浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

恋愛の成就で人生は闇から救われるか?

ども。お久しぶりです。最近は本当に書くネタがなくて困ってます。ネタがないというか、ブログ書いてる暇があったら修論を書こうねという気分になってしまう。まあそれが正しいのだが......

今日は禁忌に触れます。恋愛の話です。

 

恋愛で人生は救われるか?

なぜこんなことを書いているかというと、最近、現代思想2021年9月号『<恋愛>の現在』を読んでいるためです。

Kindleで買ってお風呂で読んでいる

今年の8月末に出た本で、周りで買っている人が多く、なんか評価も高いので買ってみました。

が、面白いかと言われれば、まぁまぁという感じ。根底にあるのがゴリゴリにフェミニズム的文脈なので、評価高いとはいえ、乗れない人は乗れないだろうなあと思いながら読んでます。勉強にはなる。

中身としては、15編ほどの論文・エッセイ・対談で構成され、それぞれ「恋愛」を様々な角度から論じたもの。ただ、それぞれに共通するところも多く、大体は、現状の「恋愛」にまつわる諸文化(ポップソング、漫画、ドラマ、映画など)が異性愛中心主義的に構築されていることを指摘し、それを社会構築主義の観点・男性特権性批判などから捉えなおし、恋愛の概念を新しく刷新しましょうという感じです。恋愛の現在というタイトルだけど、どうも、「恋愛の現在はこんな感じ」という記述面よりも、「これからの恋愛はこうあるべきだ(こうあってほしい)」という規範面・願望面が先行しているように見えて、まあなんかモヤりながら読んでます。言っていることは分かるんだけど、ちゃんとフェミニズムとかあんまり知らん人を説得する文章になってるか? とかでモヤる。

 

カーペンターズを聴こう

ところで、最近の僕は久しぶりにカーペンターズ Carpentersを聴いています。誰でも思春期にはカーペンターズを聴くものだよな。僕も中高、特に高校時代によく聴いてました。今、約7年ぶりに聴き直しています。

 

カーペンターズのベストアルバム「Gold - Greatest Hits」(2000年)。高校1年のとき、僕が初めて自分でお金出して買ったアルバム。iTunesに今も入っている。

 

カーペンターズって誰?

一応知らない人のために説明すると、カーペンターズは1970~80年頃、アメリカで活動してたデュオユニット。リチャード・カーペンターとカレン・カーペンターの実の兄妹からなっています。カーペンターは日本語で”大工”の意味があるけれど、この場合は二人の名字から来ています。色んな曲を出してめっちゃ売れた。

1983年、カーペンターズは、妹のカレン・カーペンターの死により活動停止に。カレンは重度の拒食症でありました。当時は今ほど摂食障害についての一般的認知はなく、カレンの死によって、拒食症・過食症の深刻さが広まったそうです。「雨の日と月曜日は」のようにメランコリックな曲が多く(明るい曲も多いけど)、カレンの悲劇も相俟って、暗さ・鬱さにカーペンターズの魅力を見出す人も多いと聞きます(明るい曲も多いけど)。

 

↑「雨の日と月曜日は Rainy Days and Mondays」。暗い曲代表。この曲からカーペンターズに入った人も少なくないとか。ちなみに僕は「トップ・オブ・ザ・ワールド Top Of The World」から入った。こっちは明るい曲代表。

より詳しくカーペンターズについて知りたい人は、Wikipediaを見るべし。

ja.wikipedia.org

 

カーペンターズ的世界観

なぜカーペンターズの話をしているかと言えば、本日のお題が恋愛だからです。カーペンターズは恋愛ソングを多数出しており、そしてその恋愛観が非常にわかりやすいと思って、ここで取り上げています。

で、その恋愛観とは、すなわち、

この世界は狂っていて、そこで私は酷く生きづらい思いをしていたのだが、あなたという人に愛されたことで、そうした苦しみから救われた

というもの。多分これはカペあるカーペンターズあるある;造語)です。

カーペンターズの恋愛観は、少なくとも二つの要素から成る、非常にシンプルなものとなっていそうです。一つは、この世界が狂っているということこと(そこに自分の居場所が無いこと)。もうひとつは、恋愛の成就によってそこから救われる(あるいは、救われることを望んでいる)ということです。彼女らのだいたいの恋愛ソングで、この世界観が織り込まれている気がします。

例として、I Won't Las A Day Wituout You(邦:愛は夢の中に)のサビとかはわかりやすい。

When there's no getting over that rainbow
When my smallest of dreams won't come true
I can take all the madness the world has to give
But I won't last a day without you

たとえあの虹を越えることができなくても
私の最も小さい夢さえ叶わなくても
私はこの世界のあらゆる狂気を受け入れられるわ
でもあなたなしでは一日とて生きていけない

この歌詞、逆に言えば、「あなたと一緒ならこの狂った世界でも生きていける」ということで、ここにカーペンターズの基調世界観が現れていると思います。

ちなみに、「この世界狂ってるよ」系の描写はI Need To Be In Love(邦:青春の輝き*1)にもあります。歌い出し、「これまでの人生で最もつらかったのは、この狂った世界に、私のための誰かがいるって信じ続けること」とか、サビでも「この極めて不完全な世界に完璧さを求めてる」っていうフレーズが出てくるので。この曲の場合だと、そうした辛さから自分を救ってくれる”あなた”の存在が現れないのが悲しいですね。

↑I Need To Be In Love。2番目くらいに好き。名曲。聴くとメランコリックな気持ちになれる。

あと、Rainy Days And Mondays(邦:雨の日と月曜日は)も、結構これに近いと思ってます。この世界狂ってるよとは言わないけれど、「自分がどこにも属してないように感じる」「唯一私にできるのは、駆け回って、私を愛してくれる誰かを見つけることに思える」というフレーズがあるので。

カペあるのもうひとつの要素、「愛されることで救われた」というのは、結構わかりやすいです。Top of The World「あなたの愛が、私を世界の頂上まで連れてったの」とか、Only Yesterday にも「悲しく孤独だったのはつい昨日まで」「あなたの愛が、私を永遠に流れる歌のように自由にした」とかありますね。愛されることで、自分は孤独を抜け出し、人生の幸せを見つけたという、そういう歌詞は多いです。改めて聴くとOnly Yesterday っていい曲だな。


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↑Only Yesterday 。一応貼りますね。

この「愛されることで救われる」という世界観は、別にカーペンターズに限られず、J-POPでもRADWIMPSとかBUMPとか他にもありがちと思います。ただ、この世界を「狂ってる」(madnessとかstrangeとかcrazy)で表すのは、カーペンターズらしいところだなとも思います。

 

恋愛で人生は救われるか?

本題に入ります。

上で書いた限りでは、カーペンターズの恋愛観って、めっちゃわかりやすいなと思えます。非常に単純化すれば、その恋愛観は「孤独→恋愛の成就→救われる」というもの。もちろん、彼女らも、それがすべてではなくて、一筋縄ではいかない恋愛関係とかも歌ってはいますが(This Masqueradeとか)、まあでもヒットソングの恋愛観は分かりやすいです。

で、問題は、実際に人生は恋愛の成就によって闇から救われるのか? ということです。

ここで冒頭に帰ると、↑で挙げた本『<恋愛>の現在』は、これに対して否定的な態度を取っているように思います。ざっくり書くと、この本は上の問いに対して、「恋愛で人生が救われるとか、そういう考えは幻想に過ぎないし、そこまで大きなものを恋愛に託すのはもうやめようよ」と言っているように思えます。なんということだ.....

ちなみに、僕は本書をまだ全部は読めてないですが、この本の基本スタンスは大体冒頭の「【討議】これからの恋愛の社会学のために / 高橋幸+永田夏来」に示されているように思います。これらを参照しつつ、「恋愛によって人生は救われるか」という問いに「<恋愛>の現在」はどう答えうるか、僕の推測込みで書きます。

① やっぱりそれは幻想よ

まず一つ問いうるのが、愛されることで闇から抜け出しました的な、「恋愛で一発逆転」的なことが、本当にあり得るのかということ。つまり、それは幻想に過ぎぬと答えるか、あるいは確証がないと懐疑的になるものですね。

この本だと、石井ゆかり『恋を語る言葉』というエッセイで、そうしたスタンスが見受けられます。ここではアニメ映画「レッドタートル」のワンシーン(主人公がヒロインに出会う場面)を引いて、次のように書かれている。

〔ヒロイン登場で〕この、「恋に落ちた」瞬間の表現はすばらしく華やかで、幻想的で、美しい。(中略)。いわゆる「ロマンティック・ラブ」の一撃で、それまでの深刻な実存的問題があとかたもなく消え去ってしまうのだ。この展開には、私は正直、感情移入できなかった。恋愛一発、それですべてが解決するなんて、そんなに単純でいいのだろうか。

(中略)恋愛はしかし、そんなに絶対的な人生の救い、あるいは目標となり得るだろうか。私にはそこがどうしても納得できなかった。

石井ゆかり(2021)「恋を語る言葉」『現代思想』49(10) (Kindle の位置No.4986-4997). Kindle 版. 

恋愛成就の一発で、これまでの苦悩が吹き飛ぶのかと、石井氏はそこに懐疑的な意見を出しています。それは恋愛にすべてを託しすぎなのでは? と。「救い」という言葉ではっきりとそう書いているのは石井氏だけだったけれど、こうした態度は、『<恋愛>の現在』の寄稿者のほとんどが抱いているのではないか、と僕は思います。つまりは、恋愛成就で悩みがすべて解決するような、そんなこと本当にあるんかいなということ。

② それは社会的に構築されている

そうした懐疑的立場もあるけれど、とはいえ我々は、「いや、恋愛が上手くいくことで、人生の絶望から抜け出せることもある」と主張したくもなるはず。例えば、何かそうした実例のようなものがあれば、なおさらそうしたくなります。

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僕はこうした例として、映画の「JOKER」を引き合いに出せるのではないか、と考えてます。映画「JOKER」では、もう全人類が見ているものと思ってネタバレしつつ書きますが、彼の最後の正気を支えていたのがカノジョの存在だったという読みも可能です(そのカノジョは妄想でしたが)。そういうのを見ると、上記の考えは幻想に過ぎないわけではなくて、「実際にありうることだ」とも言いうるはず。JOKERは、恋愛さえ上手くいっていればあそこまで絶望せずに済んだのではないか、もっと言えば、恋愛はJOKERを救えたのではないか、と主張したくなるわけです。

それに対して、この『<恋愛>の現在』から言えることは、おそらく次のようなこと。すなわち、「JOKERは恋愛に救いを求めていたが、その考えは社会的に構築されている」。そもそもなぜJOKERは、「友人関係」や「仕事」や「趣味」では無く、「恋愛関係」に希望を託していたのか。なぜ彼は、カノジョの妄想という形で心の安寧を図ったのか。それは彼が、メディアや世の風潮によって、「恋愛がすべてを解決する」と思わされていたからに過ぎないのである。つまりは社会によって、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」を植え付けられていたから。たとえ恋愛によって救われるような状況が見られたとしても、それは「そう思わされている」だけに過ぎず、本質的でも何でもない、と言えそうな気がします(実際にJOKERの話を出してそう言っているのではなくて、多分そう言うんじゃないかという僕の推測です)

本書のスタンスとして、現にある恋愛についての固定観念を、社会構築主義の視点から問い直していく、というのが確かにありそうです。実際、恋愛至上主義批判とか、ロマンティック・ラブ・イデオロギーからの脱却とかも説かれているし。恋愛に多大な希望を託す発想には、そうした観点からの批判がなされるんじゃないかなあと思います。

例えば、【討議】における冒頭の高橋さんの発言。

高橋: まず、なぜ「恋愛」なのか。(中略)最大の理由は、一九世紀の欧米でその原理が確立した「恋愛(ロマンティック・ラブ)」が男女二元論を基盤とするヘテロセクシズム(異性愛主義)だからです。これを刷新した新たな「恋愛」概念を構築していくことが必要不可欠です

永田,高橋(2021)「討議 これからの恋愛の社会学のために 」『現代思想』49(10) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.70-74). Kindle 版. 

これはあくまで僕の読みですが、ここでいう「異性愛主義的な恋愛概念の刷新」は、単にそこに「異性愛以外(同性愛)も組み込みますよ」ということだけでなく、今までのロマンティック・ラブ・イデオロギー全体を批判して、これからはフェミニズムジェンダー論を基礎とした全く新しい恋愛概念を構築していくのだという、そういう姿勢があるように思います。というわけで、「恋愛の成就で人生が救われる」というのは明らかにロマンティック・ラブ・イデオロギーの表れなので(ちなみにロマンティック・ラブ・イデオロギーが何なのかは僕もなんとなくしか分かってない)、何らかの形で批判されると思います(たぶん社会構築主義が使われるのでは)。

③ 恋愛以外にもいろいろある

「恋愛は人生の闇を救うか?」への答えは、なんで恋愛じゃないとダメなの? に集約されそうです。恋愛以外にも、趣味のコミュニティや友人関係、地域への貢献など、孤独や絶望から抜け出す手段は残されているはず。今後は幻想に縋るのではなく、そうしたものに希望を託し、実践していきましょうということ。

いやいや、俺の人生の悲しみは、恋愛以外で救われるとは思えないんだが? という方もいるはず。そういう方には、「そうした固定観念を社会から植え付けられてしまったんだね......」という対応になると思います。ダイジョブ、恋愛じゃないとダメというのは思い込みに過ぎないし、そう考える理由はないんだよ、と諭されることになりそうです。

以下の文章は、高橋×永田【討議】にて、「社会的承認」との関連で書かれているものだけれど、これはそれ以外の文脈にも当てはまりそうです。

本来、若者が自分の身を立てて居場所を獲得する手段というのは結婚や恋愛以外にもあるはずだと思うのです――例えば仕事で成功するとか、あるいは趣味のつながりでかけがえのない仲間を作るとか。...(中略)。若い人たちが自分たちならではの、広い意味での親密性を形成しても、それを社会が承認しないということをここ三〇年ずっと続けているわけです。そのなかで社会的な承認を得て獲得されうる親密性として、家族や、あるいは恋愛というものに今のところ希望が託されているという構図なのだと思いますが、しかし私はほかにもっとあっていいと思っています。先ほど高橋さんがおっしゃった「ときめき」にしても、それは必ずしも恋愛でしか得られないものではないですよね。いわゆる「推し」というものもありますし。にもかかわらずそれらが恋愛や家族に収斂してしまう

永田,高橋(2021)「討議 これからの恋愛の社会学のために 」『現代思想』49(10) (Kindle の位置No.571-578). Kindle 版. (太字は引用者)

ここで言われているのは、現状、結婚などが「社会的承認」を得る鍵になっているけれど(結婚すると一人前と見なされるとか)、それ以外の友人関係や趣味のサークルなどでも、社会からの承認が得られるようになった方がいいよね、ということ。

これはある種、「恋愛でしか得られない」と考えられているものを、他の関係性でも得られるようにしよう、という転換だと思います。要は恋愛に特権的地位を与えるのはやめよう、ということ。恋愛関係は、何も特別で崇高なものなのではなくて、実は他のあらゆる関係でその代わりを果たせるのであって、それが現在の恋愛なのだと、そう主張していくのではないかと思います。

ただし、それで「恋愛」の持つ特別性が全くなくなるわけではなくて、形を変えてそれは残っていくだろうと、【討議】の高橋さんは指摘しています。

恋愛の社会的機能とは「人格的価値の承認」であると仮定したとき、恋愛以外の関係性で、その承認欲求を満たす方法は見つかるでしょうし、それを実際に可能にするような社会的制度を構築していくことも重要です。それはそうなのですが、私がここで考えたいと思っているのは、価値化され理想として掲げられているところの「恋愛」とは一体何なんだろうかということであり、そのような「恋愛」という価値化が起こる現代社会とは一体何なんだろうということです。

永田,高橋(2021)「討議 これからの恋愛の社会学のために 」『現代思想』49(10) (Kindle の位置No.482-485). Kindle 版. 

そのとき、「恋愛(ロマンティック・ラブ)」が抑圧的だということが分かったので「恋愛」をなくしましょうというのは、解決策ではないと思うんですよね。恋愛という社会的関係は、他の社会的関係と定義上どう区別でき、そこで成立している社会現象をどう理論的に整理していけばいいのかを実証データにあたりながら丁寧に論じていくことで、「恋愛」を再構成していくという作業が必要です。

永田,高橋(2021)「討議 これからの恋愛の社会学のために 」『現代思想』49(10) (Kindle の位置No.632-636). Kindle 版. 

そんなわけで、僕が思う「現代思想・現在の恋愛的態度」をまとめると、次のような感じになります。

「今までは、恋愛に特権的地位が与えられ、『恋愛でしか解決できない』ような問題が想定されてきた。しかし、それは本質的にそうとは限らないし、実際は友人関係など他の手法でも解決可能であり得る。だから、代替手段を見つけつつ、恋愛の特権性や、ロマンティック・ラブ・イデオロギーを打破することが大事なんだよ。とはいえ、「恋愛」そのものの特異性が完全に失われるわけではないけどね」

こんな感じです。たぶん、こんな感じになります。

 

我々は恋愛に何を託すか?

長くなったけど、今日書きたかったのはたった2つのことです。それすなわち、

すみません3つありました。

僕は正直、こうやって現代思想の本とか読みつつも、カーペンターズ的世界観というか、恋愛に一発逆転の夢を託すストーリーに惹かれるところは強いです。恋愛さえ成就すれば、多くの問題が解決されるだろう的な。私も、ドクター・ゲロによって創られた交際経験零号の一人なので。

個人的には、我々の生涯の中で、何か大切な人に出逢い、その人からパートナーとして認められる(愛される)という経験が、人生においてどれほどの重要性を持つのか、よくわかっておりません(経験がないから)。ただ、自分の経験したことがないことに、周りが喜びや幸せを見出していたりすると、正直過大な期待を抱いたり大きな夢も託したくなります。結婚式とか行くと、「幸せ〜〜〜」な空気で満たされていたりするし。やっぱり、愛されることって人生の大きな喜びなんじゃないでしょうか。

だけれど、やっぱそれは幻想に過ぎないのかな? それが「恋愛の現在」? よくわかんないですね。「恋愛にロマンを感じるのは、メディアや社会構造によってそう思わされてるだけ」と言われても、「そうなんかなあ〜〜」という感じです。実際どうなの??

結局は、我々は恋愛に何を託すか、という話だと思います。自己肯定観の獲得・心の安寧・経済的安定・社会からの承認・親密な関係・人生の闇からの脱却等、いろいろあるとは思いますが、僕は正直、これを書いてたらよくわかんなくなってしまいました。我々はどういうモチベで恋愛に臨むのか、また臨むべきなのか...... 分かる人がいたら教えてください。

 

 

 

 

*1:「愛は夢の中に」もそうだけど、この邦題はなかなかに謎