なぜ働いていると読書感想が書けなくなるのか。
.......全然更新してなくてすみません。今日は98日ぶり、今年7回目の読書感想となります。気合出していきます。
今回読んだ本はこちら!!!!!
中原翔『組織不正はいつも正しい 〜ソーシャル・アバランチを防ぐには〜』(2024,光文社新書
今年の5月に出た新刊です。
皆さんは「組織不正」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。少し前のニュースになりますが、ビッグモーター社のあれを思い浮かべる方が多いかもしれませんね。車を故意に傷つけることで、保険金を不正に請求していた(しかもそれが組織的に行われていた)という問題です。
他にも、汚職やパワハラの揉み消しなど、定期的に組織不正は摘発され、問題となります。で、本書はそんな組織不正がなぜ行われ、そしてそれに我々はどう向き合うべきかを論じた一冊となります。
現在2024年10月ですが、実はこの本7月頃には読み終わっておりまして、、、3ヶ月も感想を温めてしまった。サボりすぎたので、あまり凝ったことはせず、今日はサクッと行きたいと思います。
......ちなみに、感想を温めすぎると、どうなりますか??
答えは、乾燥します
はい、いつも通り、①読んだきっかけ、②内容紹介、③感想という順番で行きます。
読んだきっかけ
度々書いておりますが、私、某国立大学で現在経理系の仕事をしております。で、経理担当になったのは単なる偶然というか、人事にそう言われたからやっているだけなので、強い関心はなかったです。大学院では法哲学・倫理学などをやっておりました。問題関心としては倫理や正義の問題があります。
で、経理の仕事をやり始めたときに、「そもそも会計ってなんだよ〜〜〜〜」と思ったので、下記の本を読みました。これが大変おもしろかったです。
↑その時の記事。
で、この本では、「いかに会計というものに職業倫理が求められるか」ということが書かれていました。帳簿というものはキッチリ・嘘なく記さないといけない、が、だからこそ不正や誤魔化しの温床となっており、そこには正しい倫理観が求められるという話でした。
これを読んだときに、職業倫理って面白いな!? と思った次第です。倫理学の分野でも、法曹倫理・医療倫理などはあるけれど、あまり会計倫理というか、「一般職業人の倫理」については聞いたことがありませんでした。企業倫理の話はあるにはあるけれど、どちらかというと環境問題や障害者雇用などの話が多く、「職業人が持っておくべき倫理」ということはあまり扱われていない印象です。
倫理学の外に出ても同様で、昨今は「法に触れない範囲で儲けてる人間が一番偉い」という風潮や、「根詰めて働かず、自分のペースで無理しないことが一番」という言説が根強いように思います(そんあなことない?)。ので、正しい倫理観・正義観を持って仕事なさいという話は、滅多に聞かないな〜〜という感じ。もちろん、コンプライアンスというものはありますが、それも社会的に正しいことを遂行しようぜというよりは、己の身を守るため、という側面が強いかなと感じます。言っていることは要は「炎上するな」ということなので、裏を返せば、炎上しない範囲であれば何してもいい/手を抜いてもいいという感じではないでしょうか。
何が言いたいかといえば、決して「自分のため」ではないような、職業人が備えるべき倫理というものもあるのでは? と思っているところです。それは医療倫理・法曹倫理といった専門領域における倫理だけではなく、一般的に働いている会社人にも求められる倫理で、「その会社から求められて」ではなく「この社会の一般原則として」求められるような倫理のことです。そんなものがあるのか!? 論じてる本があれば読みてえな〜〜〜〜と思ってたところで、本書『組織不正はいつも正しい』に出会いました。じゃあ読もうぜ!!!となった次第です。読みました。偉いな。
内容紹介
簡単な内容紹介です。本書の著者の中原翔氏は組織不正の研究者。本書の主要な問題は「組織不正はなぜなくならないか」というものになります。ちなみに組織不正とは、一個人ではなく組織ぐるみで行われる不正のことで、個人による不正よりも大きな社会的影響をもたらすとされています。
で、「なぜ組織不正はなくならないのか?」という問題を考える際に、一番シンプルな答えとして「自分だけ得をしようとした人間がいたから」「倫理観の欠如した人間がいたから」などが考えられます。いわば、正しい倫理観を備えていない人間が起こすものであって、倫理教育さえしっかりしていればそんなことは起こらない、という立場です。
本書は、こういったシンプルな立場は取りません。そうではなく、各自が「正しさ」を追求した結果として組織不正が起こるのだという立場を取ります。正しさを追求した結果ってどういうこと!?!?
本書でまず、不正のトライアングルというモデルが紹介されます。不正のトライアングルとは、「動機」「機会」「正当化」の3つが揃ったときに不正行為が発生するのだという考え方のことです。
DIAMONDオンライン:組織不正はいつも「正しい」ヤバイ社員が悪事を働くという大いなるカン違い より引用
例えば万引きを例とすると、「お金に困っていた」という"動機"があり、かつ「店員の目の死角」という"機会"があり、最後に「バレなきゃ何してもいい」という"正当化"が揃ったときに起こる......という感じですね。ゼル伝のトライフォースと同じです。ハイラル王に横取りされないように気をつけましょう。
しかし、著者はこのモデルの欠点を指摘していきます。まず、この3つが揃ったからといって必ず不正行為が発生するわけではありません。また、このモデルでは、「不正を働こうと企てた人物」がいることが前提となります。不正行為というものは、まず不正を行おうと考えるような悪人がいて、そこに「動機」「機会」「正当化」が揃うことで具体化するという考え方になるわけです。
著者は社会学者のドナルド・パルマーを引いてこれを批判します。曰く、「多くの人は不正に無関心なことが多く、不正をしようとも考えていない」とのこと。組織不正の多くは、誰か特定の「悪い人」が意図的に引き起こすものではなく、普通の「一般の人」が、無意識的に(不正を働くという意図を持たずに)行うものではないか....... というのが著者の問題意識です。一箇所引用。
ここまでの話でお気づきかもしれませんが、「不正のトライアングル」やこれまでの研究は、組織不正にはあらかじめ原因があり、それを取り除けば組織不正がなくなるといった楽観的な見方に立つものと言えます。......[中略]
しかし、現実はそれほど単純ではありません。これまでにも述べているように、多くの人が不正に手を染めたいとは考えていないにもかかわらず、不正が行われてしまうのです。さらに、多くの人が不正に無関心であるがゆえに組織不正の影響が計り知れないものとなってしまう傾向にあるのです。これは言わば、多くの人が無関心であるにもかかわらず、組織不正が起きてしまうという悲観的な見方になります。
中原 翔. 組織不正はいつも正しい~ソーシャル・アバランチを防ぐには~ (光文社新書) (p.26). 光文社. Kindle 版. 太字は引用者。
とはいえ、誰も不正を行おうと思っていないのに、なぜ不正が起きてしまうのか? というのが次の問題になります。そこで著者は、「各々が”正しさ”を追求した結果として、不正が起こってしまう」ということを主張します。
例えば、不正は大抵、組織の外部の人間によって判断されます。組織の内部では正しさを追求したつもりでも、外部から不正と判断されればそれは「不正」となります。もちろんこのケースでは、組織の内部の人々は「不正を働いてやろう」と思っていたわけではありません。むしろ正しいことをしていたつもりが不正と判断されてしまうわけです。これが1つ目のパターン。
もう一つ、組織の内部で正しさ同士が衝突した結果、不正へと発展することがあります。例えば、経営陣が会社を存続させるために、現場に厳しいノルマを課したとします。これは経営陣にとっては「正しい」判断と言えます。しかし、現場の人々は、会社を長続きさせることよりは、自分たちの生活を守ることを重視し、ノルマのごまかしなどを行うかもしれません。これも彼らにとってはある種「正しい」判断です。ただ、その正しさ同士がぶつかると、「不正」として発露してしまうケースがある...... というのを著者は紹介しています。これが2つ目のパターン。
本書では様々な現実の事例を通して、「なぜこのような組織不正が起こってしまったか」を見ていきます。燃費不正・会計不正・品質不正・軍事転用不正などなど。そうすると、不正の原因の多くは上記2パターンに見られることがわかってきます。最初に述べたように「倫理観の欠如した人がいて、そいつが悪事を働いたから不正が起きる」わけではありません。あくまで、意図的ではない形で不正が起こされてしまうのだ、というのが本書の主張の一つです。ので、「誰でも組織不正の当事者になりうるぞ」ということも繰り返し強調されています。
本書ではもう一つ、強く主張されていることがあります。それが「絶対的な正しさに固執するのはやめよう」ということです。正しくあろうとすることが不正の原因となるのなら、正しさばかりを追求するのは悪手です。ましてや、その正しさの基準を一つしか持っていなければ、他の正しさと抵触することが容易に想像できます。
ので、正しさの基準を一つにするのではなく、「複数の正しさがある」という見解を持つことが大事だ、と主張されます。例えば「俺の組織ではこれが絶対正しいとされているけれど、他所に行けば違うかもしれない」という見方をするなどなど。この辺は実際の事例などを用いて非常にわかりやすく説明されています。
結論としては、"正しさ"というのは移ろうものだから、閉じられた組織の中の正しさだけを信じるなよ!!! という感じでしょうか。本当はこのことが、もっと具体例をもってリアルに語られているので、それは是非本書を読んで体験してみてください。
読んだ感想
面白かったです。まず、文章が非常に読みやすく、事例も日本のものばかりでとっつきやすいので、あまりむずかしい感じがしませんでした。「あの組織でいかにして不正が起きたか」に迫るドキュメンタリー的な面もあるので、物語を読むような感覚でも読めます。かつ、自分の職場はどうだろうか......などと考えるきっかけにもなりました。
そんな無難な感想はいらねえからもっと突っ込んだことを書けという声が聞こえてきましたので、もう少し突っ込んだことを書きます。
正しさの複数性・流動性とは
組織において単一的=固定的な「正しさ」が維持されることは、時代や場所にそぐわない「正しさ」が組織において浸透し、それが世間や他の組織と大きく乖離することによって組織不正が生まれると言えるのです。
こうした事態を避けるためには、「正しさ」とはつねに複数的=流動的なものであると考えることだと言えます。(Kindle版 192-3頁)強調は引用者。
上で述べたように、本書では、特定の「正しさ」を唯一絶対のものとするのではなく、それが複数的・流動的であることを認めよう、という立場が取られます。もう一つ別の箇所から引用すると、「このような絶対的な「正しさ」には、さらなる「正しさ」を対抗させること(突き合わせること)でしか、食い止めることはできないように思います」(168頁)ということが言われます(バケモンにはバケモンをぶつけんだよ!)。
ただ、これを読んでいる法哲学徒の皆さんは、こう思うかもしれません。「いや、複数性が認められるのは善の構想の方であって、正しさとはその前提条件としての社会構想のことだから、正しさに複数性があるというのはおか思うわけないですよねすみませんでした。オタクモードに入ってすみません、、、
どういうことかというと、倫理学や法哲学をやっていると、正しさについて相対主義的な見方を取ることって基本ないんですよね。相対主義的な見方というのは、「〇〇は場所や環境によって異なるものであって、それら同士を比較したり優劣を付けることはできない」とするような見方のことです。正しさを例に取ると、「正しさは時代や文化によって異なるものだから、今正しいとされることも別の視点からすれば正しくないことになり、つまり正しさについて議論することは無意味である」といった立場となります。
一見もっともな意見のように見えますが、本当にそうか?? という感じでもあります。例えば、無力な子どもに一方的に暴力を振るうことや、無実の人を裁判で有罪にすることは、大抵の文化では「悪いこと」「正しくないこと」とされています。我々もこの悪さには同意できるはず。ただ相対主義の立場では、「それも別の面から見たら正しいかもしれないよね、間違ってるとは言えないよね」という感じで、正しさという概念を検討不能にしてしまっているので、正しい/正しくないについて議論することができなくなります。
ただ、複数性があるのはあくまで「何を正しいとみなすか」についての我々の考え方・信念の持ち方についてであり、「正しさ」という概念そのものに複数性があるわけではない、というのが私の思うところです。各人が正しいと信じていることが、そのまま「正しい」のではなく、それらの信念についても「正しい/正しくない」という判断は可能であり、思い込みや偏見、狭量な見方に囚われた「正しさ」についてはちゃんと「正しくないよ」と言っていかなければならない、と思っております。急に自信なくしてきた。よくわからなくなってまいりました。
少し別の話になりますが、僕は普段のお仕事では、特に調達の分野に関わっております(こういうことを書く度に本当に身バレが怖い)。そうすると、最もありがちな組織不正が「談合」です。談合というのは、本来はお互い競い合うべき企業が、裏で手を組んで価格とかを操作することですね。これを官公庁の側が手動する「官製談合」という地獄もあります。
で、談合は普通、不正として誹りを受けるのですが、中には談合を擁護する議論もあります。宮崎学『談合文化 日本を支えてきたもの』(祥伝社黄金文庫、2014)がそんな感じだったはず(全部は読んでないけど)。この立場で言われるのは、談合はある種「合理的」であり、日本社会は従来談合をベースに進めてきたのであって、欧州の市場主義原理がそれを破壊しに来ているが、実際は経営者がお互いを守るために談合をやったほうがうまくいくとか、そういう話です。うまく談合をすることが企業を、ひいては日本社会を守ることに繋がるのだ...... という意見は、今でも結構目にします。
本書『組織不正はいつも正しい』的には、これは仲間同士を守ろうとする企業の「正しさ」と、できるだけ費用を抑えようとする行政の「正しさ」の衝突と捉えられそうです。で、企業側が自らの正しさを追求した結果として、談合という不正が起こるということになるでしょうか。
ただ、企業側が(主観的には)正しさを追求していたとしても、これは実際には正しくないことをしているのであって、これをもって「正しさの複数性」という話になると、やや引っかかりを覚えます。主観的に正しいことと本当に正しいことは別であるというか.......
↑で書影を挙げた、武藤博己『入札改革』においても、次のようなことが書かれていました。すなわち、談合ではしばしば「企業の自己防衛」ということが主張されるが、そこには国民の税金を適正に使うという視点が全く入っていない。日本社会を守るためなどと言われるが、談合の当事者が言う”我々”の中には、税金を払っている国民のことが少しも考慮されていない、と。このように、ある種独りよがりな正しさのことを「正しさ」と呼んでよいのか? とか、「正しい」と言っているけど実は間違ったことを追求しているのではないか? という視点は、個人的には結構気になるところです。
もし正しさは複数的・流動的であると言うと、どうしても「それは間違っている」「そもそも正しくない」という議論がしにくくなりそうで、そこが気になるところでした。とはいえ、「みんながみんな不正を働こうと思ってやっているわけではない」という指摘は非常に重要と思うので、そこの言い回しが難しいですね。
仕事に保身を持ち込んでよいのか
もう少し続けます。
この読書感想シリーズ、唐突に関係のない漫画の話をしがちですが、今日もします。
僕がここ最近読んだ漫画の中で、特に良かったものの一つに「医龍」があります。メディカルドラゴン!! しかしこの漫画は、医龍本人というよりは「医龍と称されるほどの天才の周りにいる普通の人達」の物語なんだよなあという話はどうでもよいので置いといて.......
さてさて、前にもブログで書いた記憶がありますが、医龍のテーマの一つに「手術室に保身を持ち込むな」というのがあります。これは例えば、瀕死の患者がいて、自分がマニュアル通りの手術を行えば100%死んでしまうが、医局のルールを無視して、未承認の術式を用いれば生存率が10%は上がる......という状況を想定してみてください。この術式を用いたところで助からない可能性のほうが高く、しかもルールを破ったということで自分の地位を危うくする行為でもあります。手術が成功したとしても失脚は免れ得ないかもしれません。医龍に出てくる普通の医者は、まずマニュアル通りの手術を選びます。
しかしこのとき、主人公の朝田は未承認の術式を用います。朝田は患者ファーストな人間なので、自分の手術に保身の考えを持ち込みません。どれだけ自分の立場を悪くしても、患者の命を救うことを何よりも重視しています。で、そのあまりに一途な姿勢に影響される者もいれば、いやいや大学の医局というのはそんなに甘い場所じゃないぞ.......ということで話が進むのが医龍という漫画です。第1巻はあんまりおもしろくないけど、3巻ぐらいから後半に行くほど面白いぞ!!!
で、医龍を読んでいて思うのは、医者に限らず、仕事には大抵「顧客」がいて、我々は顧客にサービスを提供することを仕事としているということです。まあ当たり前のことなんですが、、、
ただ時には、単にサービスを提供することを超えて、顧客自身の生活を左右するような瞬間もあるかと思います。「患者の命を救う/失う」ほどではないにせよ、我々は何かしら、仕事というものを通じて、顧客の生活に大きな影響を与えることがあるはずです。役所の仕事とかは思い浮かべやすいですね。職員が生活保護審査をてきとーにやってしまうと、それで本当に人生が変わる人が出かねないわけです。
また、カスタマーとサプライヤーでは、情報量などで力関係に大きな差があるとも思います(大抵はサプライヤーの側が強いはず)。ので、パワーの非対称性ということを考慮しても、「仕事においては、できるだけ顧客の身に立って真摯に対応すべし」というのは、一つ倫理原則として主張できるのではないかな〜〜と感じています。最近あんまこういうこと言う人見かけないけども。
で、巷の仕事論などを読むとですね、思想の左右を問わず、その理論の中心に自分を置きたがる人が多いなーと感じています。「自分が競争で生き抜くために仕事で成長しよう」とか、「自分らしい余暇の時間を確保できるようにほどほどに働こう」とか、そういう仕事論です。
ただ僕は、もっと医龍のごとく、「顧客ファースト」の仕事論もあってよいかと思っています。自分がどうあるかではなく、相手に対して何ができるかという仕事論ですね。そして、それが職業倫理というものに関わってくるのではないかなーどうかなーと思ってます。この立場だと民間企業は全部NPOになっちゃうでしょうか? どうなんでしょう?
で、今一度本書『組織不正はいつも正しい』に戻ると、本書の事例でも、正しさがぶつかるところではしばしば保身的な態度が見られました。自分の言ったことに引っ込みがつかなくなって相手を追い込んだとか、そういうものです(軍事転用不正の事例がそうですね)。力関係の偏りなども話しましたが、多くの場合、既に強い側にいるサプライヤーが保身に走ってしまうと、大抵誰か弱い者が苦しい思いをしていまうはずです。そんなわけで、一職業人として、「できるだけ相手の身に立つ」というのは倫理的に求められることかなと思いました。
「仕事に保身を持ち込まない」というのは、僕が医龍から学んだ大切な原則の一つです。あと「人を馬鹿にしすぎるとエレベーターでボコボコに殴られる」ということも医龍を読んで学びました。みなさんも是非医龍読んでください。「夏目アラタの結婚」もバリ面白いよ!!!!
以上
以上、『組織不正はいつも正しい』の感想でした。サクっと書くつもりが結局長くなってしまった。いつも熱い気持ちが溢れがちなんだよな。
途中でも書いたけど、非常に読みやすい一冊であるし、また「組織不正は誰もが当事者になりうるもの」なので、みなさんも是非読んでみてください。
次回は、男性の性機能障害についての本を扱うかもしれません(マジ!?)。今回が7回目の読書感想ですが、年内に#12まで行くことが目標です。行けるのか、、、? がんばりますので次回も乞うご期待です。
読書感想の投稿です。年内に#12まで行くことが目標ですが、果たしていけるのか。
— あいだた (@dadadada_tatata) October 31, 2024
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