浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

ブログで行う研究報告①:ハート・デヴリン論争のご紹介

あちぃ。

 

こんばんは。完全に夏っぽくなってきましたね。ちょい久しぶりの更新ですが、僕は変わらず元気でやっています。

 

突然ですがわたくし、実を言うと大学院の修士二回生です。研究とお就活、どっちもそれなりに頑張っています。

で、少し前、就活のお面接に行った際に、こんなことを聞かれました。

 

「あなたのやってる研究というのは、私たち一般人にとって、どのようなメリットがあるものですか?」

 

少し迷ったけれど、正直に、「あなたがいま国家(政府)から不当な拘束を受けずに済んでいるのは、実は僕のおかげなんですよ」と答えておきました。冗談半分、本気半分です。面接官はほえーという顔をしてました。

まあ今日はそんなわけで、自分の研究報告でもしてみたいと思います。僕は修士2年目のくせに、どこの研究会にも所属していないし、学会などにも一切出たことがありません。指導教員との関係も非常に希薄で、【放置するほど強くなる】系のゲームなら最強格になっていそうなほど放置されてます。院生は放置少女じゃないんだよと伝えてあげたいくらいです。

一応研究はしているけれど、あまりに報告の場がないので、まあここでやってみようという感じ。ちょっとオカタイ内容になるかもしれないけど、暇な人はぜひ読んでいってください。ちなみに1万字あります。

 

何やってるの?

我の専門は「法哲学」。とりわけ”法と道徳”というテーマで研究しております。

法哲学という分野、基本的には、法とはそもそもなんなのか、法を守るべき義務はどこから生まれるのか(そもそもそういう義務はあるのか)、”正義”に適う法や制度とはどういったものか、などを考えています。一言で言えば、「法のそもそもを考える」という感じでしょうか。

ただ、「哲学」と名のつく分野にありがちだけれど、ぶっちゃけ何やってもよいみたいな風潮はあります。なんかコムズカシィこと考えてたら、とりあえず法哲学名乗っとけ的な。だから僕としては、ゴミ箱的要素の強い学問だと感じてます(困ったら何でもぶち込める)。あと一応言っておくと、かの有名なヘーゲルが「法哲学(法の哲学)」という本を書いてますが、あれはあんまり関係ないです。

で、そんな中でも僕がやっているのは、「法と道徳」についての議論。より正確に言えば、「法による道徳の強制」すなわちリーガル・モラリズムの話です。法と道徳といっても、フラーの内在道徳だったり、カントの法と道徳の区別とかをやっているわけではなし。何やってもイイとされている法哲学の中では、割と古典的テーマを扱っています。

特に焦点を当てているのがハート・デヴリン論争(Hart-Devlin debate)。今では終わった論争とされがちだけど、これの現代的諸問題への射程を探ったりしているわけです。特にコミュニタリアニズムとの関連で。

今日はこの「ハート・デヴリン論争」について紹介したりなど。そこから僕の考えていることでも報告していきたかったけど、字数多すぎたので、とりあえず概略紹介に留めます。

 

 

ハート・デヴリン論争とは

法哲学において、法と道徳、とりわけ「法による道徳の強制」を考える際、ほぼ確実に出てくるのがハート・デヴリン論争である。僕は大学院で、主にこれを探求しております。

これはその名の通り、ハートという人とデヴリンという人が争った論争のこと。ハートというのは、♡のことではなくて、イギリスの法哲学H.L.A.Hartのこと。このお方は法哲学界では超絶有名、というかあまりに偉大すぎる人物で、彼のおかげで今の法哲学があるようなもの(たぶん)。正直なところ、法哲学という分野をやってれば2日に1回あるいはそれ以上の頻度で、ハート教授の名前を目にすると思う。

 

↑ニコラ・イレシー『法哲学者H.L.A.ハートの生涯: 悪夢,そして高貴な夢』。最近は評伝も出た。副題がカッコイイ。

 

一方、もう一人の論者はPatrick Devlin。こちらはハート教授と違い、当時は現職の裁判官である。しばしばLord Devlinと記述され、日本語ではデヴリン卿と書かれる。学者じゃないので、法哲学界ではそれほど有名ではないが、史上2番目の若さで高等裁判所(法院)の裁判官に選ばれるなど、相当優秀な人物であったらしい。

 

↑デヴリン卿も昨年、評伝が出た。こちらは未邦訳。

この二人が互いに批判と応酬を繰り返したのが、ハート・デヴリン論争。そしてそれは、1960年代の出来事である。今からもう60年近く前のことで、それをいまだに掘り下げるのが、僕のやっていることになる。まあローマ法研究とかに比べれば、60年前とかかなり最近とも言えるけど、それでもちょっと今更感はある。

 

何を争ったか?

で、二人は一体、何をめぐって論争したのか。少しセンシティブな話になるけど、この論争は、同性愛行為の非犯罪化についての議論を発端としている。

イギリスでは当時(1950年頃)、男性同士の同性愛行為は、犯罪として処罰の対象となっていた。今でこそ同性婚も認められているイギリスであるが、60年前はまだまだ同性愛に不寛容な社会だったのである。発覚すれば刑事罰が科されたし、とりわけ同性愛者であることを材料に、強請りや脅迫が横行していた。

とはいえ、そんな中でも「同性愛行為を犯罪とするの、さすがにおかしいんじゃないの」という議論が出てくる。この問題を正面から扱ったのが、俗に言うウォルフェンデン報告書である。ハート・デヴリン論争を扱う際、このウォルフェンデン報告書は100%出てくる。なぜなら、この報告書を契機に二人の論争が始まったからである。

で、ウォルフェンデン報告書とは何なのか。先に言ったとおり、当時のイギリス社会では、同性愛行為を犯罪として処罰するのはどうなのかという疑問が出始めていた。これを受け、1954年に結成されたのが、J.ウォルフェンデンを座長とした「ウォルフェンデン委員会」である。正式名称は「同性愛犯罪と売春についての委員会」。その目的は、同性愛(と売春)を犯罪とする現行の刑法を見直すことにあった。

そしてこの委員会は、刑法の在り方を再検討した上で、1957年に次のような勧告を出す。すなわち、互いに同意ある男性間の、プライベートな場での同性愛行為については、もはや犯罪とすべきではない、というもの。いわゆる、同性愛行為の非犯罪化の勧告になる。

現代に生きる我々からすれば、もはや「当たり前だろ」と言いたくなる内容だが、当時としてはかなり画期的であった。なぜなら、60年代のイギリスには、まだまだ同性愛者への不寛容な感情が蔓延しており、同性愛は不道徳だとみなされていたからである。勧告には多くの賛成意見が出たが、厳しく反発する声も、同じかそれ以上に出されていた。

 

ウォルフェンデン報告書の論理

この報告書の言ったことについて、もう少し詳しく見てみる。見させてください。

報告書は結論として、「プライベートな場で行われる同性愛行為については、もはや刑事罰の対象とするべきではない」とした。どのような筋道を経て、このような結論に至ったのか。

まず報告書は、「同性愛は犯罪とされるべきか」という問題より先に、「刑法の目的とは何か」を検討した。我々が刑事罰を用いて取り締まるべきは、どのような行為なのか。刑法というのは、そもそも何のためにあるものなのか。これは非常に法哲学的な問いだと言える。

報告書はこの点について、3つのことを示す。すなわち、刑法の目的とは、

  • 公の秩序と良俗の保全
  • 不快なものや有害なものからの市民の保護
  • 搾取等に晒されやすい者への予防措置

にあるという。言うなれば刑法の目的とは、個人を他者による危害から守ることにあるというわけである。ちなみにめんどくさいので、引用元のページ載せるの省いたりしてますが、許してください(参照文献は最後に載せます)。

で、刑法の目的が上記の3つにあるとして、同性愛行為を取り締まることは、その目的に適っているだろうか。例えば、人目につかないところで同性同士が性行為を行うことで、公の秩序が傷ついたり、市民が危害に晒されたりするだろうか。

報告書はこれについて、NOと答える。人前で公然と行われていれば別だが、ひっそりと行われている限り、同性愛行為は公の秩序も誰の利益も害しない。そして報告書は、そのような行為は刑法の取り締まりの対象とするべきではないと結論づける。次の一節は有名なので、ここでも引用しておこう。

社会が法の力を通じて、法的な罪の範囲と道徳上の罪のそれとを一致させようと、故意に試みることのない限り、端的かつ大まかに言って、法の与り知るところではない個人的道徳・不道徳の領域が、存在し続けなければならない(報告書 ¶61,訳は伊藤(2007,207)を使用、強調は引用者)

かなり大雑把に言えば、法によって私的な不道徳まで立ち入るなである。報告書によれば、道徳には、私的な領域と公的な領域のそれがある。公衆の面前で不道徳なことをするのは、公の秩序を乱すことになるが(例えば裸で踊ったりなど)、プライベートな領域でそれをする分には、もはや「法の与り知るところ」ではない。ゆえに、私的な場所での同性愛行為は、もはや犯罪とされるべきではないのである。

…ちなみに、これは非常に重要と思うので書いておくが、報告書は別に、同性愛行為は道徳的に許容されると言っていたわけではない。むしろその逆で、「それは不道徳だけれど、刑法の対象とするべきではない」としている。報告書の内容は、非常に先進的であったが、同性愛者に刑罰の代わりに治療プログラムを受けさせようとするなど、現代から見れば問題も多いものであった。「不道徳」と「法」の関係を考える上で、この事実は結構大事な気がする。

 

デヴリン卿の登場

Patrick Arthur Devlin, Baron Devlin.jpg  @wikipedia

報告書の内容は上記のように、大雑把に言えば、法と道徳を分けるというものであった。たとえ不道徳な行いであっても、法が立ち入るべきではない領域が存在するというわけである。

1959年、デヴリン卿は「道徳の強制 The Enforcement of Morals」という一連の講義を行った。これは上述のウォルフェンデン報告書を批判的に検討したものとなる。

話によればデヴリン卿は当初、報告書の論理に賛成していた。ただ、自分で色々と考えるうちに、段々と反対意見をもつようになったそうである。とはいえ、結論部分には一貫して賛成しており、彼も「私的な場所で行われる同性愛行為は、もはや犯罪とされるべきではない」としている。

ではデヴリン卿は、報告書のどの部分に反発したのか。彼が特に反対を示したのが、「刑法は個人の自由を守るためのものである」という報告書の論理である。彼からすれば、刑法は個人の自由以上に、社会の秩序を守るためのものである。むしろ、それを守ることこそが刑法の目的であると言える。

そのことが「法と道徳」の議論にどう関係するか。デブリン卿は同時に、「社会」というものを、共通の道徳を有した集団と捉えている。彼曰く、いかなる社会も、政治・倫理・道徳についての共通の観念なしにはやっていけない。そのようなものが存在しないところでは、もはや社会は共同体の形を保てないというわけである。

デヴリン卿は、こうした「社会で共有されている道徳」のことを、公共道徳 public moralityとか、共有道徳 shared morality と呼んでいる。そして彼曰く、この公共道徳や共有道徳というものが、社会の構成員を結びつける接合剤の役割を果たしている。要するに、我々が一つの社会で団結できているのは、こうした共通の道徳が存在しているから、ということになる。ちなみに彼は、共通道徳の例として一夫一妻制などを挙げている。

もし彼の言っていることが真実で、仮に社会の存在が共通の道徳から成り立っているとすれば、どのようなことが言えるだろうか? 次のようなことが言えるかもしれない。すなわち、共通の道徳が綻ぶことは、社会の存立を揺るがす重大な危機となるのだと。不道徳が蔓延し、メンバー間の絆が薄れてしまったら、その社会はやがて崩壊に至ってしまう。そのようなことが言えそうである。

実際まあ、今のアメリカ社会の分断とかを見て、「国民相互を結びつける共通の道徳が失われた結果だ」とか言うことは、可能かもしれない。特に、共通善を主張するコミュニタリアンなどは、そういうことを言いそうな気がする。その辺りの話は今は脱線になるので、また今度ということで。

そんなわけで、デヴリン卿は次のように言う。社会を崩壊から防ぐために共通の道徳を強制することもまた、法の役割であるのだと。法は個人を危害から守るだけでなく、道徳を強制することにより、その社会秩序の防衛も行っている。それはまるで、謀反やテロなどの国家転覆行為を取り締まることに似ている。国家体制を揺るがす行為を取り締まるのと同様に、社会は自らの存在を守るために、不道徳を法で取り締まる権利を持つのである。デヴリン卿はそのように言っている。あんまうまく説明できてる自信はないですが、気にせず続けます。

加えて彼が言うには、道徳に「私的」「公的」の区別はできない。ウォルフェンデン報告書は、私的な道徳と公的な道徳を分けた上で、後者のみを法のかかわる領域とした。が、卿からすれば、それはおかしなことである。なぜなら、道徳とは常に公的なものであって、「私的な不道徳」などは観念できないからである。

このことは再び、国家転覆行為と比べるとわかりやすい。例えば誰かが、ひっそりと政府の討伐を企んだとして、それを「私的な国家転覆行為」と称せるだろうか? 否否否。国家転覆行為とは、常に公の秩序への脅かしを指すものである。私的な国家転覆など、そもそも観念することができない。デヴリン卿曰く、道徳もそれと同じである。不道徳の「私的な実践」というものはあったとしても、「私的な不道徳」なるものは存在しない。そうである以上、私的な場所で行われているとしても、それは公の道徳への違反なのである。

デヴリン卿はまだまだいろんなことを言っているが、ここでの内容をまとめると次のようになる。

  • 刑法の役割は、社会秩序の防衛にある。かつ、社会というのは、構成員が特定の観念を共有することによって成立するものである。
  • そのような共通の道徳が綻びることは、構成員の絆の弱まりや、社会の崩壊の前兆になる。よって、社会を崩壊から守るために、道徳を法によって強制することは正当化される。法は道徳の守護者でもある。
  • 道徳に「私的」「公的」の区別はできない。プライベートな場で行われる不道徳な行為も、公共道徳への挑戦となる。

そんなわけで彼は、「法による道徳の強制」を積極的に肯定する。なぜならそうしなければ社会が滅ぶからである。

 

ハート教授による批判

f:id:betweeeen:20210609221659p:plain @wikipedia (By Robespierre 7 - Own work, CC BY-SA 4.0,)

上記のデヴリン卿の見解は、至る所で賞賛と喝采を浴びた.....ということはなく、実際は多くの批判が寄せられた。その代表的な批判者が、法哲学者H.L.A.ハートである。

ハートは1963年に、『法、自由、道徳 Law, Liberty and Morality』を出版。ここでデヴリン卿の考えに、正面から批判を行った。

ちなみにこの本の冒頭には、次のような記述がある。

イングランドではここ数年、刑法は不道徳「それ自体」の処罰に用いられるべきかという問題が、新たな実践的重要性を帯びてきている。思うに、ここに来てリーガル・モラリズムと呼びうるところのものが再来してきているためである」(Hart 1968, p6)

実はこれが、リーガル・モラリズムという言葉の初登場らしい。こうした「法による道徳の強制(不道徳の犯罪化)」が、リーガル・モラリズムの唱える立場になる。デヴリン卿はその代表格というわけである。

ハートによるデヴリン卿批判は、シンプルなものもあれば、結構複雑なものもある。いろんな角度から批判しているのだが、ここでは比較的シンプルなものを3つ取り上げたい。

 

批判① 社会が滅びる証拠を出せよ

批判その1は、非常にシンプルなもの。上述のように、デヴリン卿は「社会は共通の道徳から成っており、それが綻ぶことは社会の崩壊を招く」と唱えている。それに対してハートはこう言う。「なんかデータとかあるんですか?」と。ひろゆきかお前は。

実際デヴリン卿は、共通の道徳が失われて社会が崩壊に至るのは、「歴史の示すところ」と言ってしまっている。そうした言明はハートからすれば、「それ、あなたの感想ですよね」「なんだろう、ウソつくのやめてもらっていいですか」という感じだっただろう。彼の第一の批判は、経験的(調査によって確かめられる)証拠を出せというものである。

 

批判② ”社会”の”崩壊”とは何なのか?

批判その2は、もう少し論理として複雑になる。彼曰く、デヴリン卿は「社会」という言葉について、定義上の混乱を起こしているという。

そもそも「社会」とはなんだろうか。ハートはここで、これには少なくとも2つの用法があると指摘する。一つは、「イギリス社会は、かつて封建制であった」といったもの。ここではおそらく、「イギリス人が住んでいる」ということが、その社会の定義になっている。

もう一つ用法として、「イギリスはかつて、封建社会であった」というのがある。これはなかなかややこしいが、上の文との違いは何だろうか。それはすなわち、下の文では封建制という「制度や風習」が社会の定義になっていることである。

そしてこの違いは、「崩壊」という言葉を後ろにつけてみるとわかりやすい。例えば、「イギリス社会の崩壊」と言うときに、それが意味するところは何だろうか。おそらくそれは、イギリス人が一人もいなくなるとか、街が徹底的に破壊されるとか、あるいは万人の万人に対する闘争状態が始まることとかになるだろう。ともかく、何かがめちゃくちゃになることだとはわかる。

他方、「封建社会の崩壊」という言葉が意味するところは何か。それはおそらく、封建制がなくなることである。つまり、単に制度や風習が変化したということしか意味していない。「封建社会の終わり」とは、封建制の終わりのことである。

ここで再び、デヴリン卿の見解に戻ってみよう。デヴリン卿は、「共通の道徳が綻ぶと、その社会は崩壊に至る」としていた。もしデヴリン卿が、前者の意味で”社会”を使っている、すなわち、「共通の道徳が綻ぶと、構成員の離散や、万人の闘争状態に至る」としていたら、どうだろうか。これは間違いなく、上記①の批判を受ける。すなわち、そういうデータとかあるんですか? と言われてしまうのである。

では、後者の意味で社会を使っていた場合、すなわち社会というものを、封建制など、特定の制度や風習によって特徴付けていた場合はどうだろうか。

封建制はわかりにくいので、例としてキリスト教を国教にしている社会があるとしてみる。この社会での共通の道徳とは、キリスト教道徳である。この社会は、国教がキリスト教であることで定義づけられており、それがなくなれば、これはもはやキリスト教社会とは言えない。

こういうところで、「共通道徳が失われると、社会が崩壊する」との言明は何を意味するだろうか。よく考えるとそれは、「キリスト教道徳が失われる=共通道徳が失われると、キリスト教道徳の社会ではなくなる(社会が崩壊する)」という、何の意味もない同語反復になりそうである。ハートが言いたかったのはそういうことで、結局は社会の崩壊とか言いながら、自分たち多数派の価値観を守りたかっただけじゃねえの? という批判を向けている。

 

批判③ 実定道徳と批判道徳の区別

もうお腹いっぱいかもしれないが、もうひとつだけ批判を紹介。それが、実定道徳と批判道徳の区別というものである。

デヴリン卿は、「社会に共通の道徳が存在する」こと、そしてそれが「構成員の絆として働いている」という事実から、「その道徳は守るに値する」との価値言明をしているように見える。だがこれは、事実と規範をごっちゃにした、論理的な誤謬を侵していないだろうか。

これをとてもわかりやすくした解説がある。Petersen(2011)の言うところの、ナチス的困難 Nazi challengeである。

ナチスの社会を思い浮かべてみよう。そこは全体主義が奉じられていて、「ドイツ国民こそ至高の存在だ」という民族意識が蔓延している。そのような民族意識は、ナチスの社会秩序の維持に必要だっただろう。もしそうした民族主義的気運が薄まれば、ナチスの社会は「崩壊」してしまうというわけである。

デヴリン卿は、「社会を崩壊から守るために、道徳を強制する必要がある」と言う。だが、ナチスの体制を維持するために、こうした民族意識を強制することが、果たして正しいことだろうか。デヴリン卿なら、イエスと答えかねない。だが我々の多くは、「そんな社会は、いっそのこと滅んでしまった方がいいのでは?」と考えるはずである。別にすべての社会や道徳が、崩壊から守られる価値あるものというわけではない。

ハートの批判も、だいたいこれと同じ路線を辿っている。ハート曰く、道徳にはⅱ種類ある。「今現にある道徳」と「あるべき道徳」の2つである。前者は「実定道徳」と呼ばれ、後者がそれを批判するための、「批判道徳」と呼ばれる。仮に、構成員を結びつけている道徳があるからといって、その道徳が必ずしも正しいものとは限らない。全体主義的な、間違った道徳も存在するわけである。それを批判的に検証するための、二階の道徳が必要だというのが、ハートのさらなる指摘となる。

 

デヴリン卿は敗北したか?

ここまで、書く方も読む方も、すっかり疲れてしまったのではないかと思う。締めに入ります。

そんなわけで、ボコスカと叩かれたデヴリン卿。彼の主張、すなわち「社会は自らを崩壊から守るために、法によって道徳を強制する権利を持つ」というのは、崩壊テーゼとの名前がついている。この崩壊テーゼは、どうにも論理的欠陥が多そうである。特に、「社会の崩壊とか言っといて、結局は多数派の道徳を強制したいだけでは?」というハートの批判は、非常にクリティカルだ。

そうなると、デヴリン卿は敗北したのか。ハート・デヴリン論争は、ハートの圧勝で終わり、時代の敗北者である卿には何も見るべきところがないのか。そうではない、と個人的には考える。実はデヴリン卿の見解には、一面の真実が含まれるのではなかろうか。それが僕の研究テーマになる。何かこう、現代的問題に通じるような、検討に値することも言っているのではないか、というの今更ハートたちと一緒になって、デヴリン卿ボコっても面白くないしね。

 

 

.....というところで、<デヴリン卿が有する魅力>というのも紹介したかったのだけれど、結構長くなってしまったので、今回はこの辺で。ひとまずハート・デヴリン論争と、その発端となったウォルフェンデン報告書の紹介でした。あんまり「オモシロポイント」を伝えられなかった気がする。ここで切るのは気持ち悪いかもしれんけど、疲れたのでしょうがない。

ちなみに両者の論争はこれで終わりではなく、まだ続きがあります。そして今では、デヴリン卿の見解を修正した「新しい」リーガル・モラリストが登場したり、この論争を別角度から検討する議論が出てきたり、まだまだ興味関心は尽きません。どんどんやっていきたい。

......このハート・デヴリン論争(そしてリーガル・モラリズム)、非常に面白い議論だと思うのだが、実は日本の法哲学ではすっかり廃れた感がある。これを扱った邦文献も、論争が起きた60~70年代に集中していて、今ではほとんど書かれていない。それもそのはずで、もう終わった議論だもんなあ.......

 

ちなみに昨年出た住吉雅美『あぶない法哲学』では、このハート・デヴリン論争の話が一瞬だけ出てくる(pp124-6)。が、デヴリン卿は一蹴されて終わる。そもそもこの本が、教科書的な説明を意識していなくて、論争もあまり中立的には紹介されていない。著者のノリと勢いで書かれている感が強いっす。

 

法哲学の入門書としては、こちらの『問いかける法哲学』がおすすめです。通称「問い法」。これは読みやすいしおもしれえです。

 

まあそんな感じで、日本ではほとんど見向きされなくなった思想を、今でも追いかけてるよという話でした。ただ、英語論文はまだまだ出てきているので、最近はそっちを追っています。

そしてそういうのを日本で紹介する人間が、もう本当にわずかしかいないんじゃないかと思ってもいます。面白い議論だと、個人的には思うんすけどね。今回は概略しか書けなかったので、今後もっと、「実はこういう現代的問題に繋がっている」という面白さを書きたいと思います。

 

先週ぐらいに出た、阪井裕一郎『事実婚夫婦別姓社会学』。こういうの考えるときとか、

 

昨年出た、児玉聡編『タバコ吸ってもいいですか』。この辺の問題扱うときに、使えるんじゃないかなあ。

 

 

今日はそんな感じです。

ここまで読んだ人おる? 最後に今回の参考文献書いときます。小文字で。

↑「ウォルフェンデン報告書」について調べる中で、非常に参考になった邦文献。ちなみにWolfenden Reportの原文は、非常に手に入れるのが困難である。ネットの公開図書館的なのを使えば、一応読める。

  • 矢崎光圀(1962)「社会における道徳の役割と法の機能 ——「ウルフェンドン報告」を契機として——」『法律時報』34(12),pp 82-93
  • 清水征樹(1969)「道徳の法的強制に関するH・L・A・ハートの見解」『同志社法学』21(3), pp91-109     
  • 児玉聡(2010)『功利と直観 英米倫理思想史入門』勁草書房、第8章
  • リー・サイモン著、加茂直樹訳(1993)『法と道徳 その現代的展開』世界思想社

↑ハート・デヴリン論争を扱った邦(訳)文献。他にも色々あるけど、このあたりは特に読みやすい。あと、児玉論文は、こちらのリンクから読むこともできる。今回僕が書いた内容は、ほとんどこの児玉論文と重複していて、下位互換みたいになってしまた。深く反省している。

  • Devlin Patrick(1963)The Enforcement of Morals, Oxford University Press
  • Hart H.L.A(1968)Law, Liberty and Morality , Oxford University Press

  • Hart H.L.A(1967)Social Solidarity and the Enforcement of Morality, The University of Chicago Law Review, 35, pp1-13

↑ハートとデヴリンの著作についてはこちら。どちらも邦文献がないのが悲しいところ。ちょっとずつ訳しながら読んでおります。

  • Petersen JS(2010)New Legal Moralism: Some Strengths and Challenges, Criminal Law and Philosophy, 4(2), pp215-232

  • Petersen JS(2011)What is Legal Moralism?, SATS, 12, pp80-88

↑比較的最近書かれた、リーガル・モラリズムについての英語での文献。このPetersenという人は、非常に平易な英語で書いてくれているのでありがたい。読みやすし。

  • 高島麻未(2019)「ハート・デヴリン論争のもうひとつの見方」『法学研究論集』51, pp137-149

↑最近の邦文献だとこれぐらいだろうか。Peter Caneという人と、James Allanの論文を紹介している。Allanの論文は僕も昨日から読み始めたが、ウィットに富んでいて面白い。