浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

法と道徳の話をして何が楽しいのか?? <シリーズ 法哲学覚え書き③>

ども!! やけに涼しげになってきている今日、皆様いかがお過ごしでしょうか。真夏のピークが去った感じがありますね。天気予報士がテレビでそう言っていた気がします。

えー、、、8月ももう終わるよという感じになっていますが、8月は丸々更新をサボったこと、大変申し訳なく思っております、、、理由は端的に書くことがないからですね。日々を奔放に過ごしている分、ブログで吐き出したいような鬱積した気持ちというのもなく、更新も止まってしまってました。まあ、平和が一番だからね!!

そうは言いつつ、あまりに更新が少なすぎるのもあれなので、今日は自分の専門の話でもしていきます。法と道徳の話になります。

 

法と道徳の話、興味あります?

僕は大学院で法哲学という分野を専攻して、主に法と道徳の関係というのをテーマにしていました。今日はそれを軽〜く紹介できればという感じです。

ただ、皆さんね、ここで急に「法と道徳」について語るとして、1ミリでも興味ありますか? 僕はないと思います。「法」と「道徳」はどう違うのかとか、両者は必然的に結びつくのかそうでないのかとか、あるいは法による道徳の強制は正当化されるのかどうかとか、そういうのが「気になる!! 早く聞かせてよ!!」という人は、いたらよっぽどな賓(まれびと)か、もしくはいつの間にか僕と人格を共有していたかのどちらかです。

で、いきなり法と道徳の違いとかに入る前に、それよりももっと初歩的な話として、「そんなことを語って、何が面白いの?」とか「どう役に立つの??」というのが、一般的な関心なのではないかと思います。これは僕がお就活をしているときによくあったことです。おしゅーかつをしていると、面接官の方から「大学院でどんなことをしているんですか?」などと聞かれます。そこで僕が「法と道徳の関係について、あれこれやっています」と言うと、大抵、「なぜそれに興味を持ったんですか?」とか、「それがどう社会の役に立つと考えますか?」などと返ってくるわけです。

そのたびに僕は「知らねーよ」とか「人に聞く前に、まずは自分で考えてみよっか♪」などと思ったものですが(興味を持ったきっかけとかもはや覚えていないので.....)、彼らの言うことにも一理あると思います。というのも、コマゴマとした中身の話を聞く前に、それをやるとどう面白いことがあるのかとか、あるいはどのように社会生活上役に立つのかというのも、前提として知りたいことかもしれません。

というわけで今日は僕も、「法と道徳の関係について語る面白さ」について、話せればと思っています。法と道徳がどう違うのかとか、みみっちい話をしているけれど、それがこういう話に繋がって面白いんだよ!! というのを、頑張って伝えられれば...... 一応法哲学っぽい話ではあるので、また<シリーズ 法哲学覚え書き>という名目でやっていこうと思います(番外編みたいな位置付けだけど)。大丈夫だろうかこれ、ちゃんと面白くなるのだろうか。不安しかないぞ!!

 

法と道徳の話、何が面白いのか?

今回は「法と道徳の関係を語る面白さ」について語りたいのですが、次のような構成で行こうと思います。まず、①なぜ「法と道徳」というテーマが設定されるのかについて言及する。「法」と「道徳」というものはしばしば対比され、似ているところや異なるところが語られるわけだけれど、そもそもなぜそんなことを? という話。次に、②その2つに着目することで、どんなことがわかるのかについて。もっと言えば、何が面白いのかについて。これが今日のメインですね。ここが今日はメインのつもり。最後に、③実際に2つはどう異なるかという話や、法と道徳の関係はどのようにあると言われているか、法哲学上の見解を紹介ということをしたかったけど、力及ばずで諦めました。そういうのは、いずれ法哲学の教科書などを引きつつ紹介できればと思っています(できれば次回)。

 

↑最近は田中成明『法学入門』を買って読んでみているけれど、これはちょっと入門にしては難しすぎるかもしれない(その分詳しいけど)。

 

とりあえず法と道徳は似ている

で、順番にやっていくわけですが、まず①なぜ「法と道徳」というテーマが設定されるのかについて。これは端的に言えば、両者が似ているからですね。法と道徳は、それぞれ似ていて、しかし別のものです。どこがどう似ているかといえば、どちらも私たちの行為について、特定のことを禁止したり、あるいは逆に推奨したりしています。

例えば、嘘をついてはいけないという道徳があります。あとは約束を破ってはいけないとか、人を傷つけてはいけないとか、困っている人を助けなさいとか、つまんねえクソリプをとばすのはやめろいうのもあります。こういうのがある種の「道徳」であるというのはなんとなく分かると思います。私たちの「やってはいけないこと」や「やるべきこと」を定める約束事のようなものを、ひとまずここでは道徳としています(法と違って、明文化されていないというのが一つの違い)。

で、今度は「法」の方を見てみると、こっちでも「やってはいけないこと」というのがたくさん定められています。刑法は殺人・傷害・窃盗その他の危害行為を禁止している(行った場合は処罰を科すとしている)し、憲法は政府に対して「国民の諸々の権利を保障せよ」と定めているし、道徳と同じく、特定の行為の禁止・推奨について非常に強く関わっています。まあわかりやすいのはやっぱり刑法ですね。

それにプラスして、両者とも、これらに違反した場合に、何らかのサンクション(制裁)が想定されます。そこも似ているところ。刑法に違反すれば刑罰が科されるし、道徳に違反した場合には、人々から非難されたり住所が晒されたりYouTubeチャンネルが廃止に追い込まれたりします。もちろん、制裁が伴っていないような法律(努力義務だけを定めている法)もあるし、道徳への違反にも、常に非難が伴うわけではない(ただ良心の痛みだけがある場合など)けれど、ひとまず、道徳と法が似ているのは確認できると思います。

ただ、こういうところが似てはいても、実際は両者は全く別の概念です。法と道徳はそりゃ違うだろと。それぞれ似ていないところもいくつもあります。で、法哲学の教科書を読むと、「じゃあ具体的にどう違うのか?」というところに話が進むのだけれど、僕はちょっと立ち止まって、「その違いに目を向けることで、どんな面白い話が出てくるのか?」という方向に話を持っていきたいと思います。いきなり「こういうところが違う」という話だけしても、付いて来にくいのではないかと思うので。法と道徳、「違うものだ」っていうのは分かりきったことだけど、じゃあその細かい違いに着目することで、何が楽しいのかというのを、主観を存分に交えて語っていきます。個人的に、面白ポイントは3つあると思ってます。

 

おもしろ① 「やってはいけないこと」について考えられる

面白い(と僕が思っている)ポイントその1は、この違いについて考えることで、我々の「やってはいけないこと」について考えられるということです。

我々、日々生きていく中で、「やってはいけないこと」というのがたくさんあります。皆さんも日々意識しているはず。僕たちの社会、やってはいけないことで満ちていおります。

例えば、誰かが神妙な話をしていて、周りの人がそれを静かに聞いているときに、ここで突然「アーーーーッッッ!!!!」っと雄叫びを上げて、ひたすら椅子を振り回したりぶん投げたらどうなるのかなとか、誰しも考えはずです。誰しも考えるけれど、同時にそれが「やってはいけないことだ」というのもわかるはず(はずよね?)。でも、それはなぜやってはいけないことなのか?というのは、一つの疑問としてあり得るはずです。物理的にやろうと思えばできるわけで、そういうことを「やってはいけない」と言う時、それはどういう理由に基づいているのかという話です。こういうとき、先ほどの法と道徳の区別が、役立ってくると思います。

一つの説明は、それは人としてやっちゃダメなことなんだというものですね。というのも、奇声を発しながら椅子を振り回すのは、およそ理性ある人間(大人)のやることとは思えないから、やっちゃダメなんだと。つまり我々が「理性的人間であろうとする以上、すべきでない行為だということですね。これは前提として、「私たちは理性的に振る舞わなければならない」という道徳が先にあります。そして、その道徳の要請上、これはやってはいけないということになるはずです。

道徳の話で言えば、他にも、雄叫びを上げながらの椅子投げは、「他人を怯えさせる行為だから」やっちゃダメなんだ、という説明もあり得ます(こっちの方がもっともらしい)。これについても、「他人を不必要に怖がらせてはならない」という道徳が先にあって、その道徳の要請として、この種の行為はやってはいけないと言えるはずです。

ただ、これとはまた別の説明もあり得ます。それは法的にやっちゃダメなんだというものです。つまり、椅子をぶん投げるのは立派に器物破損だし、あとは人間に向かって投げれば普通に傷害罪とかにもなるように思います。法に抵触する行為はやってはいけないので、雄叫び椅子投げはしてはいけないんだという説明になります。この場合、「なぜ法に背いてはいけないのか」ということについて、「法は守らなければならないものだから」という説明と、「法を破ると自分に不利益があるから」という説明、両方考えられますが、ひとまずどちらも、「道徳上の要請としてやってはいけない」というものからは区別しておきます(法律がある、というのが一つの根拠となっている例として考える)。

で、大事なのは、これらの説明が、それぞれ異なるものだということだと思います。道徳の要請に訴えるのも、法の存在に訴えるのも、どちらも同じく「やってはいけないこと」についての説明ではあるけれど、でもそれぞれ別の根拠に基づいています。だから、例えばの話、法的には許容されていても、道徳的には悪い(やってはいけないことだ)というのは全然あり得るし、その反対に、道徳上はやってはいけないことになっているけど、法的にはやっても罰せられない、ということは往々にしてあります。道徳上禁止されていることと、法的に禁止されていることは、それぞれ別立てて存在しているというのが、ここで言いたかったことです。

上の方で、「我々の社会は、やってはいけないとされることで満ちている」と書きました。で、やってはいけないとされていること、本当にたくさんあると思います。一つ例を挙げるなら作品のネタバレなど。ネタバレ、やっていい派とそうでない派が日々取るに足らない真剣な議論を繰り広げているけれど、たまにこういう議論で、「法律で禁止されていない以上はやっていい」という意見を目にします。「ネタバレは別に犯罪じゃないから、そうである以上やっていいんだ」とかですね。ネタバレ以外の議論でも、こういうのは結構目にします(転売とかでもあると思います)。

で、僕はそういう見解を目にする度に、

 

 

 

 

 

 

 

お前、、、

 

 

 

という感情になっているんですが、その理由がこれですね。法的にやってはいけない(禁止されている)ことと、道徳的にやってはいけないことは、区別されるはずだという話です。「法律で禁止されていない以上、何をしても自由だ(道徳的に問題ない)」という見解は、法と道徳の区別をかなり曖昧にさせていると思います。どちらも本来は、行為の禁止・推奨に関わるはずなのに、ここでは「法」だけがその役割を負わされている、ということです。

ただ、法というのは決して万能ではないので、これは結構危うい考えだと思います。あと、こういう風に考えると、「法的には禁止されていないけど、やってはいけないこと」が存在しないので、だいぶ大変な社会になるとも思います。列に割り込んだり、ちょっとした嘘をついたり、ネタバレリプを送ったり、相手の容姿をイジったり、YouTubeで四六時中アンチコメを書き込むのも、法で禁止されていない以上は、非難のしようがないということになるんじゃないかと思います(後ろ2つは最近法規制が厳しくなったかもだけど)

ただ、我々はそうは考えないというか、「法で禁止されていないけど、やってはいいけないこともあるはず」と素朴に感じたりもするはずです。法的・道徳的にやってはいけないことをそれぞれ区別することで、そういう問題について考えることが可能になるんじゃないかと思います。

というわけで、一つ目の面白ポイントは、私たちの「やってはいけないこと」について考えられるということでした。もし法と道徳の区別に無頓着であるならば、私たちの「やってはいけないこと」とはつまり「法律で禁止されていること」なんだと、確かにそういうふうにも考えられます。ただ、実際には社会には「道徳の要請として」禁止されていることが数多く存在するわけで、もし私たちがそれらを分析したり、そうした問題に深く立ち入ろうと試みるならば、ひとまずの道具として「法と道徳の区別」が必要になってくるのではなかろうか。

余談だけれど、たまに電車や駅のホームで、「痴漢・盗撮は犯罪です!!」っていうポスター、ありますよね。あのポスターが言いたいのはつまり「痴漢をするな」「盗撮するな」ということだと思うんですけど、あれを見る度に「盗撮をしてはいけないのは、それが犯罪だからだろうか。仮に盗撮が刑法上の犯罪ではなくなれば、それはやってもいいことになるのだろうか」などと考えたりしています(したいわけじゃないよ)。そんなわけで、法と道徳の区別に着目すると、日々のあれこれの「やってはいけないこと」の根拠について、もうちょっと突っ込んで考えられるかもしれません。そこが面白い。

 

おもしろ② 「悪い法」について考えられる

2つ目の面白いポイント、それは「悪法」の問題について考えられるというのを挙げたいです。悪法というのは、その名の通り「悪い」法のこと。もっと言えば、道徳的に誤っている法のことになります。

法と道徳の話では、これまでスルーしてきたけれど、実際は色んな種類の「道徳」が関わってきます。例えば、動物愛護法は、「動物を虐待してはならない」という、一般的に受容された道徳を具現化したものかもしれません。この場合は、法の命じるところと、道徳の命じるところが一致するという形で両者が関わってきます。

ただ、それ以外にも、法を道徳的に評価するという話も可能です。例えば、「親は子をどれだけ殴っても罪に問われない」という法律上の規定があったとき、我々はこれについて「こんな法律は間違っておる」と考えることができるはずです。この法律自体、「子供のことは親に任せるべきだ」という、ある種の(旧弊な)道徳観の表れと見られるわけですが、その一方で、我々はそれに対し、「虐待を肯定するような法は、法律としては妥当していても、道徳的に誤っている」と主張することが可能なはず。法の命じる内容だけでなく、法の在り方それ自体にも、道徳との関わりは見られるということです。

で、ここで特に言いたのは、法律が間違えることもあるということです。どう間違えるのかといえば、「道徳的に」間違えるという話になります。法律だからといって、常に正しく神聖だというわけではなくて、時に最悪な法や、邪悪な法も存在します。邪悪な法の典型は、合理的な理由無く、特定の人々(主にマイノリティ)を劣位に置くような法律で、人種差別・性差別・障害者差別的な法が考えられますね。かつてのイギリスで、同性愛が犯罪と見なされ、刑事罰の対象となっていたことなどが、この例としてよく挙げられます。

繰り返しになるけれど、ここで強調したいのは、法律が常に(道徳的に)正しいとは限らないということですね。現にある法律が絶対的に正しいということはなく、誤った考えや、偏見や迷信に基づいた、道徳的に不正な法も少なからず存在していると。

そういうことを考えると、世の中の法律に対しても、これはいい法だ・悪い法だという判断が可能になります。それが面白ポイントの2つ目です。世の中にある法律を全て無条件に肯定するのでも、逆に「法律なんて全部クソだ」と尾崎豊っぽく反抗するのでもなく、何がいい法で何がそうでないかについて批判が可能になる。こうなると、色々考えられることが増えて、楽しくなると思います。

それもあって、さっきも触れたような、「法律で禁止されていない以上は何をしてもいい」系の主張に対しては、「おまえ、、、」ってなるわけですね。歴史を見れば、明らかに偏見や迷信に基づいていて、一貫性のない法律も存在していたわけで、それを「法律だから」という理由だけで盲信することは、やっぱり危険ではなかろうかと。もちろん、それは法律を「守る理由」にはなると思います。ただ、何がやっていいことで、何がやっちゃダメなことなのかなどを考える際に、法で定められているか否かを唯一の判断基準としてしまうと、色々アカン気がします。

そんなわけで、ここで言いたかったのは、法と道徳の関係性について考えていくと、法それ自体の道徳的評価、つまり「いい法」「悪い法」についても考えられるようになって楽しいよということです。もし現行の法に対して不満を持つ人、たとえば選択的夫婦別姓が法制化されていないのはおかしいと考える人がいれば、そういうときに「いい法・悪い法」の区別に基づいて、こうした問題を論じることができると思います。「法律なんだから守ろうね笑」と言ってくる輩がいれば、「いや守る守らないの話と正しい正しくないの話は全く別でできるからぁ!!!」と言い返せると思います。

あと、これは法律に限らず、サークルのルールや企業内での社則や、あとは学校の校則などにも応用できるのもよいところだと思います。現にあるルールだけを盲信するのではなく、ルールの正しさ・悪さについても考えられるはずだというわけですね。

 

おもしろ③ 「正義」について考えられる

最後は「正義」についてです。既にだいぶ長いので手短にいきたいところ。

先ほど、いい法・悪い法の話をしたけれど、そもそもの話、法というのはどうあるべきなんでしょうか。つまり、あるべき法こそ「いい法」で、あるべきでないような法が「悪い法」と言えるとしたら、じゃあそのあるべき・あるべきでないというのは、誰がどう判断すればいいのか? というのがここでの問題です。

これにも色々な答えがあるだろうけど、一つの回答として、正義にかなった法こそがよい法だ(正義に反するのが悪法だ)というのが考えられます。正義とはなんぞやというと、例えば「等しきものを等しく、違うものは違うように扱うこと」などと説明されるもの。仮に、Aさんが僕に暴力を振るったときは傷害罪に問われるのに、僕がAさんにネテロ会長流の百式観音をおみまいしても何の罪にも問われないとしたら、それは「等しきものを等しく」扱ってないことになり、正義に反します。年収1000万以上の人間は、どれだけ暴力を働いても犯罪とならない世界とかはわかりやすいかもですね。こうした世界は、本来なら等しいはずの人間を序列づけて、合理的な理由無く(単なる偏見や蔑視に基づいて)差別的に扱っている点で、正義に反していると言えるはずです。奴隷制とかはこの典型ですね。

で、ここで言いたいのは、この「正義」というのも、一種の道徳として考えられるということです。正義というのは、「等しきものを等しく、違うものは違うように扱うことだ」と説明しましたが、これはかなり簡単に言えば、「差別をすな!!」ということになると思います。「差別をするな」はまさしく道徳的な要請ですね。

そして、そう考えると、正義の話においても、法と道徳の関連性が見られるよということになります。これは法と道徳が密接に接近する領域ですね。これまでは、主に「法と道徳の違い」というところに焦点を当てていましたが、この話はもろに「法と道徳の関係性」についての話です。

そしてここからが本題で、こうした法と道徳の関係、つまり「正義」について考えていくと、非常に面白いことが一つあります。それすなわち、漫画・アニメ・小説・映画などで出てくる「法と正義」の話を、より一層楽しむことができるということです。最後に結構レベルの低い話になったのは申し訳ないです。

一例を挙げると、ジャンプ漫画『呪術回線』では、日車寛見という弁護士キャラが登場します(19巻あたり)。彼はとある裁判をきっかけに、日本の司法に絶望して、死滅回游にもやってくるわけですが、そのとき、彼が法や裁判に対して何を期待し、そして何に失望したのかというのは、結構面白い問題だと思っています。読んだ人なら分かると思うけど、読んでない人はわからなくてごめん。でも日車さんのエピソードは僕は結構好きです。

呪術に限らず、「正義とは何か」というのはしばしばフューチャーされるテーマであって、割といろんなところで見かけます(ONE PIECEとかは特にそう)。そういうのを読んだときに、この人は法にどのような道徳を読み取っているのだろうかとか、この人物は「あるべき法」をどのように考えているのだろうかなどに、思いを馳せるのは、結構楽しいです。こういうのも、法と道徳の関係性なり、あるべき法とは何なのか(正義にかなった法とは?)というところを探究することで、より深掘りできるものではないかと思っています。別に法哲学じゃなくてもそういうこと考えられるかもしれないけど、ひとまずはそういうことにさせてくだしあ。

 

 

 

そんなかんGです。

そんな感じなんです。

長々と書いたけど、今日言いたかったことは、だいたい次のことです。

  • 法と道徳の区別なり、両者の関係性なり、そういうことを探究している人間がいる。かつては僕もその一人であった。
    • でもそれの何が面白いの?? それがどう役に立つの?? というのは気になるところ。
    • 法と道徳が違うというのは、そりゃそうでしょ。その細かい違いに注目して何が楽しいの??
  • 何が楽しいかと言えば、おそらく次の3つが挙げられると思う。
    • ①我々が「やってはいけないこと」とその根拠について、色々考えられる。どういう意味で「やってはいけない」のかなど。
    • ②「悪い法」について考えられる。道徳的に悪い法も存在するのであって、そういうものに対して批判がしやすくなると思う。
    • ③「正義」について色々考えられる。法と正義というのは、よく作品でフューチャーされるテーマなので、そういうのをより一層楽しめたりするよ(最後だけショボいな)

で、この3つは別に、法と道徳の話をしなくてもできるくない? というツッコミも、当然あると思います。ぶっちゃけそれはそうかもしれない。ただ、やたら法と道徳を切り分けて完全に別のものとして考える人や、あるいはそもそも、道徳の問題を一切考えず、法の問題一本でやっていこうとする人もいるわけで(法によって禁止されてなければ何をしてもいいなど)、そう考える人よりかは、上記3点について色々考えられるのではないかと思っています。

僕が今回言いたかったのは、法と道徳は確かに違うのだけれど、でもそれがどう違っているのかや、逆にどう関わり合っているのかを探ることで、色んな問題が見えてくるはずだということでした。色んな問題というのは、今回挙げたので言えば、よい法・悪い法の話だったり、法と正義の関係の話だったりになります。あとは、道徳的にやってはいけないことと、法的にやってはいけないことの区別を導入することで、「やってはいけないこと」についてより深く考えられるというのも、言いたかったことの一つです。

逆に今回話せなかったところとして、「結局”道徳”って何?」というのがあります。これ全然できませんでした。法と道徳と言うけれど、そこでの”道徳”って色んな次元が考えられて、実際よくわかんないということは往々にしてあります。今回はそこをぼやかして書いたけれど、そのうち、「法と道徳の関係の話でも、実はそこに△△パターンの”道徳”がある」という話ができればと思っています。

 

今日は疲れたのでそんな感じ!!! ここまで読んでくれた皆さん、ありがとうございます。皆さんもお疲れ様でした。

最後に、もう8月の終わりなので、大学で撮ったちょっと夏っぽい画像でも貼っておきます。

 

 

 


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フジファブリックの『茜色の夕日』という曲で、「短い夏が 終わったのに今 子供の頃の 寂しさがない」というのがあるんですが、最近若干その気持ちが分かってきた気がします。でも、そう言われるとちょっと寂しくもある。