浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

法の本質、正義に見るかインセンティブに見るか:<シリーズ 法哲学覚え書き②>

基礎法学オタクに、

俺はなる!!

 

ども!! 酷暑が着々と命を削る今日、皆様いかがお過ごしでしょうか。もうね、暑いなんてもんじゃないね。いつから外はこんな危険な世界になってしまったのか。悲しいよ。

で、今日は<シリーズ 法哲学覚え書き>の第2弾です。今までこのシリーズ、ずっと放置してたので、この期に頑張って再開します。

 

<シリーズ 法哲学覚え書き>とは?

僕が大学で5,6年専攻していた「法哲学」という分野について、「こういう話をしてたりしてなかったりするよ」というのを覚え書き的に書くというもの。第1回は死者の権利を取り上げ、権利は誰に認められて、誰に認められないのかといった話をしたつもり。他にも法と道徳の関連などについて語る予定。どれも基礎的な話ばかり。あくまで「浅瀬でぱちゃぱちゃ」なのでご注意!!

 

betweeeeeen.hateblo.jp

 

今回は大きく捉えれば、法とはそもそも何なのかの回です。

最近、以前よりも基礎法学への関心が高まって、「法学入門」系の本をあれこれ読み漁っています。初学者向けに書かれたテキストだとか、高校生向けに法学を解説したものだとか。そういうものを読んで、「法とは何か」というのを、皆どうやって法の素人に説明しているのかというところを調べてます。

 

基礎法学を勉強しているよ!!

 

法学ってまあ基本、驚くほどつまらないんですよね。というのも、初等・中等教育では履修してない新規の概念がたくさん出てくるので(法源だとか解釈だとか意思表示だとかなんだとか)、まずはそこを抑えなければならないため。ちょっと最初が難しすぎる。ただ、類推解釈と拡張解釈の違いがどうのこうのとしているうちに、面白さに気づけずに法学から去って行くということも、ままあるように思います。かく言う僕もその一人なんだぜ!!

そんなわけで、「法とは何か」についての説明を、いかにシンプルかつ面白みをもって初学者に伝えるかというのが、最近の己の課題です。特に、今年度から所属が倫理学研究室に移ったことで、僕が専門にしてきた「法」って、一体なんなんや...... というのを以前より意識しております。

で、今日はこの辺の説明を、法の「機能」に着目して見ていきたいと思ってます。法って一体、どんな機能を備えたツール(道具)で、それは何のために使われるべきなんでしょうか。そもそも、法をツール(道具)と言い切ってしまってよいのか。ツール(道具)と言うと、何か目的のために好きなように使えるというニュアンスが出てしまいますが、果たして法ってそういうものなのか。もっと言えば、法が法であるための「矜恃」というか、法が他のツールとは区別されるような特定の独自性を持っているとしたら、それは何なのかという感じです。考えることが多い!!

そして本日は、法の機能を、次の2つから考えてみます。一つが、人々へのインセンティブの付与。もうひとつが、正義の実現の2つです。そしてどっちが面白いかなどを考えてみたいと思います。どうかるかな?

さあ、基礎法学の時間だ!!

 

法とは、人々のインセンティブを設定するための道具である

で、最近は色んな本を読んでるんですけど、今日はその中から2冊ほど取り上げたいと思ってます。あんまりたくさん取り上げても、なんか色々大変なので。

その1冊目がこちら、2020年出版、森田果『法学を学ぶのはなぜ?: 気づいたら法学部, にならないための法学入門』です。僕も気付いたら法学部勢の一人なので、買って読んでみました。

「法学ってどんなことを学ぶの? 法律とか,条文…とか。なんだかつまらなそう…」
わかります! でも少しだけ,この本を開いてみて──。「ことば」を通して社会を変えていく,そんなダイナミックな法学の世界,その魅力をお届けします。(有斐閣HPの紹介文より)

こちら、書名の通り、高校生向けに書かれたものとなっています。高校生というとガチガチの法学初学者なので、そういう人に向けて、「法っていうのは、こういう機能を果たすツールなんですよ!」というのを解説している。そしてその機能というのが、人々へのインセンティブの設定として語られています。

 

Q. インセンティブって何ですか??

 

A. インセンティブとは、ある人に対して、そうするように促したり、逆にそうしないように促したりする要因のこと。例えばママが「テストで100点を取る度に、マイクラをする権利を1分与えるよ」と言った場合、子どもには、勉強を頑張ることへのインセンティブが働くし(そうするよう促される)、あとそのお母さんの元から一刻も早く離れることへのインセンティブも働く。この本の言葉では、「人々の意思決定や行動を変化させるような要因」などと説明されている(p5)

 

この本の面白いところは、「法っていったい何なのよ?」という疑問に対して、インセンティブという観点から切り込んでいるところだと思います。例えば殺人罪(刑法199条)の規定について。刑法199条は(どうでもいいが、梅澤春人の漫画では人を撃ち殺すときに199ワンダブルナインと宣言するシーンがあって最高にイカしている)「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と定めているけれど、本書ではこういった法律を、殺人に対する「ネガティブなインセンティブの設定」として捉えています(p5)。つまり、法がこうした規定を設けることによって、人々が殺人を行わないように促されている(動機づけられている)というわけですね。懲役や死刑が科されうるということは、殺人を行わない十分な理由となるため。

インセンティブ設定の例は他にも色々あって、契約法などもその一つとして挙げられています(chapter 2)。我々、日常の様々な場面で契約を結びますが、もし屈強な人間に、屈強な肉体とナイフで脅されながらの契約も有効であるとしたら、だいぶ困ってしまうわけです。安全で構成な取引というのが難しくなる。で、そういうときに契約法がやってきて、「約束はちゃんと守ろう!」「脅しの上での契約は無効だよ!」「屈強な肉体は世界平和のために使おう!」とか言ってくれれば、誠実かつ安全な契約へのインセンティブがちゃんと高まってくれます(最後のは言ってくれないけど)。不誠実な契約へのネガティブなインセンティブも働いてくれるわけで、そんな感じで、法は日常のあらゆるところで、インセンティブの操作として働いているという話です。

とはいえ、これはあくまで法の「機能」の話。つまり、法がどんな役割を果たしているかについての話となります。では、そういった「機能」は、どのような「目的」のために使われるべきなのか。

本書ではこういった目的が、「人々の意思決定や行動を変化させ」「社会を変えて」いくことにあるとされています。ちょっと引用。

法ルールの基本的な機能は、インセンティブの設定を通じて、人々の意思決定・行動をコントロールし、社会を一定の方向へと導くことである(p26 強調引用者)

......法ルールがさまざまなインセンティヴを設定するための手段であるとすると、法ルールが何のために存在するかも分かる。インセンティヴは、人々の意思決定や行動を変化させるような要因であり、法ルールがさまざまなインセンティヴを設定することを通じて、法ルールは、人々の意思決定や行動を変化させようとしているのだ。つまり、法ルールは、人々の意思決定や行動を変えることを通じて、社会を変えていきたい場合に使われるツールなのである(p5 強調引用者)

この説明は大変わかりやすいし、「確かに、法ってそういうものだわ」と理解もしやすいと思います。我々は法によってさまざまに動機づけられているし、そのことによって意思決定の在り方や社会の在り方そのものも変化している。例えば飲酒運転の厳罰化は、確実に社会から飲酒運転という危険行為を減らしたと思うし、男女雇用機会均等法なども、「セクハラ」への社会の対応を大きく変えたと思います(もしかしたら諸説あるかもしれあませんが)。そんな感じで、法は「人々の意思決定や行動を変えることを通じて、社会を変えて」いっているというわけです。

本書では法に対して、このような「法道具主義と呼ばれる立場を取っています(p153)。法とは何か望ましい社会を実現したり、人々の意思決定や行動を変化させるための「道具」なのだと、そういう立場となります。これが森田本は取っている法道具主義の立場。

 

ただ、このように法を「インセンティブの設定」から見る立場は、説明としてシンプルでわかりやすい反面、よく分からんなというところも出てきます。それというのが、「法が実現すべき目的っていうのは、じゃあどうやって決めるの?」ということです。法が何か、人々の行動や社会の方向性を変えるための道具なのだとしたら、そうした「方向性」などはどうやって決めるのか、という話です。

「そりゃもちろん国会で、議員たちが話し合って.....」という話になるかもしれません。実際、法律は国会の審議を通して作られるわけで、これは何も間違ってないと思います。まあ実際彼らがどれだけ真摯に話し合ってるのかという問題はあるけれども。

で、そうすると、次なる問題として、立法者の作った法は、何であれ法なのかという問題が立ち現れてきます。この辺、少し話が込み入って参りますが、仮に法が特定の目的を実現するための「手段」であるとすれば、逆に言えば、法は何かを実現するための道具でしかないわけで、そうすると、「何が法であるか」という問題は、立法者の意図によって決められる、という話にもなると思います。あるものが「法」であるのは、それが立法者がそういう道具として用いているからで、あるものが「法」ではないのは、それは立法者がそういう道具として用いていないから、という説明にもなりそうです。

回りくどい言い方だけども、僕がここで指摘したいのは、本当にそれでいいのだろうか、ということです。もっと言えば、法特有の「矜恃」とかってないんかいなということです。立法者がどのように使ってるか次第で、法が定義されるとすれば、「何が法で、何が法でないか」というのは、だいぶ恣意的にもなりそうです。つまりは、そこに何らかの、一貫した筋や原理が見つけにくくなってしまうということ。法の精神や理念というものが、だいぶ伝わりにくくなっております。

 

正義や道徳との関連?

「矜恃」という書き方をしたけれど、ここから先でしたいのは、法というのは何よりも正義を志向するものであって、その正義の実現というポイントにこそ、法特有の性質があるんじゃないかという話です。つまり、法は立法者の意図ではなく、何より正義を実現するための道具なのだと、そういう話になるわけです。

上述の森田本には、こういう「正義」(あるいは道徳)の話は、一切出てきておりません。で、そこで2冊目の紹介となりますが、それが中山竜一『ヒューマニティーズ 法学』になります。

「パンのための学問」と揶揄されることもある法律学を,その出自から掘り起こすと同時に,他の人文=社会諸学との関連のなかで捉え直すことを通じ,単なる資格取得や実用のための手段にとどまらない「制度的想像力の学」として提示する.グローバル化やリスク社会における新たな法秩序,社会改革の可能性を考える.(岩波書店のHPより)

この本ね、2009年出版とちょっと古いけど、面白いですKindleでも買えるし、安価ですぐ読めるので、結構おすすめです。

で、この本面白いのが、上の森田本と同様に、法学部入学前の高校生に向けて書かれたものなんですよね。想定される読者層は森田本と一致しているわけです。だからこれもある意味、「気付いたら法学部にならないため」の法学入門書となってます。

もうひとつ面白いのが、本書では法をより「正義」との関連で積極的に捉えており、そして森田本が採っているような「法道具主義」を、割と真っ向からぶった斬っていることです。この本の方が先に書かれているため、森田本を意識しているということはないのだけれど、それでも本当に正面からぶつかり合っています。同じように「高校生(初学者)向け」に書かれているのに、その強調点は180°違っているのが面白いですね。

そんなわけで、今度はこの中山本を見ながら、「法の機能ってなんなんや.....」というのを見ていきます。

 

法とは何より、正義を志向するものである

著者の中山先生が法哲学の人間ということもあって、この本ではより、法と「正義」の関連が説かれます。法哲学者はやはりこの辺を重視するというか、大先生・井上達夫も『共生の作法』の中で、「法はすべて、.......正義という価値には少なくともリップ・サーヴィスを払わなければならない」(p102)と述べております。法を説明する上で、正義は絶対に外せない重要事項であるというか。

で、「法は正義を実現するための手段なんだ!!」という話をすると、いかにも古臭くて保守的で、異様に胡散臭い感じがするというのも、わかります。いや、正義ってそんな一様に決められるものではないし..... というか、人によって異なるものだし...... とい言いたくなるもの、わかる。その点では、「正義」についての話題を避け、法をあくまで「インセンティブの設定」に見た森田本の方が、何かもっともらしさは感じられるかもしれません。正しさとか善とかは人によって異なるので、法の目的にするにはあまりに胡散臭いけど、インセンティブを設定する(人々に特定の行動を促す)ということであれば、まあ確かにその通りだな的な。森田本にはそういう意図もあったように思います(人によって意見・価値観は食い違うという話が何回か出てくるため、p121など)

ただ、ここで気を付けるべきは、基本的に法学(法哲学・基礎法学など)で「正義」が語られる場合は、我々が普段の言葉で用いるところの「正義」とは、だいぶ意味合いが違うということです。この話、法哲学の本を読むと必ず言及されていて、僕はもう体感誇張無しに100億回ぐらい同じ話を聞いています。いわゆる「正義の味方」とかの意味ではなくて、より英語のjusticeに近い意味で用いられているよという話です。

この点、今回取り上げる中山本『ヒューマニティーズ 法学』では、日本語の「正義」の用法を、日常的なものと法学的なものに分けて説明しています(p4)。日常的な正義の意味は、「正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道」というもの。これは儒学者荀子に端を発するものらしく、いわゆる人として正しい行いという意味で正義が用いられております。

他方、英語のjusticeにも「正義」という訳が当てられるわけですが、このjusticeを英語辞書で引いてみると、次の意味が真っ先に出てくると言います。すなわち、「人を公平に扱うこと the fair treatment of people。正しさというよりは、どちらかというこ「公平さ」などの訳を当てた方が理解はしやすいと思います(公平であることが正しいということではあるのだが)

中山先生は例として、ここで「戦争の正義」の話を挙げています(p5, 6)。日本で戦争の正義が語られる場合には、「自由のために戦うアメリカの正義」vs「アジアの解放を志す日本の正義」といった形で、大義という意味合いで「正義」が語られると。ただ、それに続く次の引用は結構大事だと思います。

ここで肝に銘じておかねばならないことは、こういった議論はあくまでも日本語、ないしは感じ世界で日常的に使われる、道義的な意味での「正義」にかんする議論であって、法の世界で用いられる「正義」、すなわち、複数の行為者間の公平な扱いや、それを可能とする調和ある秩序にかんする議論ではない、ということである。......「法」の土俵で勝負をしたいと思うのなら、あくまでも法的な意味における「正義」を念頭に議論を進めなければならない。(p6 強調引用者)

そんなこんなで、「正義」と聞くと何かイヤ〜〜〜な感じがするかもしれないけれど、怖れるに足らず、あくまで「公平性」に関する議論だよということです。これ、本当に、法哲学ではクドいほど前置きされるのだけれど、これを断っておかないと話を前に進めにくいので、僕も頑張って断っておきます。多分生涯であと200回は同じ話すると思う。「おじいちゃんまたその話〜?」とか言われてみたい。

さて、そんな中で、中山本ではより歴史的な観点から、法と正義の関連性が説かれていきます。例えば、6世紀に編纂された『ローマ法大全』では6世紀て。1500年前なんですけど、次のような記述があると言います。孫引きになりますが、いいこと言ってるなあと思うので引いておきます。

正義(justice)とは、各人に各人のものをあたえようとする永続する変わらない意思である。したがって、法が命じるところは次のようになる。正直に暮らし、他者に危害を加えず、各人に各人のものをあたえること。法の賢慮=法学(juris prudentia)とは、神と人にかんする事柄について知ることであり、正義に適うこと(justi)と正義に反すること(inijusti)を学ぶことである。(本書p20、元は『学説彙纂』冒頭におけるウルピアヌスの言葉)

ここにおいて、森田本との違いは明らかであるように思います。↑の引用を読めば分かる通り、中山本流の理解では、法の機能とか目的って、正義との関連であらかじめある程度決まっているんですよね。法は何も、立法者が自由自在に(目的に応じて好きなように)使える道具ではないわけです。確かに、ある種の道具ではあるのかもしれないけれど、それは何より、正義(各人に各人のものを与える=公平性)に適うことを志向するような道具であるという話。法は単に、人々にインセンティブを設定したりしなかったりするためのツールというよりは、もっと背後に大きな原理(正義)を抱えているもので、ここではそれとの関連で法の機能が説明されています。

更に森田本との比較を進めると、ここでは「法学の特徴」に関する議論も絡んできます。

森田本では、法学が持ついくつかの特徴が説明されています(p117-122)。例えば、法学は(ないし法は)「似たような状況は、似たように処理する」。同じような事例が2つ起こった場合には、そこに何か重要な要素に違いが見られない限り、法学では同じような処理を行います。例えば、僕が交番を襲撃してそこで自撮りしても許されるけど、ヒカキンやセイキンがやったら許されないということはない(あったら面白い)。他にも、法学の特徴として、法ルールを「平等に」適用すること、「理論」に基づいて解釈をすること、ファースト・ベスト(最善策)ではなくセカンド・ベスト(次善の策)であることなどが挙げられています。

で、森田本では、あくまでこれらの特徴も「インセンティブ」の観点から説明されています。例えば、法ルールを「平等に」適用しなければならない理由として、次のような記述があります。

法ルールは、よく言えば「忖度なし」に、悪く言えば「形式的に」適用されるわけだ。そうしなければ、ルールを作るときに考えていたインセンティヴがうまく機能しないことになってしまうからだ。「○○な人」に対して「××なインセンティヴ」を与え、「○○な人」の行動をコントロールしようとしているわけだから、「○○な人」の中にインセンティヴが発動しない人が出てくると、その人の行動をコントロールできなくなる。(p119 強調引用者)

ここでは、法を平等に(僕にもヒカキンにもセイキンにも同じように)適用しなければならない理由として、そうしなければインセンティヴがうまく機能しないということが挙げられています。森田本での理解では、あくまで法はインセンティブ設定のための「道具」であるため、そのような目的が達成されない状況は避けなければならない。だからこそ、法は「平等に」適用されなければならないということです。

ただ、これについては、法を正義との関連から捉える中山本などでは、もう少し違う見方をするのではないかと思います。というのも、法が「平等に」適用されなければならないのは、それが「公平性(正義)」という法それ自体が実現すべき価値であるから、ということも言えそうです。法が達成すべきは、何よりも「各人に各人のものを」という正義の実現であるために、平等な適用などの原則は、インセンティブの付与云々に関係なく、法に求められる要請なのだと、そういう話になるわけです。

 

で、最後に、中山本における「立法学」「法道具主義」への批判について、ちょっとだけ見ていきたいです。

森田本においては、「法を作る」と題した章の中で、公共政策大学院についても触れられています(chapter 7)。公共政策大学院とは、その名の通り「公共政策」について学ぶところで、法律を作ることも当然公共政策に入ってくるので(というか、かなり重要な部分)、そこでは立法の作法なども学んだりします。森田先生の言葉で言えば、「どのようなインセンティヴを人々に与えれば、人々は、ある社会目的の実現に沿うように行動してくれるか」(p108)というのを考え、利害調整の在り方なども学んでいきます。

で、こうした公共政策大学院などの「立法学」に、正面から批判を挑んでいるのが、我らが(僕の)中山先生です。中山本の4章では、公共政策大学院に言及したところがあるのでちょっと長いけど引いておきます。

立法目的に沿った合理的な法案づくりを目指す「法政策学」の試みが提唱されてしばらくがたつ。そこでは、法教義学=法解釈学を中心とする従来の法学とは異なって、「目的=手段」的思考に基づく合理的な制度設計が意識的に目指され、そのための手掛かりとして「法と経済学」(”law and economics”)、つまり法の経済分析の手法も採り入れられた。さらに、最近では、「立法学」という科目をカリキュラムに採り入れているところも数多く見受けられる(法学部もそうであるが、このところ至るところで設立されている公共政策大学院の多くがこの名称の科目を設けている)。(p98 強調引用者)

この辺の、「『目的=手段』的思考に基づく合理的な制度設計が意識的に目指され......」 などは、森田本にはかなり該当するところだと思います。森田本では「いかに上手にインセンティブを設定するか(合理的な制度にするか)」という話が、割とページ数を割かれて書かれているので。

ただ、こうした「法学」の在り方に対する中山先生の批判は、まあ辛辣です。法をより「正義」や原理との関連で見る立場としては、このように「目的に対する合理性」を他に優先して掲げる法学は、ちょっと受け入れづらい。中山本ではこれを、理念がないという形で批判しています。この批判が個人的にめちゃくちゃ面白いので、これもちょっと長くなるけど、引用しておきます。ぜひ読んでみてください。熱い言葉なので。

しかし、筆者が法理学=法哲学という、多分に偏屈な分野の出身だからかもしれないが、この「立法学」なる新領域に、それを主導する理念のようなものが果たして存在するのか否かということが、やはり最も気にかかる。というのも、時の政府——ないしはそれを構成する、相対立した複数の利益集団——から降ろされてくる案件(「天の声」?)をその都度その都度受け入れ、代々受け継がれてきた洗練された職人芸を駆使し、法律としての体裁を整えてやるだけなら、そこから生み出される産物の各々のあいだに共通の一貫した筋を見出すことなど、到底、望むべくもないからだ。.......万が一、立法というものがそうしたご都合主義的な政治の道具にまで堕してしまうようなことがあれば、市民に残される選択肢は、文言等の定義や用法の点では過去の関係法令とも矛盾なく、見事に整序されてはいるものの、理念の面では互いにてんでバラバラな数々の法律の狭間で右往左往するか、あるいは、法律などとはできるだけ関わり合いを持たないように心がけ、シニカルな態度でやり過ごすかのいずれかしかないであろう。単なる個別利益にしか奉仕することのない、こうした行きすぎた法道具主義の下では、「法」への信頼が栄えることなど金輪際ないに違いない。(p99,100)

最後の方、ちょっと言葉強すぎて笑えますよね。「『法』への信頼が栄えることなど金輪際ないに違いない」って。もちろん、森田先生は法道具主義の立場を採っているわけだけれど、これらの批判が全て当たるわけではないとの反論は可能だと思います。とりわけ、立法学が「代々受け継がれてきた職人芸を駆使し、法律としての体裁を整えてやるだけ」なのかどうかは、僕としてもだいぶ疑問に思います。

とはいえ、ただ森田本などにおける法道具主義において、一貫した「理念」や原理が見出されるかというところは、確かに中山先生の指摘にも一理あるかなと思います。やはり、法というのは正義や道徳との関連で語ってこそ、一貫した特徴が見出されるのではないか。どうも、「インセンティブを設定する道具」というだけでは、法が内包する様々な価値や原理について、理解が深められないようにも思います。僕としては、そうした法の「哲学」こそが、法学において面白いなと思っているので、こういうところこそ積極的に語っていきたいですね。

 

初学者や高校生に語るなら......

めちゃくちゃ長くなっているので(既に1万字ある.....)、この辺で締めます。

今回2つの本を挙げたけれど、僕が気になっているのは、初学者や高校生に向けて話すなら、どっちに力点を置くのが良いかということです。どっちの方が、法学に興味を持ってもらえる上に、法の特徴としても適切であるのかなど。

今回は批判的に書いたけれど、おそらく森田先生も、法と正義(や道徳)の関連は決して軽視してないとは思うんですよね。高校生向けにコンパクトに書かなければならなかったから、あえて力点を置かなかっただけで、重要性を否定しているとまでは言えないと思っています(中山先生はその逆だけど)。ので、どっちの説明がより適切かということよりも、初学者に向けて話すならどっちかなというのが、ここで考えたいところです。

で、最近は森田流のインセンティブ論、法学入門系の本でも割と積極的に紹介されている気がするんですよね。2021年の宍戸常寿・石川博康編『法学入門』でも、第1章でインセンティブとか立法論の話が出てくるし、あと今年(2022年)に出たばかりの神野潔・岡田順太・横大道聡『法学概説』なんかでも、第1章コラムで法によるデザインの話が紹介されていたりします。法によるデザインの話とは、水野祐『法のデザイン』のことですね。

 

法学概説

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法のデザイン

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この水野佑『法のデザイン』というのが、かなり立法学的な話をしていて(イノベーションを加速させるように、私たちで法をデザインしましょう的な内容)、しかも結構反響もあったようで、最近の法学入門系の本では紹介されがちな気がします。合わせて、飯田高『法と社会科学をつなぐ』も、かなりインセンティブの観点からの議論をしております。僕はこの水野本、飯田本、そして森田本、3つを合わせて基礎法学インセンティブ三銃士と呼んでたりします。

基礎法学インセンティブ三銃士。こんなふうに呼んで、いつか怒られないか心配である。

 

そしてそんなわけで、法をインセンティブの設定から見る議論も、確かに有力なのであるけれど、僕も法哲学という「多分に偏屈な分野の出身」なこともあって、より正義や原理との関連で語りたいなという話でした。

高校生に語るにしても、「法の根底には、一体どのような価値観が一貫して貫かれているのか......」「法が実現すべき価値や正義とは何なのか......」とか、そういう話の方が面白がってもらえるような気がするんですが、どうでしょう? それともイノベーションの促進とかの話の方が、古臭さがなくて高校生にも受けるのかな。わからんけども。

皆さんはどうですかね? 僕は今回、ほとんど「正義」や原理の内実について話せず、法がどう正義と関わるかについて書けなかったんですが、それは次回以降でもいいかなと思ってました。とはいえ、「いや、正義とか道徳はいいから、もっとイノベーション系の話をしてくれよ^^;」と思う方もいるかもしれません。そういう奴は、あの、ですね。僕は引き続き、道徳との関連での話をしていくと思うので、今後ともよろしくお願いします。

 

 

 

以上!!!

今回は、<シリーズ 法哲学覚え書き②>ということで、「法の本質、正義に見るかインセンティブに見るか」という話をしてきました。まあ、森田先生とかは「本質」という言葉は使わないかもしれないけど、その方が語感がよいので許してください。正確には法の「機能」とかの話ですね。

思ったより森田本を批判する形になってしまい、同時に中山本について紹介が薄くなってしまいました。反省しております(本当はもっと中山本を紹介するつもりだった)

ほんのちょっとだけ紹介すると、中山本において、法の目的は「人が生きられる空間を創る」ことにあるとされています(p53)。このシンプルな説明が僕は結構好きです。「法とは、人が生きられる空間を創るものである」と。その辺の高校生を道端で捕まえきて、これを教え込んでみたいぐらいです。そして機会があれば、「じゃあ人が生きられない空間とはどのようなもので」「法はそれを、どのように生きられるようにしてくれるのか」という話もできればなと思っています。

最後に、今回は「基礎法学オタクになる」と宣言しましたが、次回はもう少し法哲学っぽい話がしたいですね。ともあれ今日の記事に関しては、「法とは何かということについて、こんな説明があるのかい!!」ということを、一端として感じ取ってもらえれば幸いです。そんな感じです。長くなったので今日はこの辺で。