浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

感情を外に出すこと

こんばんは。お久しぶりです。最近ちょっとサボってました。

当初は「毎日なんか書こう」と思っていたこのブログ、このところは隔日とかになりがちである。それでも頻度は高い方かもしれないが、3日ぐらい休むと、めっちゃ久しぶりに感じられることですよ。毎日やってると「久しぶり」の感覚がバグる。これ、筋トレやってる人とかは分かってくれるかもしれない。

で、近頃、「ブログを書く」ということについて、ちょっと否定的になっているところがある。書くとか発信することって、いい面ばかりじゃないよなというか。ネット疲れというのもあるし、ネガティブ面への実感が強くなってきております。

今日はひとまずその辺の話。徹頭徹尾、僕の雑感になるというか、ほぼ自分の話しかしないっす。多くの人にとって無関係なことかもしれないが、まあ付き合ってくれれば幸いよ。どっかで役に立つかもしれん。 

 

感情のある風景

近頃、諸星大二郞の短編漫画「感情のある風景」をよく思い出す。

↑こちらに収録されている。すっげえので、買うべし。

「書くことにネガティブになってる」と言ったけれど、その辺は、この漫画を使って説明するのが、一番面白いように感じる。ので、今日はこれに沿ってやっていきます。やらせてください。ひとまず、あらすじの紹介から。

 

【あらすじ】

とぼとぼ歩いている人のイラスト

主人公は宇宙難民の青年。彼の人生は苦痛ばかり。紛争や圧政に巻き込まれ、どこの惑星にも自分の居場所はなく、母親も難民収容所で殺されてしまった。絶望的な生活を経て、今は途方もない恐怖や悲しみを背負っている。

ある日青年は、収容所を逃れ、とある街にたどり着く。その街の住人はみな無表情で、感情がないように見えた。必死に助けを求めるも、誰一人として取り合ってくれない。結局青年は行き倒れてしまい、通りがかったおっさんに助けられる。

青年はこの街の人間は冷酷だと言う。が、そのおっさんによると、街の住人は感情がないのではなく、むしろ人並み以上にそれは豊かであるとのこと。ただ彼らは、感情を自らの心の内に持たず、それを外側に出しているだけなのだという。

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再現イラスト(著作権に配慮して自作)

ちなみにこの二人、どういう感情だと思いますか。

実は二人とも、めちゃくちゃ笑ってます。特に女性の方は、腹がよじれるほど笑っている。この街においては、二人の横に出ているような幾何学模様が、この人たちの「感情」なのである。感じていることが内側から外に出て、目で見てわかるようになっている(ゆえに嘘もつけない)。

逆に街の人は、目で見える形でなければ、他者の感情もわからない。だから主人公が必死で助けを求めても、「こいつ何? 感情ないの?」という感じだったのである。

そして親切なおっさんが言うには、主人公も感情を外に出すことができるという。感情を外に出せば、つらい出来事を思い出しても、「つらい」という実感がなくなるとのこと。記憶と感情が切り離されるのである。

試しに、”恐怖”を外に出してもらった。彼は戦争や飢餓を経験し、途方もない恐怖を抱えていたので。すると、心の内から”恐怖”がなくなり、難民生活を思い出しても、感情が揺れることがなくなった。非常に気持ちが楽になったのである。

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こんな感じになった(出ているのが恐怖。作図が下手)

そして、彼のあまりの”恐怖”の大きさに、街の人たちはみんな彼に親切にしてくれた。可視化さえされていればみんな優しく、道に座っているだけで施しを与えてくれるのである。

....が、もちろん副作用もあった。次第に”恐怖”だけでなく、悲しみや喜びや憎悪など、他の感情まで外に出て行った。曰く、「恐怖の感情だけを切り離すことはできない」とのことである。様々な想いが心の内から消えていき、それを「感じる」ことができなくなってしまった。

「ほんのわずかな喜びでも、僕は心の中に留めておきたかった」主人公はそう語り、放浪の旅に出る。最後に、彼は次のように自問する。「確かに恐怖や悲しみはなくなった....... が、今の僕は、果たして生きていると言えるのだろうか?」そして母への想いだけは消すまいと、いつまでもいつまでも荒野にたたずんでいた、、、というお話です。

 

「書く」こととの関連

詳しくは原作を読むべし。ひとまず、この話の教訓について。

色々あるとは思うけど、僕はその一つに、「自分の感情は、他者に見せるためだけのものじゃない」というのがある気がします。内に秘めておくのも、大事というか。

この物語、主人公は恐怖や悲しみを外に出すことで、街の人から親切にしてもらえるんですね。傍から「あいつとんでもねえ」というのがわかるので。共感してもらえたり、施しを受けられたりします。

ただ、その反面、感情を外に出すことで、自分の中でのリアリティが消えてしまったりする。実感が遠くなるということ。

これ、個人的には、書くこととか発信することにも当てはまると思います。

書くというのは、自分の内面と対峙し、それを言語化する行為でもある。内なる想いに言葉を与えて、それを他者に開いていく。読んだ本の感想でも、今悩んでいることでも、言葉にして伝えない限りは、自分の中にしか存在しないものである。が、書いたり伝えたりすることによって、それが外にも開けていく。

ただ、他人に理解可能な形にするということは、それが自分一人だけのものじゃなくなるということでもある。繰り返すけれど、喜びも悲しみも、誰にも伝えなければ、それを知っているのは自分しかいない。だからこそ、そこに向き合う時間は増えるし、どうすれば他者にも伝えわるものかと、真剣に考え抜いたりもする。が、その言語化に成功して、ひとたび外に出してしまえば、もう自分の中では、一応の決着がついたものということになると思う。そうすると、以前よりそこについて悩まなくなるし、感情の実感も薄くなるということ(正直、自分で読み返しても何言ってるかはよく分からん)

 

もうぶっちゃけると、なんでも言葉にすればいいわけじゃないよねという話です。言葉にして外に出さずに、自分の中に秘めておくべきものもある。それが「感情のある風景」を読んだ感想です。

で、毎日なんからしら書こうとすると、あらゆる思考を開示してしまいそうになる。「最近はこんなことを考えてます」とか。ただ、繰り返しになるけど、感情は外部に表すことで自分から離れていったりもする。ので、自分の気持ちをやたらと外に出すのは、たとえそれが共感を呼んだとしても、あんまりよくないよなあという話でしたす。

 

 

というわけですよ。

ブログでも研究でも、一度ちゃんと書いてしまうと、もうそれについてあんまり考えなくなるんですよね。自分の中で一区切りついてしまうというか。だから、日常的に悶々と考えてしまうことほど、安直に発信するのはよくないなって思い始めました(というと、これを書くこと自体も矛盾してしまうんですが)。

 

今後どうする?

かについても、少し悩んでます。近頃は、ネットで発信するって、やっぱリスキーだなとも感じているので。まあ、細々とやって行けたらなあという感じ。 

今日はこの辺で。

ちなみに、今日の大学、入学式のせいで50密ぐらいになってたけど、クラスターが起こらんか心配や。