写真が貼られていますが、他のところにはオーケストラの広告やよく分からん宣伝画像が掲載されていたりします。

↑風俗の広告も載せて警告を受けたらしいです。

これがどういうことかというと、NHK党の立花氏が広告掲載主を募って、一人当たりいくらという金額をもらいつつ、選挙ポスターを完全に広告として利用しているという感じです。

今回の都知事選で、NHK党は関連団体を含め、24人を擁立した。「掲示板をジャックして、あなたのビジネスを広げるチャンス」と呼びかけ、寄付した人に対し、都内約1万4000か所にある掲示板のうち、1か所を選んで、自作のポスターを貼る権利を譲っている。

候補者と無関係のポスター、有料サイトに誘導のQRコード…東京都知事選挙で苦情殺到 : 読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/election/tochijisen/20240621-OYT1T50195/

そんなことしていいの?? というのが率直な感想ですが、今回の選挙中はずっとこのままかもしれません。次回からは何かしらの規制が入るんでしょうか。

また、選挙ポスターについては、ほぼ全裸の女性の写真を載せて掲載を撤回されたところがあります。これが都知事選のカオスその2ですね。

こちらの候補者の河合悠祐氏、ほぼ全裸のポスターは撤回されたのですが、依然として「一夫多妻制を導入します」と宣言するポスターは貼られており、街中で見かけるとかなりカオスです。ちなみに↑で挙げた写真では、京大の学位記を持ちながら「僕は学歴詐称してません!」と呼びかけ、小池都知事のことを意識したものとなっています。

小池都知事については、学歴詐称疑惑が連日ネットニュースで流れてくるのですが、これが東京在住者以外に(東京在住者にとっても)どれだけチェックされている(関心のある)ことなのかはよくわかってないです。

どうでもいいですが、「なぜヌードを公然と掲示してはいけないのか」というのは、法哲学的に興味深い(蓄積のある)議論と思います。公然猥褻だろ!! と怒られているわけですが、当人からしたら「その公然猥褻というのが、そもそも不当に表現の自由を制限しているんだ」という問題意識があるわけで、規制されるべき表現とは何かという問題を改めて提示していると思います。

かつ今回は「そもそも選挙の候補者を掲示するための空間に関係のないことを載せていいのか?」という問題もありそうです。この辺、サンデルなんかは「その掲示板が果たす機能や目的から考えよ」などと言いそうですが、現代リベラルの政治哲学者がどんな見解を示すかは気になります。やはり基本的には自由であるべきなんでしょうか。

そんなわけで、ここまではまぁまともに勝つ気はないだろうという候補者を取り上げてきました。今回の都知事選では「選挙を単なる売名行為に利用してよいのか」という問題意識が各所で上がっています。これについては「確かに」と思う一方で、他方今から「選挙や民主主義に求められる徳」というものをきちんと示していくことも難しそうだと感じています。投票率がここ十数年に渡り下方を続け、そのたびに選挙の大切さというものが説かれてきましたが、むしろここにきてより状況が悪くなっていないかという印象です。逆に、行くところまで行き着くことで、ここから再生されていくのでしょうか!? なぜ選挙でふざけてはいけないのか、選挙には最低限どういった徳や倫理が求められるのかというのは、きちんと考えなければならない問題だと思います。

 

小池 VS 蓮舫 VS 石丸?

で、次は真面目に争っている候補者についてです。

今回の都知事選、僕の元に流れてくるニュースでは、小池 vs 蓮舫になりそうと報じられています。現職の小池都知事がこのまま勝つか、勢いのある蓮舫氏がそれを上回るか。第三候補としては、安芸高田市の議会でお馴染みの石丸氏が上がっています。他だと保守系の田母神氏とか、ネット探偵を自称するYoutuberの暇空茜氏の名前をよく見かけていますが、まあ有力なのは小池・蓮舫・石丸あたりかと思います。

そしてこの3人、僕ももちろん名前は知っているのですが、掲げている政策については正直調べておりませんでした。この3人が勝つことで都政がどうなるか? というのは単純に気になりポイントです(後述するけど、政策よりも不祥事やスキャンダルの方が争点になってそうで、政策の比較とかあんまりされてない気がするんですよね)。こちら、この機に調べましたので、以下簡単にまとめておきます。

 

小池百合子

箇条書きでメモとして書いていきます。

  • 2期連続で当選しており、現在8年目。
  • 公約として『東京大改革3.0』を打ち出している(前回の選挙では2.0だったとのこと)。①セーフシティ ②ダイバーシティ ③スマートシティの3つを大きな項目としており、災害対策と少子化対策に力を入れているように見える。少子化対策としては、出産助成、保育の無償化(第一子まで)などなど。
  • 最近はAIゆりこも話題になった。あの技術すごいですよね。
  • 3期目ということで、2期目の公約をどれだけ果たせたのかが争点になりそう? ペットの殺処分ゼロ・待機児童問題・満員電車問題についてはだいぶ達成度が高いらしい。(参考
  • ぶっちゃけ、僕自身の東京都民歴が浅いので、2期目のことを踏まえて3期目を評価するというのが難しい。僕はコロナ禍も東京では過ごしていないため、このコロナ禍を共に過ごした都民からの評価が気になるところ。
  • 今は学歴詐称問題で世間を賑わせている様子。学歴詐称問題というのは、小池氏がカイロ大学を首席で卒業しているというのが、捏造された情報なのではないかという問題。最近は関係者の証言なんかも飛び交っていてカオスが深まっている(参考)。
  • 他に批判されている点としては、大規模な予算を使ったプロジェクション・マッピング神宮外苑の再開発など。何十億というお金が動くため、もっと有効活用できないのかなど(競争から指名排除されている電通を使っているのも評判が悪い様子)
  • 逆に言うと、学歴詐称疑惑と予算の無駄遣いぐらいしかウィークポイントがない? 前者も疑惑に過ぎないし、現職でやっている人間を引き下ろすにはちょっと弱いような。まあ最有力候補というのも頷けますね。

 

蓮舫

  • 今でも民主党時代の事業仕分けが印象的だが、今回は無所属で出馬。
  • どうでもいいが、本名は齊藤蓮舫で、「蓮 舫」という名前のわけではない(今回初めて知った)。政治家は通名でも活動ができるとか。
  • 公約としては「7つの約束」を提示している。小池氏と同じく少子化対策に力を入れているが、方向性としては現役世代の手取りを増やすことを重視。あとは「行政の透明化」を前面に出しており、都のデータをオープンデータ化するなどとも書いている(逆に防災のことは少ししか書いていない)
  • 他にも、パートナーシップ制度の推進や、神宮外苑再開発の見直しを行っている点は、小池都知事との差別化になりそう。
  • スキャンダルとしては、二重国籍問題と公職選挙法違反疑惑のことなどか。二重国籍についてはこちら公職選挙法違反疑惑についてはこちらなど(説明するとどうしても長くなるので各自調べるべし)。これもウィークポイントとしては弱そうに感じるが、民主党時代のこともあり、保守層からの受けが悪いというのはまあ分かる。

 

石丸氏

  • まず今回驚いたのが、石丸氏は個人ホームページがない......? 絶対あった方がよいと思いますが。
  • 公約として出されているのは、①政治再建、②都市開発、③産業創出の3点。ITツールを使ったり教育への投資を行ったりと「合理化」が一つのキーワードになっている様子。小池・蓮舫にあった少子化対策が掲げられていないのは印象的。経済発展政策に力を入れるということの表明か(こちらを参照)。
  • 強みとしては、安芸高田議会で見せた痛快な議論、理路整然としたしゃべりと、まだ41歳という若さなどか。
  • 弱みとしては後ろ盾となる政党や団体がないことが挙げられている様子(組織票を得にくいなど)。
  • ぶっちゃけ、政策があまり詳しく書かれていないので、そこの判断が難しいですね。「AIを活用して民意を集約し政策に反映」ということも書かれているのですが、どうやるのか..... 『一般意思2.0』的なことをするのか、気になります。

 

どうなる!?

あくまで個人的にですが、政策面で気になるのは蓮舫>石丸>小池の順番となっています。小池都知事に関しては、現状の2期目と次の3期目で何をどう変えていくつもりなのかが気になるところ。革新的な政策よりは「安定感」の方が売りなのかもしれません。対して蓮舫・石丸は現状打破を狙っている印象で、特に蓮舫の「現役世代の手取り向上」と「都政のオープンデータ化」は実現したらすごそうだと感じています。石丸氏のIT活用なども面白そうですが、具体的に何をするんだろう.....というのがよくわかっていないです。

そして都知事選のカオスその3ですが...... ネットニュースを見ていると、こうした政策の比較よりも、互いがどれだけの不祥事やスキャンダルを持っているかというのが重視されているように見えます。小池氏は学歴詐称の信用ならん奴だとか、蓮舫二重国籍で中国に肩入れしているだとか、石丸氏は漫画オタクを詐称しているだとか(最後のはマジでよくわからん)。そして、いつの時代もそうかもしれませんが、人格やキャラクターが非常に重視されているとも感じます。ので、なんかしら都知事選の情報が入ってくると、政策の検討ではなく誰かの人格面を貶しているようなものが多いため、正直結構疲れてもいます(それ以外のニュースは、前半で取り上げたような「そんなことしていいの?」系のものが多いし)

とはいえ、これは都知事選がカオスなのではなく、ネットがカオスなだけかもしれませんね(ある意味通常運転ですが)。大変失礼いたしました。

 

選挙の話題をどう語るか

最後に、選挙や投票に関してですが、去年何かの記事で有権者は負ける候補に票を入れることを好まず、投票するなら勝てる人間に入れる傾向がある」というのを読みました。この話が大変印象に残っています(検索したが見つけられず...... 元記事知っている人いたら教えてください)。自身が票を投じた者が負けるのを「ダサい」と感じる感性と言いますか、「勝たせたい人に入れる」のではなく、「勝ちそうな人に入れる」ものとして紹介されていたと思います。本末転倒といえば本末転倒ですね。

読んだときは、匿名投票なんだからそんなの気にしなくても..... と思いましたが、今はなんとなく気持ちはわかります。自分が投票した者が結果的に敗れ、後からボロカスに言われたりすると、自分も嫌な気持ちになったり傷ついたりするので、最初から勝てるやつにしか投票しないという心理。これは確かにありそうに思います。『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』でも似たようなことが書かれていたような。

で、今は都知事選が熱いので、僕としては周囲ともできれば一度はこの話題に触れたいと思っているのですが、政治への無関心とは別として、上記心理もこれを阻害する壁としてあるように感じています。つまり自分が支持した者が負けると恥ずいので、最初から口に出さないというか。もちろん、支持者なしだったり、無用な対立を避けるために口に出さないということも全然ありますが、「負け馬に乗ったところを見られたくない」ゆえに意見表明を避けることがあるとすれば、結構現代的な問題なのかな? と思います。

ちなみに、今回の僕の選挙への見立てとしては、まあやっぱり小池氏が有力なのではという感じです。現職ということと、提示されているスキャンダルの弱さなどから、「勝ち馬」度合がやはり強いと感じます。ただ、個人的に応援しているという意味では蓮舫・石丸市長の方となります(別に小池氏が勝っても全然よいのだが、なんとなく)。特に石丸氏は、今後もっと具体的なビジョンを出してくれれば推せるのにと感じています。そんなわけで、僕も「外して恥ずかしい」などとは考えず、今の予想や支持者を書いておきたいと思った次第です。

そして今回挙げた3つのカオス、N党の掲示板ジャック、売名過激ポスター、候補者の人格面の貶し合いというのが、どこかで終息してくれれば.....と思っています。これらは現在の選挙を刺激的にしている半面、正直、疲れてきたというのがこの頃の都知事選への感想です。疲れてきている。ネットばかり見ているのがよくないですね。今こそ新聞を取った方がいいのかもしれない。

投票まであと2週間ありますが、この2週間でどんな事件が起きるか、そしてどのような結果となるか、疲労とワクワクの両方を感じるこの頃です。

 

 

以上

今日は珍しく政治の話をしてみました。あまり思想の色を濃くしないようにと思いましたが、田母神氏・暇空茜氏あたりをちゃんと紹介してない時点で左一色だとの批判は受けそうですね。その点は申し訳ないです。疲れていまして、、、、

ただ、こうして目下の選挙に触れている自分を「立派だな」とも感じています(偉いぞ!!)。とかく我々は、政治的意見を表立って表明しない割に、他人のことはひそかに馬鹿にしがちだと思います(あいつは○○を支持してるらしいぞとか)。よくないな!!!! 健全な心を心がけていきたいところです。

特に非東京在住の人に、この頃の都知事選の温度感を知ってもらいたいというのが今日の狙いでした。東京は日々カオスですが、総合的にはいい街です。皆さんもぜひ、この機に東京を訪れて、クソデカ選挙掲示板を目にしてみたりしてください。それでは。

 

 

~エンディングソング「カオスが極まる」~


www.youtube.com

 

 

 

 

 

社会人だが勉強を頑張る 〜『かもめチャンス』の話なども〜

ども!! 梅雨の足音が近づく今日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。じわじわと暑い。夏の到来を感じますね。


あじさいが咲いてますよ。

僕は結構梅雨が好きです(唐突な告白)。じめじめして嫌だという人も多いですが、初夏を感じられてよいんですよね。皆さんもスピッツの「あじさい通り」なんかを聴くようにしてください。

さて今日は、この頃頑張っていることなどについてです。この頃、地味に勉強を頑張っています。皆さん、勉強、してますか? 僕は現在社会人2年目ですが、社会人で「勉強」を頑張っている人はそう多くないのではないでしょうか。つまり僕は偉い。

ちなみに勉強というのは、英語やビジネススキルや資格勉強のことではないです。仕事の役に立つからやっていることではなく、もっとこう、単に「知りたいことがあるから学んでいる」ということになります。その意味では、勉強と言うより「探究」と呼んだ方がいいかもしれませんね(恥ずかしいから呼びませんが)。仕事と関係がないわけではないんだけれど、仕事のためにやっているのではなく、あくまで自身の好奇心から調べていることになります。

で、今日はこういった「社会人になってからの勉強」について、諸々考えていることを書きたいなと思います。

 

何を勉強しているの?

何を勉強しているのかといえば、この頃は「研究の社会的責任」というものに興味があります。もう少し言うと、「大学の研究や科学技術は、社会に対してどのような責務を負っているか。また、その責務はどのような形で果たされるのか」ということに関心がある感じです。これだけだとかなり広く漠然としているので、もうちょっと詳しく書きたいのですが、その前に、自分自身の関心の変遷を書いておこうと思います。

 

入職前

仕事に就く前、つまり大学院生の時は、倫理学法哲学という分野をやってました。ただ、そこで↑のように「科学技術の社会的責任」というのを考えていたわけではないです。

当時の自分の関心としては、「倫理や法というものを、『社会感情』とどう折り合いを付けてやっていくか」というのがありました。例えば、夫婦別姓同性婚といったことについて、「倫理学」の立場からはそれが支持されるとしても、「社会的な感情」を見ると、何かしらの忌避感や嫌悪感があったりして(最近はかなり賛成派も増えてそうだが、自分が研究やってた時期にまだ反発が強かったため、癖でこの例を出してしまう)、じゃあ法はそういうときにどっちにどうすべきだろうね? というのが関心でした。分野としてはリーガル・モラリズムとかが該当すると思ってます。人々が一般的に抱いている感情、特に偏見や思い込みを含むような感情について、法はどう向き合うべきかといったことに興味がありました。

で、この時から、何かしら「社会に対する説明責任」というものに興味があったのだと思います。僕の立場としては、社会感情は確かにヤベーものも多いのだが(今の都知事選に関するネットのご意見を見ていると特にそう思う)、ただこの社会に生きている人たちの生の声だし、法や倫理の議論の中でもどこかで拾うべきではないか..... という感じでした。

あと、倫理学法哲学をやっていたことで、「責務」というものへの関心が高まったように思います。義務や責任と言い換えてもいいですね。例えば「○○は××に対してどのような責務を負っているのか?」という文字列が出てきただけで、やったーーー!! 責務の話だーー!!ってワクワクしてしまう。だから「大学が社会に負っている責任」とかの話も、学生時代のうちから受け入れる地盤ができていたのだと思います。

ただし、ここで「大学」を代入させるようになったのは、やはり働き始めてからの関心が強いと思います。

 

入職後

そんなこんなで、大学院を修了して、2023年に大学事務職員になったわけですが、今は大学の財務関係の仕事をしています。主に、研究室が「これ買いたーい」というので「うーん、わかった!」と言う仕事ですね(嘘です。もうちょっと煩雑です)

で、財務の仕事は、とかく書類や手続が多くて面倒なのですが、その面倒さの多くが、社会的な説明責任と関係しているのではないかと感じています。財務は何も、内部のお金をしっかり管理することだけではなくて、その管理の適切さを外部、つまり社会に対しても示さなければならないのだと。

一例を出すと、大学では文房具や書籍などの少額なものは研究室で勝手に購入することが可能です。その際は自分で購入を行った後「この研究費で払いたい」というのを事務部に伝えて、事務部で支払い処理をする流れとなります。

ただ、何百万円もするような高額案件では、研究室が勝手に発注することはできず、「事務部に発注を依頼して、契約手続を行ってもらう」こととなります。ちなみに今の僕のメイン業務がこれですね。そうすると事務部の方で、研究室が使う備品について業者に連絡を取ったり、見積もりを取ったり、入札を実施したりして、契約手続を行うことになります。

で、正直なところ、「なぜこんな面倒なことを???」と最初の頃はずっと思っておりました。ぶっちゃけ意味が分からなかった。我々第三者が間に入るより、研究室が直接業者とやり取りした方が、早いし食い違いとかもないのではないかと。無駄なプロセスを挟んで互いに手間を増やしているだけなのでは? とそう感じておりました。

ただここで、社会的責務というのが関係してきます。まず研究費というのは、その多くが税金を財源としていると。そうである以上、それを適正に使用すること、そしてその適正さを社会的に説明できることが何より重要となります。例えば、研究室に任せっきりにした場合、特定の業者からしか発注せず、本当はもっと安く買えるのにその業者の言い値で買っていたり、あるいは何かしら業者と不穏な関係になっていることがあり得ます(卒業生の会社にばかり発注して、その分何かと融通利かせてもらったりとか......)

かといって、研究室に一般競争入札とかを実施させるのは無理だし、そもそもの話、それは事務部が責任を持ってやるべきことなので、ちゃんと我々が中間に入って適切に買い物をしようと、そういうことなのだと思います。まだ2年目なので勘で書いているところもありますが......(こういうところの説明、ちゃんと受けることないんだよな、、、)

話が大変長くなりました。結論、何が言いたいかというと、今は財務系の仕事をしているけれど、それが大学や研究が持つ「社会的責務」というものと関連していそうだということです。

社会に対して責任を持つというのは、別にどの仕事もそうかもしれません。ただ、殊お金が絡む領域では、社会感情というものが激しくなりがちだと思います。このところ東大の学費値上げ問題なども話題ですね。また研究費という観点では、2009年の民主党事業仕分けも記憶に新しいかと思います。あのときは科学研究費というものがとにかく仕分けの対象とされましたスパコンに対する「二位じゃダメなんですか」 とか懐かしいですね)。そんなわけで、研究についても「金を無駄遣いしている」「適正に使用していない」と思われては、非常に強い社会的反発を喰らうわけで、そもそも税金を使っているのだから、説明責任を背負って当然であるとも言えるわけです。

以前もどこかで書きましたが、会計(account)というのは説明責任(accountability)であるのだと...... これマジで名言ですよね。そんなわけで、今の仕事からは「研究や科学技術の社会的責務」というものを意識することが多く、冒頭で言ったような関心を抱くに至ったという話でした。ちなみに、いつもフェチが刺激されています。

 

 

現在の関心

最初に書いたとおり、「研究や科学技術が、社会に対して負っている責任」というものに興味があります。今までの大学院までの関心が、現在の仕事で素材を得たという感じですね。

ちなみに、僕は元々文系人間ですが、現在理系部署で働いていることで「科学技術」というものへの関心も高まっています(以前は全然そんなことはなかった)。最近は本当に技術が高度化しているので、「この分野にお金をつぎ込むことについて、市民からどのように納得を得るか」という点について、ますます難しくなっているのではないかと思います。

で、そうしたことを踏まえ、現在「勉強」しているわけですが、いくつか本を読んでいます。以下はそれを簡単に紹介していきます。

 

科研費(研究費)

渡邊淳平『大学の研究者が知っておきたい科研費のしくみと研究をめぐる状況』(2016,科学新聞社)

関心の一つ目は科研費です。僕は大学院にいましたが、修士までしかいなかったので、「科研費」というものがよく分かっておりません。あれ本当になんなの?? なんでお金くれるの?? という思いが以前からありました。

そこで上記本を読んでみたのですが、結構わかりやすくて面白かったですamazonレビューは低いですが.....)。世の中に科研費の本は数多くあるのですが、大抵が「獲得の仕方」についての本で、「そもそも科研費って何??」という解説本が珍しいように感じました。上記の本はその辺も丁寧にやってくれていて助かりました。

特に印象的だったのは、科研費ボトムアップ型であるという話です。

先ほど、「この分野にお金をつぎ込むことについて、市民からどのように納得を得るか」ということを書きました。これについて一つの考え方として、いわゆる「選択と集中」があります。これから流行りそうなところに絞ってお金を出すということですね。これはトップダウン型の助成と言われています。

対して科研費は、流行りそうなテーマとかで絞られているわけではなく、むしろ研究者の自由な発想から生まれる「多様性」を重視する形となっている、と本書で解説されています。流行りそうなトップを支援するのではなく、全体的な基盤(ボトム)をアップするというわけですね。一箇所引用します。

ボトムアップ型はトップダウン型に比べて成果が出る確率が低く効率も悪いように感じられるかもしれませんが、その際の成果とは何でしょうか

そもそもボトムアップ型の研究から芽が出にくくなれば、先につながるものが少なくなり、トップダウン型で重点的に支援すべきものも乏しくなってしまいます。さらに、本当に革新的なイノベーションは、思わぬところから生み出されることが多く、なかなか予想できるものではありません。逆に、予想できるようなものであれば、世界各国でも同じように力を入れるので、その中で常に抜きん出た成果を出していくことはできません。いい芽が出た後で重点的に育てることと、重点的に狙っていい芽を出させようとすることはまったく違うということです(p12)

ここは本当に、なるほど〜〜〜と思いました。科研費についての「なぜ」が一つ解消されたように思います。まあそんな感じで、「研究費」についての勉強を行っているという話でした。

 

② ELSI・RRI

 標葉・見上編『入門 科学技術と社会』(2024,ナカニシヤ出版)

2点目に、これが一番力を入れていますが、ELSIやRRIの勉強も進めています。ELSIやRRIとは何ぞやというと、まあ簡単に言えば、「倫理・法・社会実装のことも踏まえた研究を行っていこう」といった形になります。

ELSIというのが、Ethical、Legal、Socialで、倫理・法・社会を意味しています。これが実は僕の関心とかなりハマっているというか、「倫理に法に、そして社会までやっていいの!!?!?!?」となっているのが心境です。

とはいえ、ELSIはこの頃の流行り分野ではあるのですが、胡散臭く見られているところもあるというか、「研究資金を取るための小手先のテクか何かだろ」といった形で、信用されていないところはありそうです。実は僕もよくわかっていない。これについては今もいろいろ勉強中で、今日の段階であまり書けることはないので、ひとまず「こういうところに興味持ってるよ」ということだけ触れておきます。いずれちゃんと書きます。

他にも、「科学コミュニケーション」という観点で、上記の本を読んだり、

倫理的に議論になりそうな科学技術を学ぶために、上記の本を読んだりしています。どっちの本もかなり内容的に平易ですぐ読めました。感想はいずれ書くかもしれないし書かないかもしれないです。

あと、ELSIやRRIといった分野に関心のある方がいましたら、ぜひ一緒に勉強会とかやりたいですね。山月記みたいになりたくないので、同朋を見つけていくことも大事だと感じています、、、

 

③ オープンサイエンス

南山泰之編『オープンサイエンスにまつわる論点』(2023,樹村房)

最後に、オープンサイエンスについても若干勉強しています。現状、科学や研究の社会的責務を考える上で、絶対に外せないのがこの分野だと思います。

↓こちらも以前読みました。非常に面白かったです。

ただ、オープンサイエンス系は情報の展開が速く多く、ちょっとついて行けていない感じがあります。まだまだ分からない用語とかも多いのに、気付いたらどんどん新しい展開が生まれているんだよな...... たまに調べるぐらいではどんどん置いて行かれる感覚があります。

とはいえ、非常に面白い分野であるので、ちょっとずつでも食いついていきたいなト感じています。

 

悩み

そんなわけで、ここまで「社会人だけど、むしろ勉強を頑張っているよ!!」という話をしてきました。我ながら偉すぎてエラスムスだと思いますが、同時に悩みも結構あります。

その中でも大きいのが、自分を引き上げてくれる人がいないということです。大学院で研究室にいたときは、他の人の発表を聞くなどして、「もっと自分も頑張らねば!!」という思いが湧いていました。何もしていないととにかく「焦り」が生まれて、何かに追われるように勉強をしていました。あと、報告の締め切りやレポートの提出があったりして、常に「ここまでをこのペースでやっていこう」という感覚を持てていたと思います。

で、今の悩みとして、そういうのが一切ないですね。自分一人でやっていることなので、今日やってもいいし、明日やってもいいし、なんなら来月までやらなくていい。やったところで、自分の中でまとめるのみでブログで報告しろよとは思う、特に他人に影響を与えるわけでもない。

betweeeeeen.hateblo.jp

↑以前の記事で、「大学院は常に焦燥感に満ちていてツラかった」と書きましたが、今はそれがない分、勉強もほどほどにという感じです。よいことじゃん、と思いますが、同時にどこか時間を無駄にしているような感覚も付きまとっています。難しいですね。

ただ、そこはむしろ、自分で自分を上げるしかないとも感じています。モチベを与えてうれる誰かに頼るのは甘えだってことよ(厳し〜〜)。あくまで、自分が立てた目標に自分で向かっていく。このことが難しくも、今後やっていかなきゃならないことだな〜〜〜と感じています。

 

かもめチャンスの話など

最後に、もうひとつ大きめの悩みがあります。

それというのも、今更これをやって何になるの?? という悩みです。ここまで読んでいた方も薄々感じていたかもしれません。今から勉強を始めて、何になろうとしているの?と。僕もそう思います。

確かに、大学院でやっていたテーマを継続する人なら一定数いるわけです。しばらくしたら大学院に戻ったりだとか。ただ、大学を出て、ドシロートの状態で何かを始めるというのが、一体何になるのか? と。それで生きていくわけではないし、お金に換えられるわけでもないし、趣味と呼ぶにはマニアックだし、ただ中途半端なだけなのではないかと、、、、

話は逸れますが、ここで『かもめチャンス』の話をします。僕のブログはいつも突然漫画の話に飛びます。

最近この漫画を読みました。全20巻、2008年から2013年に連載されていた作品です。快活で読んだよ。

で、この漫画、個人的にすごくよかったです。↑の表紙の通りロードバイクの漫画で、僕はロード好きなので、それもあって非常に楽しめました。

【あらすじ】
28歳のシングルファザーが、仕事と子育てに追われる中でロードバイクに出会い、どんどんその世界にのめり込んでいくよ。

社会人×自転車ということで、かなりリアル路線な漫画です。前半は自転車にハマっていく過程、後半は実際にロードバイクのレースに出たりするんですが、某小野田坂道くんのあれと違って、レースの描写もかなり堅実で面白いです。

そしてこの漫画、まさに「20代後半から新しいことを始める」というのがテーマとなっています。主人公はシングルファザーの社会人で、そんな中で何をやろうにも、結局なんなんだ? 何のためにやってんだ? という気持ちが付きまといます。

で、最終話のネタバレになってしまいますが、主人公は最後に「お前これからも自転車続けるん? どうするん?」と問いかけられます。「子どももおるし仕事もあるし、もうすぐ30なんやろ? 無理では?」と。それに対し主人公は、「確かになぁ」と認めつつも、

「俺は...ゴールを目指すより、スタートを見つける方がいい。いや、俺たちは一生スタートを探し続ける。きっとその方がいい。」

と答えます。この「ゴールを目指すよりスタートを見つける方がいい」というのが、滅茶苦茶いいですね、、、 

確かに、今から何かを始めても、何者かになったりバズったりというのは難しいかもしれません。ただそうやって、「何になれるか」や「どこまでいけるか」ということではなくて、新しいスタートを切れること、それ自体に価値を見出すのが素晴らしいと思いました。心に来ますね。「俺たちは一生スタートを探し続ける」という言葉もかっこいいんだな、、、

そういうわけで僕自身、この頃勉強を頑張ってはいるけれど、あくまで「自分が何かになれるか」ではなくて、「新しいことを今からでもやれること、それ自体がすげえんだ!!」という気持ちでやっています。逆に、何者かになろうとし過ぎるとしんどかったりしますしね。夢を追うことだけでなく、夢を始められることそれ自体の大切さも大事にしていきたいと思っています。

ちなみに「かもめチャンス」は本当に面白いので、ぜひ読んでみてください。皆も休日は快活クラブに閉じこもろう(置いてない店舗も多いよ)

 

 

以上!!!

今日はそんな感じです。「最近は勉強やってて、モチベ維持が大変だけど、なんとかやってるよ」という話でした。このところはだいたいそんな感じです。

途中でも書いたけど、特に社会人になっての勉強は、大学院と違って「一緒にやる人を見つけづらい」というのが悩みです。というよりむしろ、「一緒に議論できる相手を見つけられる」というのが大学院のメリットなんでしょうね。現在大学にいる方々は是非是非頑張ってください。

というわけで、次回はまた読書記録を再開する予定です。多分、山本圭『嫉妬論』になるかと思います。真面目な諸兄はぜひ予習してきてください。それでは!!

 

 

 

 

 

おまけ


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このところ、Laura day romanceがたくさん新曲を出してますが、どれもよいですね。エンディングソングとしておいておきます。

 

 

 

真に対等な存在とは......:読書記録#4 小西一禎『妻に稼がれる夫のジレンマ』(2024,ちくま新書)*ベルセルクも読んでます

 

しばらくサボっててすみませんでした。

 

というわけで、読書記録やっていきます。5月、初夏ですね、皆さん!! 生きることって素晴らしいんだなと感じさせる天気が続いています。そんなことないですか? 外でフリスビーでも投げて遊んでいたい季節ですが、読書記録、頑張っていきます。

今回は2ヶ月振りの更新となりました。本自体は3月に読み終わっていたもので、ずばり、小西一禎『妻に稼がれる夫のジレンマ ─共働き夫婦の性別役割意識をめぐって』となります。内容の紹介や、読んだ感想を軽く書いていきます。

 

読んだきっかけ

本書は京都の某後輩氏からご紹介いただきました。ありがとうございます。いつも大変お世話になっております。

その某後輩がたまに言っていることで、あと大学時代の同期なども度々言っていたことですが、ヒモになりたいという男性側の願望をたまに耳にします。皆さん、ヒモ、なりたいですか??

僕はこれが(冗談というのは分かりつつも)正直よくわからず、ヒモは自分の力で生活を立てられないからかなり不安定じゃないか? と思ったりします。働かずに生きていけるのが魅力的、ということかもしれないけれど、生殺与奪の権を誰かに握られているようで落ち着かないな〜〜と思ってしまいます。まあ25歳まで親のスネかじりしていた人間のセリフではないかもしれませんが......

反面、自分の稼ぎがそんなに多くないので、もし誰かと一緒に暮らすとなったら、共働きであってくれたら嬉しいなと感じます。二人分の生活を支えるような財力は無いため..... そんなわけで今は、「できるだけ相手の稼ぎに依存したくない」という気持ちと、「自分の稼ぎがそこまで多くないので、『収入については俺に任せておけよ』とも言えない」という両方の気持ちがあり、これがある意味ジレンマを形成しています。その前に一緒に暮らせる相手がいねえんだからジレンマも何もないだろというツッコミはありますが......

で、何が言いたいかというと、今回取り上げる「妻に稼がれる夫のジレンマ」というのは、僕のような状況の人間だと結構感じる可能性があるんじゃないか? ということです。この世界の僕が感じていなくても、パラレルワールドで既婚者となった自分ならもしかしたら感じるかもしれないという問題意識を持って臨みました。マルチバース万歳!!!

 

内容紹介

本書は著者の修士論文をベースに、それを書籍化したものとなっております。著者は元々政治記者をしていたそうですが、妻の海外赴任に伴い、キャリアを中断して妻と一緒にアメリカへ行ったとのこと。その際に、現地で「駐妻」ならぬ「駐夫」、つまり専業主夫を経験し、「妻に稼がれる夫」の立場を経験したとのことです。

で、現状の日本社会には「男はバリバリ働いて家庭を支えるべし」「妻に稼いでもらってるなんて恥ずかしい」「ヒモみてえなもんじゃねえか」という価値観がまだまだ存在しています(なんてこった)。そういった日本の労働観やジェンダー観のもとで、「妻に稼がれる夫の立場」というものに、どのようなジレンマや苦境があるのか、それを明らかにしたのが本書です。インタビュー調査やその分析を通して、当事者たちの生の声をできるだけ拾っているところが特徴と思います。

一箇所、冒頭から本書の目指しているところを引用しておくと、

本書では、妻の海外赴任に同行した駐夫経験者一〇人のインタビューから、彼らの意識変容や就業行動、キャリア設計に向けた道筋を浮き彫りにする。ここから男性優位が指摘される企業文化が根強く残る日本社会で、男性がキャリアを一時的にセーブして女性を支えるという新たな夫婦像やキャリア形成観を示したい。さらに、「男は仕事、女は仕事と家事・育児」という硬直的な性別役割を交換した、多様な家族形態を紹介する。
小西一禎. 妻に稼がれる夫のジレンマ 共働き夫婦の性別役割意識をめぐって (ちくま新書) (Kindle の位置No.163-167). Kindle 版. 

という形で、「新たな夫婦像やキャリア形成観」を示すのが本書の狙いとなっています。単に当事者の声を載せるだけではなく、そこから在るべき社会像まで論じているのも、本書の大きな特徴かと思います。

 

読んだ感想

当事者男性へのインタビューパートが、特に読んでいて面白かったです。

本書の前半は、主に「男性の生きづらさ」に焦点を当てたものとなっています。今となっては結構見慣れた議論ですが、フェミニズムが「女性の生きづらさ」を訴えたときに、特にここ5年ぐらい? で「男にも男の大変さ・生きづらさがある」ということが盛んに言われるようになりました。従来のジェンダー論を引き継いで、「女性の生きづらさと男性の生きづらさ、どちらも根本の問題は一緒だから、ともに『らしさ』から解法される社会を目指そう」という路線もあれば、「いや、女性よりも男性の方が優位に大変で、フェミはこんなにも嘘つきだ」という敵対路線も存在していると思います(後者はTwitterで盛んでしたが、今もそうなんでしょうか)

本書はこのうち、完全に前者の立場です(安心した)。例えば、多賀太『男らしさの社会学』が引用され、次のようなことが言われています。すなわち、「稼得能力」なるものが男性らしさを構成しており、稼ぐことをやめた人間は「男から降りた」と見做され、それが生きづらさに繋がっているといったことですKindle版 p46)。これは男性学系のものではよく見かける見解と思います。で、前述の通り、本書では男性にとっても女性にとっても生きやすい社会を目指していくので、この点は読んでいて安心感があります。単に男側の怨嗟を振り撒くものではないんだなと。

ただ、逆に言えば、安心感があるということは「聞き慣れた話だなあ」ともなるわけで、序盤はかなり知っている話を聞かされている感があります。既存の学説への批判もそんなになく、まあ男性学ではそういうことが言われてるよね〜という感じです(逆に、今まであまりジェンダー論に触れたことの無い人にとっては、いい入門になるかもしれません)。ので、個人的には、この辺のジェンダー論や社会分析よりも、実際に当事者の声を拾ったインタビューパートが見どころだと感じました。

 

インタビューパートの見どころ

個人的に面白かったのが、「妻に稼がれている」という状況に対して、男性側が感じるモヤモヤとそこへの付き合い方についてです。今の日本社会には「男の方こそ稼ぐべき」という価値観があると、本書では繰り返し主張されます。

「男は稼いでナンボ」
こうした価値観が、日本社会には根深く残っている。男の力の源泉は経済力であって、稼得能力の高さこそ、男の象徴だという見方だ。Kindle版 p159)

こうした風潮の中で、稼得能力が妻に劣る男性は、どのような気持ちを抱えているのか? 本書で紹介されているものとして、「卑屈に感じた」「おんぶに抱っこだ」Kindle版 p78)といった意見のほか、「格好悪いじゃないですか、シンプルに妻との関係で世間体とかじゃないんです」Kindle版 p128)といった声も挙がっています。この意見、かっこいいなと思いました。そしてやはり、何らかの劣等感を挙げている人が多いです。

で、その劣等感とどう折り合いを付けるか、という問題ですが、一つ面白かったのが、妻が稼ぐことで、結局は自分も経済的恩恵を受けているという考えですKindle版 p118)。普通に考えれば、妻が稼げば世帯の収入が増えるわけで、夫が悲しむ理由はないんですよね(そりゃそうだ)。こういう、ある意味合理的というか、思い込みやプライドからいったん離れて、客観的に自分の得を考えるというのは面白い対処法だなと感じました。

もうひとつ面白かったのが(これが今日の本題となりますが)、逆に燃えるというパターンです。先ほどの経済的恩恵とは別に、妻が頑張っている姿を目にすることで、むしろ「自分ももっと頑張らねば」と対抗意識が芽生えるというもの。以下のような声が挙げられています。

良い焦りですよね。自分も頑張らなければいけないというか。うかうかしていると、しっかり努力しないと、置いていかれるというか。(Kindle版 p127)

このように、妻を「緊張感のあるライバル」としてする見方、個人的に非常によいなと感じます。単に相手を庇護しようとか家庭に閉じ込めようとするのではなく、むしろ自分に刺激を与えてくれるような、同じ一社会人としてよい焦りをくれる存在として捉えるのは、なんというか、フェチです。いいな〜〜と思います。欲を言うなら僕もこういうパートナーが欲しいですね。「相手が夢に向かって頑張っていることで、自分も頑張れるんだ」とか、そういう...... なんか....... いいよね......

 

真に対等な友とは......

すみません、めちゃくちゃ唐突なんですが、ベルセルクの話をします。

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実は本書を読んでいた3月、ベルセルクが公式で14巻まで無料で読めまして、めちゃくちゃ面白かったです。今は30巻ぐらいまで読んだ。個人的にはピーカフの話が結構好きですね。まだ読んでいないという人は、ぜひ快活に行って13巻まで読んでみて...... あるいはNetflixにあるアニメ版だけでもよいと思います。

で、ベルセルクの大きなテーマとしては、1つに男の生き様とは何かということと、もうひとつに真に対等な友とは何かというのがあるように思います。ちょっとこれについて語ります。

一つ目については作中でグリフィスも語っていました。「男は何かを守るために剣を振るう。ただ、その守るべきものというのは他人だとは限らない。何よりも男は、誰のためでもない夢のために、自分が自身のために成す夢のために戦うのだ」と(手元にないので曖昧引用)。男は夢という神への殉教者なのだと、そういうことも言っていたと思います。僕は「夢を持つこと」フェチなので、この辺は痺れました。男は夢という理想のために戦います。

もうひとつ、真の友とは何か? ということも、ここで同時に語られています。グリフィスにとって真の友とは、「己の夢のためなら、自分に刃向かうことも厭わない、そんな対等な存在」として語られています。グリフィスは作中で超人気者なので、皆グリフィスに付いていくぜ〜〜というノリであり、仲間内では誰も彼に刃向かったりしません。ので、グリフィスが自身の夢を語っても、皆それに乗っかるばかりで、「いや、俺には俺の夢がある、俺はお前とは別の道を往くぜ」となるような、対等な存在がいないのです。グリフィスにとって真の友とは、単に自分に追従するのではなく、むしろ時に自分に反抗し、ライバルのようにしのぎを削れる存在として描かれています。

この話をこっそり聞いていたガッツが、「俺は誰の夢にもぶら下がらない」と決意を固めていくの、よいですよね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。対等な友であるために、相手の夢に縋るのではなく、自分自身の夢を抱いて、あえて別の道を進んでいくわけです。この、他人が掲げた夢に追従しない姿勢が、夢フェチとしてはかなり好きなところです。僕もそのような姿を目指している。

はい、ベルセルク全然知らんという人を置き去りにしていて本当にすみません........

 

話戻って(今後の夫婦像とは)

大脱線してすみませんでした、、、話を本書に戻しますが、このベルセルクの姿勢こそ、今後の夫婦やカップルに求められるような気がします。どういうこと???

本書では冒頭で、「今後はますます女性の社会進出が進むはずだから、妻に稼がれる夫というのも増えていくのでは」ということが指摘されています。一応引用。

女性の社会進出が一段と進むことによって、妻が収入や社会的地位で夫を上回るカップルは、ますます増えていくと考えるのが自然だろう。こうした状況に苦しむ二人の姿は、この先の日本人男性を取り巻く状況の未来予想図になるのではないだろうか。Kindle版 p14)

まあ実際のところは厳然たる男女間の賃金格差がまだまだ存在してるわけですが.......

そうした中で、「相手より自分が稼いでいなきゃならない」という見方を保持し続けることには、早々に無理が生じるように思います。更に言えば、そこで自分がもっと稼ごうとするのであればまだしも、相手に仕事をさせなかったり、家に閉じ込めようとするのはもはや論外ということで、ベルセルク理論で言うと(言わなくても)「全く対等ではない」ということになると思います。

で、本書では「妻の海外赴任に、キャリアを中断してまで同伴した夫」の姿が紹介されておりました。もちろんそこで提示されているのは、ただ単に妻に付いていき、ヒモのように養ってもらう存在ではなく、家事や育児を担当し、キャリア中断に葛藤を抱えるような男性たちです。こういった「相手の夢と対等に向き合う」というところに、これからの夫婦像があるのかもしれません。一方が会社で稼ぎ、もう一方が家で家事育児をするような従来のモデルを離れて、お互いが自己実現を果たしつつも、相手の夢に対しても「対等に」向き合うような...... そんな社会が訪れたらよいなと思いますなぜなら夢フェチだから)。 

その点で言うと、本書では「夫婦同姓・育休が、女性にばかり負担を負わせている」という問題も指摘されており、そこも個人的にはよかったです。しかも、その点を実際に育児を経験した男性(妻に稼がれた男性)側が指摘しているというのも印象的でした。以下、本書で挙げられてた声を2点引用。

名字というものに対する、女性の気持ちが痛いほどよく分かりました。やっぱりね、屈辱感があったんですよ、自分の名字を変えるっていうことが。名字を変えなければならないということは、アイデンティティーを失うなど、本人の気持ちだけの問題ではありません。そうではなくて、これをほぼ女性のみに強いているこの社会がおかしいと思います。Kindle版 p147)

ずるいですよね。育休を女性に取らせて、自分だけバリバリ働き続ける人って、ずるいと思う。そうじゃないですか。育児にかかわる社会的コストを、その女性がいる企業だけに負わせるわけですよね。その一方で、男性のキャリアばかりがうまくいくというのは、すごくずるいと思います。Kindle版 p132)

これも本当に、全く対等じゃなくてよくないよなと感じます。こうした社会的な不公正が、「稼がれる男性」というマイノリティー側に陥った立場からの、リアルな声として発せられているというのは、本書の大きなポイントだと思います。興味を持った方は是非読んでみてください!!!

最後にちょっと批判的なことも述べると....... 本書は3・4・5章で男性へのインタビューを紹介しており、続く6・7章は、それを受けての社会への提言という感じなんですが、この6・7章については正直微妙....... という感じです。これからの社会はこうあるべきだと言うことが論じられるわけですが、全体的にふわっとした理想論が並べられている印象があり、「まあその辺のことはみんな既に言ってるよな〜〜」と感じました。序盤のジェンダー論についても同じ印象だったので、やはり本書は、インタビュー調査をまとめた3・4・5章のあたりが面白いなという感じです。

あと、著者の小西氏は、海外駐在から戻ったあとに大学院に進み、修論として本書の骨格部分を執筆したというのだから、その辺は本当にすごいなと思いました。僕も社会人2年目となりましたが、このように「新しいスタートを切る」ということには本当に憧れます(そのテーマでも近々書くつもり)。僕も僕自身の夢のために、時に刃向かう者を切り捨てながら頑張っていこうと思います、、、

*でも逆に言うと、夫婦間は「何千の味方、何万の敵の中で、唯一夢を忘れさせるような」関係であってもいいのかもしれないですね。書いた後で思いました。どうでしょう??

 

 

以上!!!

と言うわけで、今回は読書記録第4弾でした。いかがだったでしょうか。微妙だったらすみません。

本当は読書記録、もっとコンパクトに書きたいと思っています(今回6500字近くある)。でもオチをどうしようとか展開をどうしようとか考えているとどうしてもこれぐらいの長さに、、、次回以降は何かしら工夫をしたいとは考えています。

最後に、次回の案内ですが、皆さんは「正義」と「嫉妬」はどのような関係にあると考えているでしょうか? そんな本を扱う予定です。乞うご期待!!!

 

 

 

 

 

大学院生→社会人になって1年目の感想

ども!! 令和5年度も最終日となる3月31日、皆さんいかがお過ごしでしょうか。元気ですか!! 明日から新年度ですよ。準備はいいですか。明日はエイプリルフールでもありますね。嘘の準備はできてますか。エイプリルフールって嘘をついて仕事を休んだりしてもいいんでしょうか。多分ダメですよね。

 

今日は皇居のあたりに散歩に行きました。このビル群、ちょっと『500日のサマー』でサマーがトムの腕に描いていたやつに似ていると思いましたが、改めて見ると全然そんなことはなかった。

 

この頃、暖かい春の訪れを感じつつ、東京で働き始めてもう1年が経つんだなあという感慨に浸っています。正直めちゃくちゃあっという間でした。もう明日からは社会人「2年目」の人間になります。1年目だから・新人だから、という特権を使えなくなるとよく言われますが、別に自分の部署に後輩が来るというわけではなくまだまだ最年少なので、この特権を振り回していこうと思っています。

で、最近日記的な投稿をしていなかったこともあり、今日はこの1年の振り返り的な投稿です。この頃は1年間働いてみて、大学院時代の暮らしとの違いなんかに思いを馳せています。大学院→社会人になってどうだったかとか、そういうことを書いていきます。

 

大学院時代との一番の違い

3月末現在、年度末ということで仕事が繁忙期に入っており、なかなか慌ただしい日々を送っています。残業も日に一時間以上はするようになってきました(基本的に職場が白凰ホワイト様なので、平均的な月残業時間は15時間ぐらいなのだが、今月は30時間行った)。家事とかもだんだんおざなりになってきました。

で、そんな折に、大学院時代のことを思い出すことがあります。あのときはどんな生活を送っていただろうかと。そこで思うのが、大学院時代と今の生活を比較すると、今の生活のほうが圧倒的に、

苦しさがない

というのがあります。このことを最近実感しています。

大学院時代は、毎晩眠りに付く前に「明日はこれをやらなきゃ」というタスク一覧を頭に思い浮かべていました。午前中は授業で扱う論文を読んで、午後には今日見つけた自分の研究用の論文を読んで、夜は院ゼミ用の翻訳を作って...... と常に「次にやること」に追われていた実感があります。それで「どう考えても時間が足りない」「でもやるしかないんだよ」と焦りばかりが生じ、ひたすら眠れないという日も多かったです。特に就活をやっていた時期はヤバかった。。。毎日が不安の塊でした。

で、最近は仕事がハンボーキ・ハンボーキですが、この「寝る前に明日のタスク一覧を思い浮かべる」という作業はマジでないです。本当になくなったなーと感じるこの頃。

仕事が日常生活を圧迫するほど多忙ではないということもありますが、それ以上に「仕事のことは仕事のときに考えればよい」というメンタルが身についていることが大きいです。大学院にいたときは、いわゆる「定時」の概念が自分の中にありませんでした。24時間、どこかしら、心の片隅でやるべきことを考え続けていたと思う(あの本読まなきゃ.....とか、本当はこんなことしてる場合じゃない...... とか)。そんなフルタイム体制の焦燥感が今はなくなり、仕事のことを考え始めるのは出勤打刻をしてからで、退勤打刻をしてからはもう仕事のことは全く考えなくなっています。では何を考えているのかというと、またγGTPの数値悪くなってたらどうしよ〜〜〜とかそんなことばかり。

大学院生のときは、「曜日」の概念もあまりなかったです。平日と土日の区別がほとんどなく、せいぜい図書館が早く閉まるかどうかぐらいの違いしかなかった。だから今日も明日も同じような日という感覚なのに、「本当はもっとあれをしなきゃ、これをしなきゃ」という焦りばかりやたらと詰まっていた日々でした。

で、しばしば大学院進学はモラトリアムと呼ばれます。僕もそういうふうに考えておりました。ただ、この頃思うのは、この1年を振り返ってみると、必ずしも「学生時代=楽、社会人=苦」というわけではなく、むしろ自分にとっては大学院時代のほうがよっぽど苦しさが多かったなということです。ゆえに1年を振り返ってみても、「仕事が始まってツライ。大学院生のときは良かったな〜〜」といった気持ちは全然沸かないです。この一年は、気持ち的にはだいぶ楽で、なんと不眠症もかなり改善されました。

このように大学院生時代の方がだいぶしんどかったというのは、結構意外性がある話というか、あまり言われることがないように思うので、書いておこうと思った次第です。

ちなみに、じゃあ仕事がめちゃ楽しいのかと言うと、別にそんなことはなく、普通に楽しくはないです。ただ、お仕事は今のところ、「やることをやっていればよい」というのがあります。それに対し大学院時代は「常に自分から何かを探しに行かなければ」という、自分が試されているという感覚がありました。特に、自分が研究者に向いている・向いていないということにずっと悩んでいたし、その意味ではそもそもあまり適応できていなかったのかもしれないですね。

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↑大学院生活の振り返り記事。キングダムの趙王のように暗い。

 

将来の見通しについて

この頃の悩みについです。先ほど、仕事にはあまり苦しみがないということを書きましたが、「悩み」はあります。その悩みは(ありきたりですが)キャリアや将来性についてのものですね。

僕は現在大学職員をやっているわけですが、どのような仕事に携わるかというのは、そこまで自分では選べないです。それは主に人事課に掌握されております。今は財務系の仕事をしているけど、入試課に行けと言われれば入試課に行くし、学生支援に行けと言われれば学生支援に行きます。ある程度希望は出せるけど、叶うかどうかは結構運次第なところがあります。

で、そうすると「自分が数年後にどういう人間になっているか?」というのが、結構想像しづらいです。自分がこれから何者になっていくのかというのを、主体的に形成するのが難しく、将来像や見通しを持ちにくいという悩みがあります。ちなみにこれは大学職員にあるあるの悩みらしいです倉部史記『大学職員のリアル』にも書かれていました)

この点、また大学院との比較になりますが、研究者を目指すルートとは対照的なところがあると感じています。というのも、今の仕事は安定性がありますが、「将来的にどういう人間になっているのか」のイメージは正直掴みにくいです。対して研究者になるルートでは、まず修士号・博士号を取得し、非常勤の職の獲得、博士論文の書籍化、そしてテニュアトラックの獲得など、 細かい達成ポイントがいくつかあり「これから何を目指していくべきか」というのがある程度わかりやすいように思います。もちろんその一つ一つが簡単ではなく、むしろ見通しは暗闇の中ということもありますが、それでも「徐々に何者かになっていく」という感覚がありそうで、そこは少しいいなあと思います。自分の場合は、終身雇用という安定性と引き換えに「この先自分は何者になるのか」という将来像が持ちづらいのが悩みですね。ただただ定年までサラリーを稼ぐだけなのかと......

皆さんはどうですか? 社会人1年目が終わったとき、「自分はこれから何者になっていくんだろう?」という不安、感じていませんでしたでしょうか。まだ社会人じゃないよという方は、多分これから感じるので覚悟しておいてください。この僕が感じさせます。

 

大学院復帰、リスキリングなどについて

そういったキャリアのことで言うと最近は、いずれ大学院に行くこともありっちゃありなのかなと感じています。といっても以前やっていた法哲学の分野で戻るのではなく、もっと実務的なことを学びに行く感じで。最近は、仕事をしていて研究倫理の研究などに興味が出てきているので、そういったより実務に通じたことを学びにいくのもありやなと考えています。キャリアプランとしては自ら専門性を高めに行くルートですね。

これも働き始めてから感じたことですが、僕が自分の専門として法哲学を選んだのは大学1年生冬のことで、かなり早いなと思います(我が大学の法学部はゼミ決定が早かった)。年齢で言うと19歳。そこから25歳まで法哲学を専攻していたわけですが、今思うと明らかに若いですよね。これでもし研究者ルートに進むとしたら、19歳のときに決めたことを軸にずっと邁進していく、ということになっていたかと思います。

ただ、働き始めてみて、少し視野が広がったと言うか、前よりもっといろいろと問題が見えてくるということもありました。学生時代は「法と道徳」というのを研究テーマにしていたけれど、今となっては、あまり自分の問題意識にクリティカルに根差していなかったかな〜〜〜とも思います。あくまで21歳ぐらいに決めたテーマだし、言ってしまえば、まだあまり世間も見えていなかったというか、、、(じゃあ今は見えてるんですか!!!! というのは置いといて.....)。

それで最近は、社会人→大学院生コースの方が、むしろ自分の問題関心が固まってそうでよいかもなとか考えています。お仕事をしていると、自分の問題意識がよりはっきり見えてきたり、「自分はもっとこういうことを解決していきたいんだな」というのが明確になる瞬間があります。ので、学部→大学院のストレートコースが必ずしも理想とは限らず、むしろ社会人→大学院のほうが本当にやりたいこと出来そうだななどと考えています。

まあそんなことを考えるのも、自分の大学院時代がかなり「焦り」に支配されていたところが大きいからですね。学部時代に早めにテーマや専攻を決めて、大学院を選んで、何かをしなきゃ何かをしなきゃと焦っていたというか...... 今は安定した仕事について、そうした焦燥感がなくなりました。で、だからこそ、「このまま自分は老いていくだけなのか」ということを考えるし、もしもう一度大学院に行くのなら、本当に自分がやりたいことってなんだろうなといったことも考えています。

最近はリスキリングというのも流行っているので、自分がこれから何に挑戦していけるのかというのを、令和6年度はもっと考えていこうと思います。前向きで素晴らしいな!!

 

 

そんなわけで、

今日は単なるお気持ち表明でした。そんな感じです。これから先も40年ほど(40年!!?)仕事人生は続いていきますが、毎年度、こうやって自分の位置を確かめながらやっていくのが大事なのかもしれません。

あまり締めの言葉が見つかりませんが、まあ本年度もがんばりますよ!!!! ということで。今後とも弊ブログをどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 


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間違いながら成長していく:読書記録#3 今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(2023,中公新書)

読書記録の3回目になります。おしゃーーーー!!!! この頃、仕事が繁忙期に入り、あまり読書もブログ更新もできていないのですが、頑張っていこうと思います。

今回読んだのは中公新書『言語の本質』です。この本、ご存じの方も多いかと思います。2023年で一番話題となった新書ではないでしょうか。中央公論の2024年新書大賞も受賞しています。要チェック!!

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読んだきっかけ

まあ、売れてるからですね言語学に特段強い興味があるわけではないのですが、ここまで世間で売れてるのはなぜ.....? と思って手に取りました。

ちなみに、このごろ言語学がブーム的な感じありますよね? ありません? さしもの僕も、一時期「ゆる言語学ラジオ」は視聴していました。言語の話はやはりウケがいいのでしょうか。僕も語源の雑学が好きなので、よく飲み会で披露したりはしています。ただ、そんな新書をちゃんと買って読むほど好きかというとそうでもないです。これだけブームになっているの、なぜなのか誰か考察してほしいですね。

 

#今日の語源コーナー:パウンドケーキ篇

皆はパウンドケーキの「パウンド」って何か知ってるかな? これは実は「ポンド」のことで、1ポンドずつの卵・バター・小麦粉・砂糖を混ぜて作るからパウンドケーキなんだって! じゃあ1ポンドってどれぐらいの重さなのかな? 答えは453グラムだよ!結構だな! 453 ×4で1812グラムだからめっちゃ多いね。今日の雑学終わり。飲み会で披露していいよ(参考)。

 

内容紹介

本書はオノマトペ研究」の一冊です。皆さん、オノマトペ、ご存知でしょうか。ザラザラとかフワフワとか、そういうやつですね。本書の構成としては、このオノマトペの特徴に注目し、果たしてオノマトペは「言語」と呼べるのか? という疑問から入り、そこからどんどん発展して「そもそも言語とは何なのか??」という世界に入っていくというものとなっています。

本書はかなり、硬派です。さすがは岩波新書...... と思いました。言語学について優しく教えていくというよりは、しっかりと学術研究に基づいて、専門用語も使いながら著者の自説を展開していくものとなっています。ので、僕の方で内容紹介するのが難しくもあります(人に説明できるほどがっちり理解できたかといえば怪しいので、、、)

本当にざっくりと解説すると、オノマトペを言語じゃねえと言う輩もいるが、オノマトペは言語が言語たる特徴を備えているし、なんならオノマトペがあることで人間の言語習得がかなり助かっているのでは? という感じになります。詳しくは本書をお読みください。というか、この本は人気なので、多分ユーチューブとかにも解説が溢れているはず、、、 解説系ユーチューバーってやっぱ儲かってるんですかね? 知っている人いたら教えて下さい。

 

読んだ感想

シンプルに面白かったです。自分が新書を読むときは、だいたい知識は多少アバウトでもいいので、著者の伝えたいことや全体のストーリー性を楽しむということが多いのですが、本書はそうではなかったです。そうした面白さよりは、単純に知識欲が刺激される面白さがありました。硬派なんだけれど、専門知識がなくてもちゃんと付いていけるところがよかったですね。漫画で例えると『デスノート』的な硬派な面白さですね(最近読み返したので.....)

感想として、一箇所、特に印象に残った点を挙げると「ブートストラッピング・サイクル」という言語の習得過程についての議論があります。ブート・ストラップなので、語源的にはブーツについているストラップのことらしいです(履き口のかかと側についているつまみのことで、ここを持ち上げることでブーツが履きやすくなる)。転じて、「自分の力で、自分をより良くしていく」という意味を持っており、言語習得に関して言えば、単に外部から知識を与えられるだけでなく、それを自分自身で・自分の力で活用していくことで、その習得が可能になる、という話となっています。記号接地問題とかとも繋がるところですね。

で、我々人間は、こうして言語を「使いながら学んでいく」ということになりますが、その時、過剰な一般化を行っているらしいです。

ここでちょっと話変わって、今度は「対称性推論」の話になります。対称性推論というのは、例えば「XはAである」という知識を得た際に、その逆側、つまり対称の観点から「AはXである」と推論することを指しています。例えば、「欧米の人は遺伝的に鼻が高い」という話を聞いた後に、「マイクさんは鼻が高い。つまりあの人は欧米の人だ」と推論することなどがあります。

当然これは論理的には真ではないです(鼻が高い=欧米人とは限らない)。論理的には真ではない推論として、他にも相互排他性推論なども挙げられていて、本書ではそれらをひっくるめて「アブダクション推論」として紹介されていますアブダクション推論についての詳しい説明はここでは割愛。ともかく「論理的には真とは限らない推論」という理解でOKと思う)。ここで面白いのが、こうしたアブダクション推論を行うのは、動物の中でも人間に特徴的であるらしいということです。人間と人間以外の動物を比較した際、アブダクション推論を行うかどうかに大きく違いが表れるそうです。

例えば人間の幼児は、丸くて赤い果物を渡されて「これはアップル」と説明されれば、その後に「アップルを取って」と言われても、問題なく丸くて赤い果物を渡せるらしいです。これは「丸くて赤い果物→アップル」を学習すると同時に、「アップル→丸くて赤い果物」と対称的にも学習していることを表します。ただ、これをチンパンジーなどで実験するとそうではなく、「X→A」を学習させたとしても、「A→X」で反応するとは限らないらしいです。一部引用。

チンパンジーの]アイが「黄色い積み木は△、赤い積み木は◇」と学習しても、「△は黄色い積み木、◇は赤い積み木」と選べないのは、論理的にはまったく正しいのである。対象→記号の対応づけを学習したら、記号→対象の対応づけも同時に学習する。人間が言語を学ぶときに当然だと思われるこの想定は、論理的には正しくない過剰一般化なのである

今井むつみ,秋田喜美. 言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) (pp.227-228). Kindle 版. 太字と[]は引用者。

このように我々は、全く論理的には真ではない推論をしばしば活用します。そして筆者の主張は、このような「論理的には真ではない推論」によって、我々の言語習得が可能になっているのではないかということです。また引用します。

人間は、アブダクションという、非論理的で誤りを犯すリスクがある推論をことばの意味の学習を始めるずっと以前からしている。それによって人間は子どもの頃から、そして成人になっても論理的な過ちを犯すことをし続ける。しかし、この推論こそが言語の習得を可能にし、科学の発展を可能にしたのである。Kindle版p224、太字は引用者)

「我々はどのように言語を習得するのか?」ということについて「間違った推論をしながらも、それを修正しつつ、とにかく活用していくことで学んでいくのだ」というのが面白かったです。誤りを犯しながらも進んでいく...... この、完璧じゃなくていいんだというのが、個人的には印象に残ったところでした。

全然関係ない話ですが、この頃の我々の社会は、どんどん「なろう化」しているのではないかと思います。『なろう化する日本社会』という新書が出てもおかしくないのではないか。ここで僕が「なろう化」という言葉で表したいのは、最初から最強でなければ我慢ならないというメンタルのことです。失敗したり挫折したりしながらちょっとずつ、というのがあまり好かれず、初期ステータスとして「センスがある」「才能がある」「器である」ということが、この頃やたら重視されすぎな気がします(天才を題材とした作品も供給過多なぐらいだし......)

ので、本書を読んで、「我々の言語習得プロセスの根幹に、そもそも誤った形の推論がある」というのは、非常に興味深いことでした。最初から間違えない人間なんていないのだと。というより、間違えるからこそ我々はこうして言語という武器を手に入れて、他人とコミュニケーションが取れているのだと。そういう話、好きです(フェチ)。間違えるからこそ学べるのだ、という話まで広げていいか分かりませんが、ともかくこの点は印象に残りました。筆者も次のように本書を締めくくっています。

アブダクション推論は新たな知を生み出す推論である。知の創造に失敗と誤りはつきものである。その意味で、筆者たちの探究は、これからも続く。山登りの頂上がゴールではない。本書で展開した論考を拡張し、精緻にし、誤りを修正しながら、言語という宇宙の旅をこれからも続けていく。Kindle版p252)

というわけで、抗おう、なろう化!! でした。なんの話だったっけ。今日は本当に、脱線ばかりですみません。

 

 

以上

本書の感想のまとめとしては、「新書としてはかなり硬派で、しっかりした姿勢で読んでいく必要があるが、言語研究の深みをどんどん味わえて面白い」となります。

去年の千葉雅也『現代思想入門』もそうだったけれど、新書といえどもしっかり硬派なものが好まれる傾向があるのでしょうか。僕自身は、もう学術書を読む体力がないので、こうして趣味として新書を読んでいますが、もう少しどっしりと腰を据えて読んでいくのがよいのかもしれません。新書だからといって侮るなかれということですね。

とはいえ、本書はそこまで上級者向けということもなく、普通に通勤時間に電車で読む分にもちょうどよいと思います。売れている新書だし、「言語」という誰にとっても身近な話題なので、「最近読書してなくて読書筋が凝ってきたな〜〜」という人にもおすすめです。

 

.......と言いつつ、次回の読書記録は、もう少しライトな本を扱う予定です。皆さん、妻に稼がれる夫の気持ち、考えたことありますか? 次回はそういう本を扱う予定です。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

ナルトがやっぱり面白い。:読書記録#2 廣野由美子『シンデレラはどこへ行ったのか 少女小説と『ジェイン・エア』』(2023,岩波書店)

 

 

ども! 今日は前回に引き続き、最近読んだ本の感想となります。今回は第2回。こうして無事2回目を迎えられたことについて、神と自分自身に深く感謝しています。「シリーズとしてやっていく」と言いつつ一回しかやってないの、山程あるからな。これからも頑張ります。

今回は岩波新書『シンデレラはどこへ行ったのか 少女小説と『ジェイン・エア』』の読書感想記録です。みなさんはこの新書、ご存知でしょうか? 僕はあまり知らなかったです。僕も人におすすめされていなければ読んでなかったと思われる。でも面白かったので、ちゃんと感想を書いていきます。

 

読んだきっかけ

「次に読む新書を探している」という話をしているときに、後輩からおすすめされた一冊です。ありがとうございます。僕は割と、おすすめされたものは何でも読んだり聴いたり試してみたりするので、いつでもおすすめがあれば教えて下さい(大昔に、おすすめの小説を教えてもらったことがあったが、それもまだ読みきれてないのでちゃんと読みます)

もう一つ、本書は英文学についての本になりますが、実は大学院生の時にちょろっと英文学の授業を取っていたということもあります。そのときはプーさんを読んだりしていた。で、それ以降英文学とかに触れることはなかったので、久々にあのときの講義の気分が味わえるかなという期待もありました(実際味わえました)。

 

内容紹介

本書のタイトルは「シンデレラはどこに行ったのか 少女小説と『ジェイン・エア』」となっていますが、正直このタイトルでは何の話かよくわからないと思います。シンデレラはどこに行ったんですか!? これではシンデレラが行方不明になったというか、ゴーン・ガール的なものかと身構えますが(あの映画めちゃ怖いですよね)、これはあくまで「シンデレラ・ストーリー」のことになります。いわゆる、清く正しく生きていれば、いつか魔法使いが迎えに来てくれて王子様と結ばれるというストーリーですね。

この「シンデレラ・ストーリー」については、ジェンダー的な研究が数多く存在します。例えば、こうした寓話の存在が、女性の自立を内的に阻む心理的壁になっているのだとか、そういう話です(「シンデレラ・コンプレックス」と呼ばれる)。かく言う僕も、学部生時代にゼミ合宿で『シンデレラ』を読んだことがありました。ジェンダー的な問題を考えようという内容だったと思います。実際ゼミでも、こういう話を子どもの頃から聞かされることで、女性の内的心理に「結婚するのが幸せなんだ」という価値観が植え付けられるのでは、という議論が出ていたような。

で、「シンデレラはどこに行ったのか」とある通り、本書はシンデレラ・ストーリーというよりは、「その後」を追うものとなっています。その後というのは、シンデレラ以降に出た英米少女小説のこととなります。

確かに、シンデレラは今でも少女たちに読み継がれているけれど、そうじゃない少女小説もあったのではないか。シンデレラのように、ただ王子様がいつかやってくるのを待つだけではなく、むしろ自分から己の運命を切り開いていくような少女小説もあったのではないか。そしてそれがシャーロット・ブロンテ著『ジェイン・エア』(1847年)となります。

その『ジェイン・エア』がどのような話かと言うと、一言で言えば「少女の試練の物語」ですKindle版 p12)。ここはまるっと本書から引用しておきます。

それは、孤児もしくは孤児同然の恵まれない境遇に生まれ、美人でなくとも、自分の能力や人格的な強みによって道を切り開き、とりわけ学力によって頭角を現し、自己実現しながら、自分と対等な男性と互いに認め合い、よき友人となるか、もしくは結婚し、その後もライフワークを持ちながら生きる、という形のストーリーである。つまり、試練を乗り越えて自力で幸せを獲得するという新しいタイプの女性像を描いた物語である。

廣野 由美子. シンデレラはどこへ行ったのか 少女小説と『ジェイン・エア』 (岩波新書) (p.12). Kindle 版. 

シンデレラとの違いとしては、まず主人公のジェインが美人ではないですKindle版 p30)。かつ、シンデレラのように「おとなしく従順」ということはなく、むしろ自分を理不尽に虐げてくる大人に対してしっかり反発し立ち向かっていきます。そしてジェインは、「いつか王子様が迎えに来るのを待つ」のではなく、自ら学業に励み、首席レベルの成績を修めることで、自分の力量で職も手にしていきます。ジェインは孤児で生まれの境遇は悪いですが、こうして「自分の努力によって道を切り開いていく女性像」となっているところが、シンデレラとの違いです(本書第1章)

ので、本書の構成としては、まず「シンデレラ(シンデレラ・ストーリー)」を紹介しつつも、その後に出てきた「脱・シンデレラ」な物語の行方を追いかけることで、英文学における少女小説の変遷を辿るといったものとなっています。扱われる作品としては、『ジェイン・エア』『若草物語』『あしながおじさん』『赤毛のアン』などなど。正直なところ、僕は一つも読んだことがなかったのですが、本書では各作品についてラストの展開まで書かれているので、ネタバレ厳禁派は気をつけた方が良いです。赤毛のアン」「あしながおじさん」ぐらいは読んでおけばよかったなと思いました(でも未読でも全然楽しめます)。

そんなこんなで、数々の作品の読解を通して、少女小説にシンデレラ・ストーリー以外の物語もあること、むしろ「少女が気高く立ち向かう物語」があることを示していったのが本書の特徴かと思います(本書ではそれが「ジェイン・エア・シンドローム」と名付けられている)。かつ、そこにどのようなジェンダー論的な意味合いがあるかについても触れられているので、そういう観点からの関心にも応えていると思います。

 

読んだ感想

感想は大きく分けて3つぐらい書こうと思います。

素人目にも無理のない読解

まず本書の感想の1つ目として、著者による作品解釈の仕方がかなり読者に優しいというか、丁寧だな〜〜と感じました。というのも、「この作品からは〇〇ということが読み取れる」ということの説明が、毎回しっかり根拠を提示したうえで行われており、非常に無理がないというか、すんなり納得できるものでした。

冒頭で、大学院生のときに英文学の講義を取っていたと書きましたが、そのときはなんというか、講義中「その読み方は納得いかね〜〜〜」と思うことが多々ありました。皆さんは『くまのプーさん』の冒頭を読んだことがありますでしょうか。くまのプーさんは一番最初、主人公のクリストファー・ロビンがプーのぬいぐるみを持って階段を降りてくるところから始まります。で、その講義では、「ここで階段を降りてくるという行為には、『これから夢物語に入っていく』というメタファーが込められている」という説明がされていて、正直初っ端から「ほんとか〜〜〜??」と思っていました。もちろん、そういう読解は全然あるというか、むしろこれは定説だという説明をされたわけですが、なんか腑に落ちなさはすごかったです。そんなに、小説内の一つ一つの行為や場面に特定の意味が込められてるんだろうか......というか。

ただ、本書においては、そのように「細かいメタファーを発見していく」というよりは、「客観的に見て明らかな、はっきりしているテーマを確認していく」という要素が強かったように思います。例えばですが、第1章で『ジェイン・エア』を紹介した後、第2章では舞台をアメリカに移して、「『ジェイン・エア』の影響を受けたアメリカ児童文学」の紹介に入っていきます。で、この「ジェイン・エアの影響を受けている」という点について、どのようにそれを判断するのか? という問題があるかと思いますが、本書においては、該当作品内で『ジェイン・エア』が言及されている箇所を徹底的に洗い出して、「こんだけジェイン・エアが作品内で引き合いに出されているんだから、影響を受けてないわけがないだろ」というのを客観的に示してくれています(『赤毛のアン』などでは、作中で主人公が『ジェイン・エア』を読んで感動している場面がちゃんと描かれている)

そんなわけで、素人目にも納得の行く読解というのが、個人的には本書のよかったところです。難しい専門知識や、精神分析の知識などがなくても、「確かにこの作品からは、そうしたメッセージが読み取れるな」というのがすんなり入ってきました。文学批評系の本を読むとき、ここにどれだけ強引さが無いかが個人的に大事なので、その点本書は非常に素人に優しかったです。研究者内でどういう評価かも気になるけど、まあ新書だしライト層向けというのはあると思います。

 

孤児の物語といえばNARUTO

次の感想。『ジェイン・エア』とその後継作品(『赤毛のアン』など)の共通点として、主人公が孤児というのがあります。で、主人公は孤児で、周りも嫌な大人ばかりで、基本的には孤独なんだけれど、そこから自分の力で周囲に自分の力を認めさせ、やがて周りを味方にしていく...... という共通点が見られています。ここが、小鳥ぐらいしか友達のいなかったシンデレラの違いとしても挙げられていますKindle版p73)。しっかり人間の輪を広げていくのだと。

僕はこれを読んで、NARUTOだなと思いました。完全にNARUTOだなと。NARUTO好きなのでナルトの話します。

shonenjumpplus.com

漫画『NARUTO』の主人公ナルトも孤児で、親や三親等どころか、血の繋がりを持つ人間が一人もいないんですよね。自分が子供の頃はスルーしがちだったけど、あれだけ血縁やら一族が重視されている里で、一人も肉親がいないというのは、想像を絶する孤独だったと思います。かつ、ナルトの中には、かつて里を襲った化け狐が封印されているということで、里中の人間が忌み嫌われています。しかも忍術の才能があるわけでもなく、普通に落ちこぼれ。問題を起こしたときには「どのみちろくな奴じゃねーんだ 見つけ次第殺るぞ!!」同級生であるチョウジのお父さんに言われたり、家族もいないのに里中から嫌われているという、壮絶な生い立ちを背負っています。

ただナルトは、そんな中でも己の努力と不屈の精神によって、周囲の人間に自分を認めさせつつ、やがては里を背負う忍者になっていくわけです。最初はナルトを化け狐としか思ってなかった里の人達も、やがてナルトを英雄としてい認めていく。まあ九尾のバフなり父方・母方の血筋もあり、最終的には「落ちこぼれどころかむしろめちゃくちゃ恵まれてね?」ともなるわけですが、まあそれでは見合わないような孤独な少年時代を送っているので、そこはよしとしましょう。

なぜNARUTOの話をしているかというと、『ジェイン・エア』『赤毛のアン』などと構図が似ていると感じたからですね。どちらも、嫌われ者だった孤児の子が、己の力で周囲の信頼を手にし、努力で成り上がっていく物語だと思います。

ちなみに、『ハリー・ポッター』と『スター・ウォーズルーク・スカイウォーカーについても、主人公の実父・実母がすでに故人なんですよね。ハリーの場合は、屋根裏部屋で虐げられていたところにハグリットがやってきてくれたので、どっちかというとシンデレラ的かもしれないですね。ルークは..... 出しておいてなんだけどよくわかんないのでやめます。

ともかく、本書は少女小説の系譜を追うものだったけれど、少年漫画でも『NARUTO』は似た構図があるなと感じたところです。ここで最近の少年漫画を見ていくと、『鬼滅の刃』では、家族が皆殺しにされつつも妹はしっかり生き残ってます。『チェンソーマン』のデンジくんも、かなり孤独の中で生きてきたけど、生まれついての孤児ではなくて、実は...... という話だし。最近は親との確執を描くのもトレンドなので、全くの孤児の主人公というのは減ってきているかもしれません。そんなわけで、「ここまで孤独を背負った主人公と、そこから道を切り開いていく姿を描いているNARUTOって、やっぱり偉大だなあ」と思った次第でした。何の話??

 

人生の支えになる物語

とはいえ、ここでもう一回話をひっくり返しますが、じゃあNARUTOを『ジェイン・エア』のような少女小説と同列に位置づけられるかと言うと、ちょっと違うかなとも感じています。これが今日最後の感想になりますが、それが「自分の人生を支える物語」となるかどうかいう観点です。

シンデレラにしろジェイン・エアにしろ、それが少女小説として影響力を持った背景としては、何かしら、物語そのものが自分の人生の支えとなってくれるという要素があったのではないかと思います。例えば、シンデレラであれば、「今がツライ状態でも、清く生きていればいつか苦境を抜け出せる」ということの支えになってくれるかもしれないし、ジェイン・エアであれば、「誰かの助けを待つのではなく、自分から積極的に動くんだ」という指針を与えてくれるかもしれません。著者の廣野さんも、こうした読書体験が、少女にとっては「一生を推進する起爆剤」になりうると書いています。一応引用しておく。

少女が試練を乗り越えて自分の世界を切り開くという物語は、子どものころから女性たちに大きな影響を与え、根強いシンデレラ・コンプレックスから脱却するための助けともなる。とりわけ潜在的能力の高い少女にとっては、そうした物語との出会いがもたらす効力は計り知れなく、一生を推進する「起爆剤」にもなりうる。したがって、ジェイン・エア・シンドロームは、決して軽視することのできない、注目すべき文学的現象であると言えるだろう。(Kindle版p176)

子供の頃に読む物語だからこそ、そこに見られる勇敢な姿勢や幸運な結末に、自分の未来予想も影響されるということは、大いにあると思います。

で、一転、NARUTOはどうなのかというと、別にそういうメッセージを受け取るほどではないかな〜〜という感じです(*個人の感想です)。あくまで作品として面白い・感動できるというのはありますが、少年時代を振り返っても、苦境を乗り越えたナルトのことを思い出して自分も頑張ろうと感じたことはついになかったと思います(螺旋丸の練習とかはしたが......)。岸影様には申し訳ないですが、少年漫画としての楽しみ方としては、あくまでバトルシーンの面白さやストーリー展開だったかなと思います。大人になって読み返してみて初めて、ナルトの生き様ってすげぇなってなってるけど......

だいぶ個人的な感想になりましたが、こういったところに「少女小説らしさ」というのが宿っているのかなとも思います。単に物語が面白いだけでなく、読んだ者に、自身の生き様の指針とできるようなものが宿っているというか、「少女」や「女性」の生き方に影響を与えるというか、そういうものがあるのかもしれないと思いました。もちろん著者も、小説の子供向け・大人向け・少女向けといった区別がそこまで自明ではないことを触れているのですが、ただ、何かしら作品同士の比較を行うときに、そういう視点を取り入れるのもありだなと感じたところです。

ちなみに、僕の人生の支えとなっている文学としては、なにげに高校生のときに読んだ太宰の『斜陽』かなと思っています。高校生の時はいろいろと苦境にあったので、「けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。」というメッセージにはだいぶ力をもらいました。完全な余談でした。逆に少年時代に読んだもので今も影響を受けているものはあんまり思いつかないな..... 怪談レストランとかしか読んでなかったからかもしれない。

 

 

懐かしいですね。

 

 

 

 

以上!!

というわけで、本日は読書感想第二弾でした。

普段、こういう文学論的な本は読まないので、結構新鮮な体験でした。そして非常に面白かったです。途中の感想でも書いたけど、解釈にほとんど無理を感じず、むしろ納得感が強かったのが大きかったです。

 

次回は、2023年に最も話題だった、あの「言語にまつわる新書」を扱いたいと思います。どうぞ次回もよろしくお願いいたします。