浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

修論と「ジョジョリオン」は同じなのか違うのか(違います):修士論文反省会

ども。

しばらく更新を休んでおりました。サボってすみませんでした。修論を提出して以降、ちょっと気が緩んでおりまして..... 本年も「浅瀬でぱちゃぱちゃ日和」とたたたたたをよろしくお願いします。正直この名前は変えたいと思っている。

今日は今年の抱負と、修論の反省についてです。

 

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昨今の京都は、何食わぬ顔で雪が降っていてビビる。

今年の抱負

今日は新年最初の更新ということで、ここで今年のブログの抱負を述べたいと思います。今年の抱負はずばり、

面白い本をたくさん読んで、面白いことをたくさん書く

です。去年は段々と読書感想とかが減って、愚痴とか愚かな戯言が増えていったので、今年は「最低月1回は読書感想会を設ける」というのを目標にやっていきます。その方が需要もあると思うので。

更新はできれば週一ぐらいでやりたいとは思っている。たくさんコンテンツがあった方がなんかいろいろ楽しいと思うゆえ。1月はサボりましたが、これからは頑張っていきます。たくさん書きます。ので、どうかよろしくお願いします。

 

修論を出した

今日のメインは修士論文反省会です。

皆さん、修士論文とは何かご存じでしょうか。実のところ僕も知りません。マジで。今日はその話です。

先日僕はようやっと修論を提出しましたが、そのことで、解放感に満たされるというよりむしろ、日に日に虚無感が強くなっていて困っています。なぜかといえば、自分でも「こりゃあひでえや」と思う修論を出したため。僕の修論はだいたい『ジョジョリオン』と同じだと思っていて、迷走に迷走を重ねた挙げ句なんかよくわからんこと言い出したと思ったら、これまたよくわからん理論を持ち出しそのごり押しで無理やりエンドに持っていった、という感じになっています(存在しない回転って何?)。全体的にこう、敵を強大にしすぎた結果、その敵の倒し方がわからんなくなって無理筋を通したというところが似ていると思う。

 

教授:あなたの議論はこう、何か先行研究とかとして存在しているんですか?

僕:いいえ存在しません。でも、この世に「存在しない」理論だからこそ、あらゆる「批判」を”越えていける”んです。それがゴー・ビヨンドです。

 

修論割とマジでこんな感じ。で、ジョジョリオンネタはこれぐらいにして、今日は修論について思うことを書きます。

 

修論とは結局なんなのか

僕の修論も『ジョジョリオン』も、根本で共通していることとして、「書き始めた以上は終わらせないといけない」ということがあると思います。我々、提出しなければ留年確定のため。ただ、「完結させるためだけに修論を書くのか」と言われれば、そんなはずもなく、我々は何らかの目的を持って修論を書いているはず。じゃあその目的って何? というのが、最近よくわかんなくなって困るねという話です。

僕は2週間ほど前に修論を提出してきて、結果としては5万4千字ほどになりました(註とか参考文献含む)。多分、人文系の修論は平均4万字前後ではないかと思うので、僕の場合人よりちょい多めに書いたか、単に文章が冗長だということになると思います(卒論の目安が2万字程度と言われているため、おそらく3万字あたりが修論のボーダーで、でも長い人は10万字以上書いているらしい)。終盤はガチで泣きそうになりながらやっていたため、決して手を抜いたとか流したということはなく、ほぼほぼ出せる限界は出したのではないかと思います。振り返ればもうちょい頑張れたなとは思うけど。

で、そんな長大な文章(論文)を書く目的って何? と考えると、何があるかといえば、一つありそうなのは、2年間の研究の成果をしっかり形にしようというもの。論文としてまとめて初めて研究は形になるのであり、修論はその2年間の集大成になるということ。そしてもうひとつありそうなのが、修論は、修士の学位を取るために必要だから提出しようねというもの。こっちは学問的成果を残すと言うよりは、単に学位認定のために、それが形式的に必要だという話。

どちらもありそうなのだけれど、今日言いたいのは、このどちらを採るにしても、博士に進まぬ人間にとっては意義がよくわからないよということ。今日はそういう「なぜ修論を書くのか」について思ったことを書くので、じゃあなんで院進したのというツッコミは置いておいて、ちょっとだけお付き合いいただければ幸いです。

修論がどうとかあれこれ書きますが、なんかもう全体的に疲れてる学生がたわ言として書いているものなので、あんまり参考にしないでください。

 

研究の成果としての修論

我々、最低2年間の修士課程を経るわけであるが、修論とはそこでの研究の成果の集大成なのか。

大学院の修士課程(博士前期課程)は、修論を書くための2年間と言われたりもする。学部が4年間、博士(博士後期課程)が最低でも3年間なのに比べて、修士は2年と短い。ので、この期間は修論執筆のために計画的に使いましょうとよく言われる(僕も言われた)。

で、何が言いたいかといえば、修士課程の2年間は、基本的には「修論を書くための時間」として見られているはずだということ。極端な話、我々は修論を書くために修士課程に行くのだとさえ言える。学部生の場合はそうではなくて、「この4年間は、卒論を書くための時間です」とはあんまり言われないはず(卒論が必須じゃないところもあるし)。修士論文執筆は言うなれば、修士課程の目的でありゴールでもある、のだと思う。

......のだが、問題は、そうやって修論として残すもののクオリティが著しく低い場合である。特に博士に進まぬ修士たちは就活しながらの研究になるはずなので、そんなにガッツリ新規性とか革新性を打ち出せないとも思う(打ち出せたらすごい)。よく聞く話ではあるが、博士に進むならともかく、そうでない学生たちの修論はまあ出せばほとんど通るらしいし。そうしたものを「研究の集大成」として残したところで、若干虚しいといいますか..... 論文は一応、学問や社会への新たな貢献(付加)として書くものであるだけれど、我々院生の書くことは、研究者から見ればペーペーのPayPay(スマホひとつでお支払い)であるだろうし、それを残したところで結局何だろうなと思わないでもない。

結局のところ問題は、見知らぬ誰かに「あなたは修士課程に行って、そこで何をしたんですか?」と聞かれたときに、「研究の成果を、修論という形で残しました」と答えても、「修論を書いて、それで何がどうなったんですか?」と言われたら、うん何がどうなったんだろうねと個人的には思ってしまうということです。その「研究の成果」がどこかの誰かの役に立っていればいいのだが、修士の段階でそこまでの成果を残すのも多分難しいのではないかと思う(僕はできていなくて、それこそが問題なのだが)。ので、「修論の目的は、2年間の研究の成果を形にすること」としても、若干虚しさもあるということです(とはいえ、その論文単体で何かに貢献できていなくても、「そこから議論が生まれることに意義がある」と言われれば、そうかもしれない)

こんなこと書くのは、多分だいぶ疲れているからです。

 

修士の学位を取るための修論

「何のために修論を書くの?」に対するもうひとつの答え方は、「修論は、修士過程を修了するために必要だから」というもの。これはシンプルでわかりやすいと思う。たとえ論文の中身が鳥取砂丘DQNたちが書いた落書き並に無価値だとしても、「これは学位取得のために書いたもんやから!!」と開き直ることができる。

ただ結局のところ、修士の学位を取ったから何?」というのが問題になるはず。修士号を持っていることが尊ばれる世の中ならともかく、現状はそれがプラスにはたらくことはほとんどないため(特に文系分野はそうだと思う)。肩書きとしては残せるだろうけど、修論書いて修士号持っているから何? というのが、最近思うところです。

濱中淳子『検証・学歴の効用』(勁草書房, 2013)

↑この前、ちらっとこの本を読んで、内容は「検証・学歴の効用」の名の通り、社会学の分析系。で、第6章が「院卒という学歴は『使えない』のか」というものでした。書いてあることは皆さんご存じの通り、日本社会では院卒という学歴はほとんど重宝されませんよ(特に文系)というものなのだが、特に面白かったのが、「修士号」の学位を持っていても、別に年収が増える傾向にはありませんよというもの。それすなわち、我々は大学院に行くことで逆に学費を払っているので、むしろ全体として見れば経済面はマイナスではないかということが言われていた。それは多分その通りで、別に修士号を持っていることでの経済的なメリットはほとんどないどこら逆にマイナスでもありうると思う(特に文系の場合)。

 

だからまあ、苦労して修士論文書いたけれど、それが果たして何になるんだろうな? というのを、提出以降ずっと考えてしまっているということです。論文の中身がジョジョリオン並みに「どゆこと??」って感じなので。これが2年間の研究の「成果」だとしたら、大変情けなく思うし(と書くとジョジョリオンに失礼なのだが、ジョジョリオンは10年続いた)、逆に「修了要件を満たすために書いたんだ」と開き直っても、じゃあそれが満たせたから何なの? と問われれば結局よく分からないためです。こ仮に博士後期課程進学者とかであれば、「今後の研究の土台を作った」とか言えるかもしれないけど、そうでない自分の場合は、まあよく分からなかったりするんだね。

 

学問作法養成としての修論

......とまあ実はここまでは前置きで、ここからが本題。上ではネガティブなことばかり書いたけれど、最近になって、ようやく修論の意義というものを感じ取れた気がします。

というのも我々、その気になれば自主的に研究報告を行ったり、こうやってブログで自分の考えを発信することもできるわけだけれど、それらと「修論」は何が違うのか? という話です。単なる論文(レポート・エッセイ)と、修士論文の違いはどこにあるのか。それすなわち、修論には教授による審査があることだと思います。それも学位認定に関わる結構重大な審査がある。この「教授達(プロ)による審査」というプロセスを経るのが、修論の特質のように思います。

 

修論とは何なのか? ということを考える際、川崎剛『社会科学系のための「優秀論文」作成術』(勁草書房, 2010)には、修士論文の特徴について、次のような記述があります。

査読論文と博士論文は知的フロンティアの拡大に直接的に貢献することを目的とするが、修士論文はそうではない。その主要目的は、基本的な研究プロセスを(指導教官の助けを得ながらも)自力でこなせる能力を示すことにある。極論すれば、論文の内容そのものよりも、作成プロセスの達成そのものにねらいがある。(中略)言い換えれば、博士論文用のトレーニングが修士論文の役割といえよう。(89頁, 強調は引用者)

まず、論文には「問題と解決」という枠組みがある。そして修論ではそういう「型」を押さえることが大事なのだということが、ここでは度々言われている。つまり我々、修論で為すべきは、学問や社会への革新的な貢献以上に(論文である以上それも最低限必要ではあるけど)、まずは形式や作法を身につけることなのだと、そういうことになるはず。

そういうわけで、修論というのはつまるところ、「学問的な作法や研究プロセスがしっかり押さえられているか、教授たちが厳正な場で審査しますよ」というものではないかと思います。そうだとすれば、主張の中身云々よりも、論文の構成や骨子が大切ということになり、だからこそ、そこにしっかりした審査が必要なのではないかとも思います(基本的な研究プロセスができていない人間に、「修士」の学位を与えるわけにはいかないため)。

で、僕は内容カッスカスの極みみたいな修論を出したし、他にも多くの人が「これを読むぐらいなら、まだ雨上がりの水たまりに浮かぶ微生物たちの躍動を眺めていた方がマシだよ」と感じるものを出しているかもしれないけど、大丈夫、中身は問題ではない。大事なのは外殻であり構造だ、というのが今日言いたかったことです。全然確証はないけど、僕はそう考えることにしました。そう考えれば、いくらか気持ちは晴れるので。

まあ普通、修士で指導教員からいろいろ指導を受けていれば、そんなの当たり前では? と思うのかも知れないけど、いかんせん僕は「指導」とかは受けずに育ってきたため.....今更そういうことに気付きました。人文系の院生なら一定数そういう人はいるはず。

もちろん、こういう結論に対しても、「学問的作法を身につけたから(それに教授たちからお墨付きをもらったから)何?」ということは言いうるはず。とはいえ、これに対しては、「学問的作法を身につけることの意義」みたいなのを実感できていれば大丈夫と思います。少なくとも、論証のプロセスやリサーチの技法を身につけているということは、他人としっかり議論したり、自分の主張をより説得的にする上で大きなアドバンテージになるはず(僕はそう思っている)。だからまあ、「あなたは修士課程に行って、そこで何をしたの?」と聞かれたら、今後は「学問的な作法とかをしっかり身につけました(そのことのお墨付きもあり)」と答えることと思います。それが何の役に立つの? と聞かれれば、てめえの目で確かめなと言えるはず。まあそれは冗談で、折角ならそこまでしっかり論証できるとよいと思います。

 

結論

Q. 修論は、ジョジョリオン並に迷走してたり無理なロジックを通したりしてても完結してればいいの?

A. ジョジョリオン並ならOK!!

すみませんが、今日の結論はそんな感じにしたいと思います。ジョジョリオンネタを何度も引っ張って申し訳ないが、修論で大事なのは、おそらく中身の面白さよりも形式の整い具合にあるということで。そういう視点で見れば、ジョジョリオンもなんだかんだ面白いと思います。

書き忘れたけど、修論には基本「公聴会(発表会)」なるものがついていて、これが論文の審査の場になります。僕はまだこれをやっていないので、正確にはまだ修論は『終わっていない」。自分の場合、20分で自分の修論の内容を報告して、10分間、主査の先生ひとりと副査の先生ふたりの質問に答えるという流れになっている。これにきっちり答えられれば、晴れて修士号認定というわけです。

まあこういうことも言われているわけですが...... 僕も正式には、2週間後の公聴会修論が通るかどうかが決まります。これで落ちたらおもろいね。

 

 

そんな感じです

久しぶりに書いたせいか、ちょっと感覚がよくわからなくなってました。いつもより微妙だったら申し訳ないです。

最近、気分がブルー中のブルーで(カラーコードで言うと#3300CCぐらい)、その原因がカスカス修論を出したことによる落ち込みから来ているのですが、このように自分のことも励まして参りたいと思います。ので、2022年もよろしくお願いします。みんなも修論頑張ろう。

 

 

↑この前全巻読み終わったので、どうしてもこの話をしたかった。