浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

法哲学的なことは政治的な広がりを持つか?:池田弘乃『ケアへの法哲学』読みました

どもも。またしてもお久しぶりになってしまいました。更新、増やしたいなとは思っているんですけど、最近書きたい内容がテーマ的に重すぎて、中々増やせないでいます。倫理学のこととかももう少し書いていきたいんだけども。書くのって、大変やね。

そんなことより、本日3月8日は国際女性デーでありました(更新する頃には昨日になっていた.......)Twitterとか見てる人なら、色々リツイートが回ってくるなりで既知のことかもしれません。特に最近は、議会における女性議員の少なさ問題が注目されているような気がします。韓国でもクォーター制が選挙の争点になっていると聞くし。

www.tokyo-np.co.jp

↑なんとなく紹介

 

池田弘乃『ケアへの法哲学 —フェミニズム法理論との対話』(ナカニシヤ出版、2022)

で、折角「国際女性デー」ということで、僕も今日はフェミニズム系の本を読んでおりました。それが池田弘乃『ケアへの法哲学です。

これは約1週間前の2/28に発売された本で、法哲学だし、フェミニズムだし、僕も読んでおこうと思って買っていたのだが、分量も多く内容も専門的なため、こういう日じゃないとちゃんと読まんかな〜〜と思って、今日張り切って一気に読んでました。公務員試験の勉強は??

というわけで、今日はその感想になります。一通り読んでみて、思ったこと感じたことなどを書いてみたいと思います。頑張るぞ!!!!

 

【言い訳】
.......これは本当に予防線でしかないのだけれど、ブログトップに書いてある通り、当ブログにおける記事は全部「日記」になります。ので、今回も決して「書評」など大業なものではなく、単なる個人的な感想、もっといえば僕個人の「生存報告」的なものに過ぎないです。それであの、何が言いたいかと言えば、これは「本の評価」としてはほとんど当てにならないよ、という断りです。もちろんそのことで、自分の発言が負うべき責任を免除させようとか、批判から自由になろうとか、そういうことではなくて、本当に、一大学院生が単なる感想として書いているだけなので、そんなきっちりした正当な評価がなされているとは思わないでねということです。内容をちゃんと知りたければ皆も買って読もうな。もちろん批判は受け付けるので、そういう懐疑的な目で見てくれると歓迎という話です。

 

で、各章の内容を簡単に紹介した後、思ったこととかを書いていこうと思います。

ちなみに、この本の目指すところについては、↓の引用にわかりやすく書かれているかな。

キャロル・ギリガンに始まる「ケアの倫理」論の展開は、法理論にどのようなインパクトをもたらすものなのか。本書では、それを探るための序説的な作業を行ってみたい。そして「ケアの倫理」の問題提起を法哲学的に真剣に受け止めた一つの応答として「ケア基底的社会」という構想を提示したい。(p5)

序章からの引用。この「ケア基底的社会」というのが、本書の核になるものだと思う。こうした問題の他に、リベラル・フェミニズムが法理論にどのように貢献できるか、ということも中心的に扱われている。そんな感じで、フェミニズムと法理論(法哲学)の関係というのが、本書のテーマになっていると思います。

 

ざっくり内容紹介&個人的感想

まじで雑な紹介なので、「ふーん」ぐらいで受け取ってください。あんまうまく書けなかったし、本題ではないので、「クリックで展開」にさせてもらいました。なんとなくでいいから本書の内容追いたいという方はどぞ。

→なんか設定うまくいかなかったので、結局普通に書いたけど、マジの雑まとめなので、以下の青文字は全部よみとばしてOKです。

 

序  フェミニズムから出発する

法と「境界を引くこと」など。マイノリティとマジョリティ、性的マイノリティとそれ以外など、線を引くことによって何かが不可視化されていないかとか、そういう話。

【感想】フェミニズムでは割とお馴染みの話題だと思うが、それを法哲学からやっていくよということが明言されている。「線を引く」ことの問題性、そしてその不可避性とかは、やっぱフェミニズムってそういう話よね、という謎の安心感がある。

 

第1章  「個人的なことは政治的なこと」——性の公共性について

フェミニズムと「立法問題」の関係について。穂積重遠に触れつつ、どちらかというとニコラ・レイシーの議論の紹介がメイン。レイシーが、フェミニズムと法/政治の関わり方には、「批判」「ユートピアニズム」「改革運動」の3つの局面があると指摘したことを受け、とりわけこの「ユートピアニズム」が大事だろうという議論をしている(はず)。

【感想】レイシーの議論とか、意識高揚運動としてのフェミニズムとか、ケアは「負担」でしかないのかとか、ケアされる者は自律していないのかとか、後の方でも重要な論点がいくつも出ていたように思う。が、章題の「個人的なことは政治的なこと」というのがどう回収されたのかは、いまいちわかっていない。アホなので。

 

第1章補論  Brave New Equality ——C・マッキノン『女の性、男の法』に寄せて

キャサリン・マッキノンがどういうことを言っていたかという話。とりわけ、マッキノンが法と政治の区別をどう捉えていたかとか、反ポルノ言説をどう提唱していたかに焦点が当てられている。

【感想】「法的議論と政治的議論は分離すべきか(分離可能か)」というのは、割と重要な論点であると思うし、本書でも大事そうなので、もうちょっと触れて欲しかった感ある。

 

第2章  ハラスメントがセクシュアルであるとはどういうことなのか

セクシュアル・ハラスメントの「セクシュアル」とはどういう意味なのか、という話。例えば、男性が男性に対して行う「 風俗連れてってやろか?」的な絡みは、セクハラと呼べるか否か的なこととか。性差別についての「差異説」「平等説」とかが、マッキノン→ジャネット・ハリーの流れで紹介されている。

【感想】これは「そういう論点があるのか」という点で勉強になることが多かった。特にマッキノンについてあんまり知らないので、詳しめに紹介されていて助かった。確かに「セクハラ」におけるセクシャルって謎だなと思うし、この平等説と差異説の違いも面白かった。

 

第3章  人間観の問題とフェミニズム

憲法13条(幸福追求権)を手がかりに、憲法がどのような人間を想定しているか、それが卓越主義的になっていないか、なってたらよくないね、ということを検討している。憲法学における「人格的利益説」と「一般的自由説」の対比を手がかりに、どちらの人間観がリベラリズム、あるいはフェミニズムにとって適合的か、という話をしている。ヌスバウムによるロールズ批判とその検討がメインかな?

【感想】最終的に後藤玲子の「公共的討議」の話とか、ケアと「代弁」とか、民主主義の話に繋がっていくのだが、この辺がどう連関しているのか現状あんまり理解できてない。

 

第4章  リベラリズムに呼びかけるフェミニズム

堕胎(中絶)の自由がメインテーマ。そして井上達夫が論敵。井上はフェミニズム(特にマッキノンやバトラー)を批判し、あくまでリベラリズムを基底としつつ、堕胎の問題を「どこからが生命か」の線引きではなく、当事者の「道徳的葛藤」から捉える立場を示しているが、それについて云々、という話。こんなテキトーな紹介で怒られないだろうか。怒られるかも知れない。

【感想】井上達夫の見解は詳細に紹介されていたし、それ自体は面白いのだけれど、これについて著者がどういう立場を取っているのか、最後のまとめがいまいちよくわからなかった。

 

第5章  フェミニズムと法概念論との対話に向けて

フェミニズムと法実証主義の連関の話。フェミニズムは、法を記述的に捉えることを表明する法実証主義を、「いや、記述的とか言うてはりますけども、そこには何らかのイデオロギーが入り込んでるんでありまへんか?」という批判を向けられるけども、これは規範的法実証主義(法実証主義における「法と道徳の分離」を、記述的なものとしてではなく、規範的なものとして捉える)の立場に立つなら大丈夫よ、という議論をしている。

【感想】倫理的実証主義・規範的法実証主義・規範的排除的法実証主義という、本書にとって核となると思った議論が出てくるし、ここが一番法哲学っぽいのだが、この章以降で触れられることはあんまりなかった。

 

第6章  フェミニズム法理論とマイナーな声

主に、議会における女性の過少代表の問題の話。クオータ制の議論や、あとはメリッサ・ウィリアムズやアイリス・マリオン・ヤングの主張に焦点が当てられている。

【感想】がっつり民主政というか、政治哲学的な話の章。すみませんこの章はだいぶ読み飛ばしてしまいました。章題に「法理論」とあるけど、どちらかというと政治理論ではないのかという疑問がずっと頭にあった(まあ民主政も法哲学の議論ではあるだろうけど)。

 

第7章  家族の法からホームの権利へ

「家族」というものに法理論がどう立ち入るべきか、という話(だと思う)。性別役割分業の話なり、「親密な関係」の話なりが出てくる。マーサ・ファインマンの議論の紹介がメインか?

【感想】この辺も、正直よくわかってないです。よくわかってないクセに内容紹介とか称するののはどうなんだろうな? でも、この章より続く8・9章の方が大事そうなので、まあそっちの方が大事ということで。

 

第7章補論  婚姻制度再検討のためのノート

「婚姻制度廃止論」などを取り上げつつ、現状の婚姻制度がどのように変更されるべきか(あるいは維持されるべきか)という話か。人間の脆弱性についても触れつつ、そのあたりの議論をまとめている。

【感想】阪井裕一郎『事実婚夫婦別姓社会学』と近いところありそうだな〜と思いながら、ざっと読み流した。

 

第8章  ケアを「はかる」ということ

「ケア」の議論に本格的に立ち入り、著者自身の提唱する「ケア基底的社会」についても説明されている章(ケア基底的社会:依存が人の性の必然的事象であることを基底に据えた社会制度(p293))。エヴァ・キテイの議論を中心に据えつつ、ヌスバウムの潜在能力アプローチにも批判を加えている。「ケアの倫理」としてギリガンも出てきて、「ケアの倫理」と「正義の倫理」の対比が用いられる。

【感想】著者の立場がわかりやすい章で、なんならここから読み始めるのがいいかもなと感じた。ヌスバウムへの批判とかも加えられている。キテイの議論を中心に、ケア基底的な(ダジャレじゃないよ)社会へ、という話。ただ「ケアの倫理と正義の倫理」のところと、やっぱり結論部分がどうまとまっているのかよくわからない。

 

第9章  ケアへの敬意 ——倫理から制度へ

認知症当事者が電車に轢かれ、その損害賠償が家族に請求された事例(2016年の最高裁判例)から、介護の公正な負担の話に繋げている。特に、ケアを「ツラい」行為だと見た上で、その負担をどう分配するか、マイケル・ウォルツァーの議論を参考にしつつ展開している。ケアが「倫理」と「正義」とどう関わるのかという話もしている。

【感想】ケアの分配とか、責務の話について考えるのは結構面白そうだと感じた。やっぱ8・9章から読み始めた方が、本書は全体的に理解しやすかったかも知れない。ただやっぱ結論のまとめ部分はよくわからなかった。

 

 

内容紹介という名の駄文終わり。

書いてみると、「紹介」と言えるほど内容理解できてねえなと感じます。普通に、6・7章あたりは特に難しかったです。

それを踏まえて、個人的に思ったことなどを書き連ねます(記事的にはこっちがメイン)。

 

法哲学、なのか?

これ、内容とあまり関係しない話なんですが、言うほど「法哲学」だろうか? というのは結構疑問でした。そもそも法哲学とは何を問題とするのか問題。

本書は「法哲学」をタイトルに持っているけれど、それがどんな学問で、どんな議論をしてきたか、という話はほとんどされません。序章で、1976年の加藤新平の言説が少し紹介されるぐらい。

法哲学は、〕法の世界に関するこれら諸学科〔法解釈学、法史学、比較法学、法社会学等々〕によって手引きを与えられながら、しかもそれらがもっているところの諸仮定と対象的限定性をとり外して、——比喩的に言えばそれらの床板も仕切りも取り外し——一度混沌にかえした上で、改めて根源からの反省を加えようとするのである。
本書p7、原文は加藤新平『法哲学概論』(有斐閣、1976)p148、〔〕内は本書のもの

という説明。ここ以外で「法哲学の問題とは何か」という話に触れられているところは、たぶんなかったように思います。

で、5章の法実証主義の話や、3章の憲法学の人間観の話は、かなり法哲学「らしい」議論であるけれど、それ以外の章は、ぶっちゃけ政治理論や政治哲学の方が分野としては近いんじゃないか、というのが一つ目の感想です。

もちろん法哲学でも民主政の議論はするし、正義論は法哲学の中心的テーマの一つでもあるので、「じゃあ法哲学と政治哲学を明確に分ける線引きはあるんか? 言うてみい」と言われたら、僕も困るのだけれど、それでも「言うほど法哲学っぽくはないかな」という印象は受けました。とりわけ、法哲学っぽい議論をしている第5章(法実証主義の話)でも、最終的な落とし所は「民主的な討議の在り方」に向けられていて(最終節が「創造的対話は可能か」になっているなど)、結局は民主主義的な、政治制度の在り方の話なのか? といったところは気になりました。実は第1章補論で、マッキノンが「法的議論と政治的議論の区別」をどう捉えていたか(両者は互いに独立したものなのか)という話がちょっとだけ触れられているんですが(p66-68)、ここをもっと掘り下げて欲しかったなとも思います。

これには著者自身、ちょっと自覚的なところもあるのかなと思っていて、例えば本書でよく引用されるニコラ・レイシーに言及しつつ、

実質的な規範的議論は、法だけでなく、法-外の多様な政治的実践をも通じて行われる(Lacey 1998a: ch.3)のであり、その際、適切な民主的プロセスや民主的正統性についての理解が必要とレイシーが述べていることも後の議論との関連で重要である。(p166、強調は引用者)

と述べられているところも印象的です。あくまで、「法的議論」だけで完結させようとするのではなく、意識的に、民主主義や政治理論と結びつけていく、というアプローチなのだと思います。

で、僕の疑問は、なぜタイトルを「ケアへの法哲学」にしたんだろう、というところ。まあ些細な問題ではあるのだけれど、ここから「法哲学では、ケアについてどんな議論をしているんだろう?」と思って本書を手に取ってみても、意外と法哲学の話はしてないな、普通に政治哲学だな、という感じにはなるかもしれません。国内外の判例とかは紹介されていて、その意味では確かに「法理論」的なのだが、法哲学っぽいかというと、まあまあという印象。

ちなみにレイシーについては、p41の脚注で、

レイシーは自らの考察分野を、分析法学の手法とフェミニストの政治的倫理的コミットメントの結合を図ろうとするところから、.......'Feminism legal theory'と名付けている。(p41 脚注26)

とも書かれており、こっちのフェミニズム・リーガル・セオリー(フェミニズム法理論)の方が、名前的にはしっくり来るような気がします(まあ副題に付いているのだが)。何が法哲学の問題で、本書がどうケアへの「法哲学」なのか、そして法哲学と政治理論の話は区別できるものなのか、あるいは混然一体となったものなのか、というところは、気になる読者もいそうだなと思いました。

発生5Fの自分語りを差し込むと、僕も修論のテーマを「法と道徳」、とりわけ「社会道徳」との関係にしつつ、「社会的に共有された道徳と、民主的な法との在り方の関係」的な話をしたところ、「それは法哲学というより、政治哲学の話になるんじゃないか?」といったコメントを、たくさん、それはもうたくさんもらいました。法理論の話をすると言いつつ、最終的な落とし所を「民主主義」とかにすると、そういうツッコミを貰いがちな気がします。これには僕も苦しめられた。

そんなわけで、民主主義についての議論(政治理論)から独立して、法的議論を展開することは可能なのかというのは、個人的にも気になっています。本書ではむしろ、意識的にそれが為されていたように思うけれど、どうなんでしょう。「法哲学の問題」というのは、政治理論から独立した、あくまで「法内」で完結する話であるべきなんでしょうか。それとも我々、積極的に民主政や政治理論との連関を探っていっていいものなのでしょうか。まあどっちでもいいっちゃいいだろうけど。

本書では度々、「個人的なことは政治的な広がりを持つ」'the personal is political'という、第2派フェミニズムの標語が引用されています。それにちなんで、法哲学的なことは政治的な広がりを持つ」というのを、我々法哲学徒の標語にしてよいでしょうか。だめ? いいよね、多分。その辺が本書で真っ先に気になったポイントでした。(ちなみに、なぜ「政治的なこと」ではなく「政治的な広がりを持つ」と訳されているのかは、よくわからず)

 

 

結論がちょっとわかりにくい

もうひとつ、かなり気になったのが、著者自身の「主張」がかなり控えめというか、言ってしまえば「曖昧」であること。各章、先行研究の丁寧な「紹介」はされているけれど、そこに筆者自身が何を「付加」して、どこがオリジナルな議論なのか、というのが、若干わかりにくかったです。

発生2Fの自分語りを差し込むと(アプデで速くなった)、僕も自分の修論では、特にこの点に苦しめられました。論文を指導する先生からは

「あなたの修論、”議論のまとめ”としてはよくできてるけど、そこに独自に『付加』している点は何なの? 先行研究に対するあなたの貢献は何? 新規性はどこ?」(意訳)

というのを、かなりかなり詰められました。これがマジで苦しかった。

僕は議論の整理とかは多少できても、新規性ある主張を、筋の通った形で打ち出すことはマジで苦手なタイプで、とにかく自分の”主張”には自信がなかったです。そのため、修論では「〜ということが言えなくもない」とか、「〜といった指摘が可能であるように思われる」とかの表現を頻出させ、かなり逃げを打ちながら仕上げた感じになっています。

で、本書もちょっとそれに近いものを感じるというか、先人の議論のまとめはかなりわかりやすくできているけれど、じゃあそこに対して著者が何を「付け加えている」、あるいは「新規に貢献している」点は何なのか、というところは結構わかりづらかった感あります。例えば2章のセクハラの話では、マッキンノンの見解が紹介されたのち、そこへのハリーによる批判が紹介されているけれど、その二人の論争を発展させて著者が何を言っているのか、もっといえば、「議論のまとめ」以上の付加がどういった点にあるのかといった点は、読解力不足のせいもあり、ちょい掴みきれませんでした。

それは2章だけじゃなくて、全体的に著者の見解はかなり控えめになっていると思います。例えば、第6章にあった一文を持ってくると、

性別に拘わる議論が立法の場に登場する際に、当然の思考枠組みとして性別二分法が通用していることへの驚きと警戒を忘れないこと、この一点がフェミニズムから立法(府)を考察するときに示唆するものは決して少なくないであろうことを期待したい。性に関わる個々の立法課題を考察するときに必要とされるのは、何が即効薬で何が漢方薬かという処方箋ではなく、何を病とみるかという診立てそれ自体かもしれない。その診立てが性についての固定観念を当たり前のように前提としているときに、その点についての再考なしに何らかの制度的措置がとられることはかえって危険かもしれない。そのように考えたとき、数だけに着目したクオータによる女性代表の増大は、副作用もある即効薬どころか、効能の定かではない民間療法に転化してしまうかもしれないと危惧するのはあまりに悲観的な見方だろうか(p209-210)

という感じで、結論部分で、かなり断定が避けられていることも、本書の特徴と感じました。そんなわけで、これはあくまで個人の感想だけれど、導入や問題提起、問題の整理は分かりやすいが、結論に近づくにつれ「だんだんわからなくなる」という印象がありました。

 

フェミニズムは何を目指すのか

とはいえ、そんな感じに「著者の見解が掴みにくい」ところばかりではなくて、「ここは明確に著者の目指したいところなのだな」と感じられるところも多々あります。その中でよく見られたのが、「一つの視点を固定化するのではなく、多様な見方があること、それを可視化し、問い直していくことが大事だ」という主張。

これは本書の割と色んな箇所で見かけたように思います。例えば、意識高揚運動(CRと略すと断られたが、実際はほとんど略されてなかった)への着目とかがそう。フェミニズムの理論や運動が、人々の「意識」「見方」や、問題の「捉え方」を変えていったという点が、ここでは評価されていました。で、各章の結論も、「当該問題について、新しい視座を獲得することが大事」といった、具体的な問題解決というよりは、「多角的な視座の提供」という、ちょっと曖昧なレベルに留まっていることが多かった印象があります。例えば、6章の「女性の過少代表」の問題(上の引用部分の前にあたるところ)では、

過少代表はなぜ問題なのか。性の平等の観点から考察した場合、本章で重視したのはそれを即自的に不平等を示すものとしてではなく、その現状を生み出している構造の問題として扱うべきことであった。そのとき、過少代表という現状をそれだけで変化させること、すなわち女性代表者の数を増加させることを端的に目的とすることには慎重であることが求められる。いかなる意味での女性が問題となっているのか、そして女性の中の多様な声をどう考えるのか、その点について練り上げられた考察とともに提示される制度的提案であることが重要である(p209、強調は引用者)

といった具合。こんな感じで、「具体的に、どういった解決策を用いるべきか」という制度的なものよりも、「その解決策は、どういった視点から問題を捉えたものであるべきか」といった、「視点」「問題の捉え方」の次元の提言が多かった気がしています。具体的な政策と言うよりは、やっぱり「立場」とか「立脚点」、あるいは「多角的に問い続けることの重要性」的なところに話が落ち着くんだなという感じが、フェミニズムっぽいなとも思いました。。でもこれ、僕がそういう風に読んでいるだけという可能性も全然あるので、あんまり鵜呑みにはしないでください。

あと自分の文章読み返すと、「断定を避けた言葉しか用いてない」とか完全にブーメランで笑えるな。

 

 

そんなわけで、全体的な感想としては、議論の紹介としては大変分かりやすく、とても勉強になったが、その先の著者の見解の部分としては、婉曲的にされていてよく分からないところも多かった、という感じです。あと、フェミニズムってやっぱ「批判的視点の提供」に終始して、具体的提言は行わないものなのかな〜〜と感じるところもありました。

先行研究のまとめばかりで、独自の見解が薄いということは、僕自身も修論中に教授からめちゃ言われた問題であるし(それで自分には研究者向いてないな〜〜と感じた)、あと著者の「あとがき」を読んでも、若干そういう「書き切れなかった」的な記述があり(p348)、まあまぁまぁという気持ちになりました(どういう感情?)。

 

規範的法実証主義とは

最後。これも若干、よくわからなかったです。特に、規範的法実証主義の「何が利点なのか」というのがいまいち掴めずでした。第5章では、規範的法実証主義のうち、「規範的排除的法実証主義(通称ExP)」というのが紹介され、著者はこの立場を支持している。

私見では、人権保障と民主主義との対抗関係について、法概念論上の規範的排除的法実証主義と呼ばれる立場をとることで、立法優位の制度においてもなお人権の実効的保障が一定程度可能になると考えられる。(p141)

とされていて、民主的原理を尊重しつつも、多数派の専制や、少数派への人権侵害へと横滑りしない点が評価されているように思います。

ただ、そもそも規範的排除的法実証主義と、民主主義や多数派の専制の話が、どう繋がるのかがあまり掴めていない。ここで「規範的排除的法実証主義」というのは、「法の『中立性』や『合理性』といった特徴」を、「法の記述的特徴ではなく、目的(aspiration)として位置づけ」る理論として紹介されている(p167)。実際に法が道徳的に中立かどうかではなく、「規範として、法は道徳的中立を目的とすべきだ」とするのが、この規範的排除的法実証主義になるとのこと。

そして、この「目的」がしっかり達成されているかどうか、法の在り方を粘り強く問い直していける点で、規範的排除的法実証主義は、フェミニズムと相性がいいらしい。なぜかといえば、フェミニズム自体、そもそもが「批判」や「問い直し」を核とするものであるため。

ただ、著者も言及しているように、法実証主義に対置される理論(ここではドゥオーキンの「原理」に基づいた法理論など)も、「法をラディカルで想像力に富んだ仕方で改革していける」(p169)とされているんですよね。だとしたら、フェミニズムの目的にとっては、ドゥオーキン流の法理論でも、規範的法実証主義でも、どっちでもいいんじゃないか、となるような気もします。まあもっと言えば、より社会の「意識改革」とかに焦点を当てるなら、法と社会道徳の必然的関連を説くリーガル・モラリズムの主張なんかも、そこに入らんことはないように思いました(リーガル・モラリズムは、「現にある」道徳の強制を主張するのみで、全く「批判的観点がない」=フェミニズム的ではないということも言いうるが、法の強制する道徳が「社会的に共有された道徳であること」を強調する点では、ある意味で「社会通念や道徳の変革」に繋がるところもあるのではないかと思っている。例えば、フェミニズム的な立法をする上では社会の道徳意識もフェミニズムに近いものに変えて=啓発していかなければならない、的な)。で、そこで著者があえて「規範的法実証主義」を評価している理由が、僕の読解不足に起因するのだろうけど、若干よくわからなかったです。

あともうひとつだけ言うと、著者が「自律」と「自立」をどう捉えているのか、というのも若干気になりました。というのも、本章では第一に「法の自立性」が問題とされるのだが、これに当てられている英語がautonomyなんですよね。これは1999年の田中成明論文に依拠しているのだけれど、多分一般的には、autonomyは「自律」の方で訳すのではないかと思う(「自立」は independent)。ただ、ここが「自律 autonomy」であるだろうということは、まあわかる。

ただ、その後の議論でも「法の自立性」というのに触れられており、これがindependentの意味なのか、あるいはautonomyの意味なのか、ちょっとわかりにくいと感じるところありました。どっちでもいいのかな? どっちでもいいのかもしれない。これについてはどっちもいいか。どっちでもいいということで。どっちでもいいということにしよう。

ただ、他の箇所でも「自律」と「自立」がごっちゃになっているところがあって、そこは気になりました。例えば第1章ではケアと「自律」という問題設定がされているが(p48)、8章以降ではケアと「自立」の関係の問題となっていて、これもまあ、どっちでもいいのかもしれないけど、どっちでもいいにせよ一言欲しいなと思うところではありました。autonomyとindependence、やっぱり「ケアと依存」とかの話をするなら、区別した方がいいようにも思うけど、どうなんでしょう。わかんないっす。

 

で、本書の核となる8・9章の議論については、僕が内容に立ち入れるところがあんまりなく、ここでは触れることができませんでした。ひとえに、「ケア」についての先行的議論を全然知らないためです。そのため、最後の方で気になったのは、「ケアの倫理」「正義の倫理」とか(ギリガン依拠)を検討する際、そこでの「倫理」とか「正義」ってどういう意味で用いてるんやろ、ということぐらいです(でもこれも、熟読すれば書いてあったように思う)。

何というか、「法哲学的なことは政治的なこと」かどうかとか、本書の中核に関わらない部分であーだこーだ言っといて、肝心の「ケア」についてノーコメントなのはマジで申し訳ないのだが、普通に勉強不足で難しかったので許してください。出直してきます。

 

 

以上

ちなみに、読み終わってみて、僕は当初「国際女性デーだからフェミニズムの本を読もう」と考えていたけれど、この考えってよくないんだなと思いました。というのも、「国際女性デーだから〜」というのは、つまり「普段はそれを考えなくていい」ということの裏返しであり、ゆえにこれは「自身がマジョリティであることに無自覚な態度」の表れということになるのと思います(本書の序章を参照)。

だから正確には、「国際女性デーをきっかけとして、これからフェミニズムの問題を考え続ける・問い続ける」という態度が大事なんだと思いました。「その日だけ考えて終わり」というのは、マジでよくないね。当たり前だけど。

そういった、「境界や線引きを問い続ける姿勢」といったものが、本書からは得られるように思います。だから、読もう。皆も、読もう。最後まで読んでくれた人、マジで感謝。でも本書も読もう。

 

 

 

【箇条書き感想】

よいと感じたところ

  • サクサク読める、読みやすい。フェミニズム系の学術書は(入門書でさえ)込み入っててよくわからないものが多かったが、この本は「今何を論じているか」が比較的わかりやすく、読みやすかった。おそらく法学系論文の体裁をきちんと取っているのだろうことも関係している(つまり僕が読み慣れているジャンルということ)。
  • マッキノン、ヌスバウム、レイシー、キテイ、ギリガンあたりの議論を一通り追うことができる。ちゃんとした理解は原典を読めという話になるだろうが、マッキノンとか全然知らなくても、「そういう議論をしているのね」というのはある程度わかった。ただし入門書ではないので、あくまで「ある程度」という感じ。
  • セクハラ・堕胎・政治における女性の過少代表など、実際の「制度」が焦点となる点で問題が捉えやすかった。思想的なフェミニズムだと、「結局、具体的には何が問題なの?」と感じることも割とあるため。制度や社会の在り方が常に問題の中心にあるのは、やはり法哲学徒としては読みやすいし、大変勉強にもなる。判例とか挙げられてるのね、ありがたいよね。
  • 特に8章・9章は、「ケア」の問題について深く知ることが出来ると思う。個人的には、ギリガンの「正義の倫理」と「ケアの倫理」の区別が気になった(今回触れられなかった)。もう一回読みたい。

 

若干気になったところ

  • 入門書ではないので仕方のないことなのだが、ある程度フェミニズム(やそれと関連する政治理論)を知っているのが前提ではあるなと思った。マッキノンの主張など、丁寧に説明はされるけども、「解説」までされているわけではないので、これだけで理解するのは難しい。マッキノンがどんな本を書いていたかとか、あとはヌスバウムロールズに対してどのような批判を向けていたかとかは、その辺をあらかじめ知識として知っておいた方が、内容には立ち入れるように感じた。
  • 法哲学とは何なのか」という議論があんまりない。これは上で書いたとおり。
  • 全体的に、筆者の主張が弱いと思う。これが一番気になったが、これも上で書いたとおり。
  • フェミニズムってやっぱり、「問い続けることが大事」的な結論を持ってくるもので、あんまり具体的な提言とかはしないのかな〜〜という印象。行動経済学の『WORK DESIGN』とかは、そういう意味で異端なのか? わからん。