浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

死者が持つ権利とは?:<シリーズ 法哲学覚え書き①>

ども!! すっかり気温が高くなり、ようやく春を迎えたという感じがするこの頃です。ちなみに京都の話です。僕の地元の雪国はまだまだ寒いっぽい。ウケる。

 

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↑道端でひなたぼっこする鳩たち

 

この度、タイトルの通り、<シリーズ 法哲学覚え書き>というのを始めたいと思っています。その詳細は最後に書くとして...... 簡単に言えば、「法哲学」っぽい問題を、さわりだけちょい紹介する、ということをやりたいなという感じ。なぜそんなことを、というのはまた最後に触れます。

で、近況報告になりますが、この間、元指導教員の先生の蔵書整理会がありました。一応前にも書いたけれど、僕が院に入った当時の指導教員の先生は、昨年病気で亡くなられており、今僕は違う先生のもとについています(そして来年度はまた違う先生のところに行く)。で、亡くなられた先生が研究で使われていた本を、我々学生が譲り受けられることになり、僕も興味のある分野の本をたくさんいただいてきました。

蔵書を一つ一つ見ていく中で、先生はこの分野にも関心があったのだなとか、改めて、自分が故人についてほとんど何も知らなかったということを実感しました。もっと色々話せればよかったと、本当に感じています。

 

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↑いただいた分。積んだ。数えたら全部で47冊あった。

 

さすがに貰いすぎか??

 

で、まあ、本当にいいんだろうか? という気持ちも割とあります。普通に47冊は強欲すぎる気がするし(勿論欲しい本だけ取った結果ではあるのだが)、それに自分は院から当該研究室に来たので、そこまで先生と親密だったわけではないというのもあり。むしろコロナの中で入学してきたかと思えば、アレがないコレがない研究室を早くくれと不満を述べ、どちらかというと迷惑ばかりかけていたのではないかと思います。

そうすると、生前は迷惑をかけることの方が多く、そして死後にこうして好きなだけ本をかっさらっていくという強欲ムーブは、道徳的にどうなんだ? という気持ちがなきにしもあらず。僕なんかよりも、これら蔵書を譲り受けるべき人間がいるのではないか。その方が、先生の意向にも適っているのではないか。とはいえ逆に、自分も一応、この研究室の所属学生の端くれではあったわけで、他の人に優先して蔵書を譲り受ける権利はあるのだと、そういうことが言えなくもないような気もします。どうなんでしょうね。

 

で、少し話は変わるけど、これだけの本を「自由に持って帰っていい」となったときに、悪しき心を持つ人間が思いつくのは、これ古本屋とかで売り捌けば結構な値段になるぞということだと思います。そういう行為の道徳性もどうなんだろうなあと、この日以来考えています。勿論そんなことはしないけれど、でもやろうと思えばできてしまうわけで、法的にも所有権は移っているはずなので、基本的にそれをどう処分しようが自由とも言えるはず。ただ、法的にはそうでも、道徳的にはそうじゃないような気もしています。そういった、遺産の処分の道徳的問題ってどうなってるんだろうなあ、とこの頃考えている次第です。

あと、僕は本を売りはしないけれど、加工することは結構あります。まず帯は必ず捨てる。絶対に捨てる。そして表紙のカバーを紙用ボンドで貼り付けておく(ペラペラめくれるのが嫌だから)。最近は「自宅図書館」なるものを作ろうと思っていて、各本に分類シールを貼って、図書館の如く管理しようかなあとか考えています。あと「これは俺の本だぞ」てのを示す「蔵書印」も買っちゃおうかなどうしようかなと迷ったり。

で、自分で買った本はともかく、人から譲り受けた本にそういう加工を施しちゃっていいのかなあと考えたりしてます。先生から譲り受けた本を見ると、帯とかがしっかり残されていて、個人的には即捨てたいけれど、そういうことをしてもいいのだろうかとか。本の所有権は僕に移っているわけだし、「好きにすればいいよ」という話かもしれないけれど、それはそれで故人の意志や意向を無視しているようで、何かためらわれるものがあるという話です。でも帯は捨てたいし、カバーもボンドで固定したいんだよな〜〜〜〜「俺図書館」も作りたいし、、、

 

死者が持つ権利とは

前置きが長くなったけれど、ここからが本題。

で、今回は死者が持つ権利って何でしょう? という話。死んだ者・この世にいない者というのは、何か法的・道徳的配慮に値する存在なのだろうか。普通なら、死者はもう現世にいないので、「この世界にいない人間に権利も何もないだろ」とは言えるはず。とはいえ、ではあなたが亡くなったときに、あなたが授業中に書いていたポエムやオリジナル小説、あるいは渡すことのできなかったラブレターを全世界に公開してもよいですか? と聞かれれば、多くの人が「マジで絶対にやめろ」とか、「たとえ故人であっても、むやみにプライバシーを侵害されない権利は持っている」とかと答えるはず。他にも「白髭は時代の敗北者じゃけぇ....」とかの悪口・風評についても、「故人にも、むやみに名誉を毀損されない権利はある」と言いたくなるのではなかろうか(乗るなエース!!)。

 

ちなみに、死後にラブレター公開というのは完全な架空の事例ではなくて実例もある。脚本家・エッセイストの向田邦子は、事故で亡くなった後、その日記や恋文が妹によって公表&出版されていたりする(「向田邦子の恋文」)。もちろんこの本はプライバシー等にちゃんと限配慮したものと思うが、それでも「よいのか?」という意見は実際ちょくちょくあり。その辺の「公表する・しない」は、現状は身近な家族の判断が大きく関わっているはず。

他にも、死者の遺志の尊重という意味では、相続の問題もあり。故人の資産をどう処理するべきかという問題はいつも紛争の火種を生んでいる。特に、ここに遺言が絡んでくる場合。なぜ遺言(死んだ者の言葉)が守られなければならないのか、というのは、一つ論点となってくる。故人の残した言葉が、現に生きている人たちにとって全く理解不能なものである場合など、大抵もめ事に発展してしまう。土曜昼のサスペンスとかそういうストーリー多いし、そうじゃなくても、この前とあるジャンプ漫画でも「遺言」をきっかけに一騒動ありましたね。次期当主をどう決めるかとかで、死者の残した意向に生者が全く納得できないときに、「なぜ、この世にいない人間の意志を尊重しなければならないのか」というのは、一つ問題となってくると思う。

 

f:id:betweeeen:20220315011002p:plainなぜ遺言を守らなきゃいけないかって? そんなの法律で決まってるからでしょ? それじゃダメなの?



f:id:betweeeen:20220220222527p:plainありがとう! 初登場の「質問出す男くん」!!  質問感謝!!
逆に言えば、なぜ法律はそのように定めているのかな? 加えて、もしそういう法律が存在していなければ、我々は死者の遺志を全く尊重しなくてもよい、ということになるのかな? どうかな? そこを深ーーーーく考えていくのが、法哲学の仕事だと言えるね! たぶん。少なくともわしはそう思う。


他にも、遺言が全く馬鹿げたものであるときにどうするか、という問題もあり。基本的に故人の意志は尊重しなければならないと言っても、それが従うに値しないようなもの、全く馬鹿げたものであるときもあるはず。例えば「私の死後、10億円分の遺産は、全部重しをつけて東京湾に沈め、魚たちの餌にしてくれ」との遺言は、さすがに従わなくてもいい気はしてくる。事情にもよるかも知れないけど。

 

www.akitashoten.co.jp

 

ちなみにこれと似た話は、手塚治虫ブラックジャック」の灰とダイヤモンドという話でも出てくる。読んだことのある人も多いかも。

この話、人間不信の金持ち老人が、死ぬ前に自分の全財産(ダイヤモンド)を身体に埋め込む手術をBJに頼んでいる。その心は、「誰にも遺産を奪われたくないので、自分と一緒に火葬しようと思う」というもの。ただ、そのもくろみを馬鹿馬鹿しいと思ったBJは、ダイヤをすべて回収し、そのお金で老人ホームの支援を行う。当の金持ちはそのことに気付かぬまま死んでいきそうなのだが、このときのBJの行為は道徳的にどうなのか? ということは問いうるはず。「たとえ馬鹿げた願望でも、本人の資産なんだし、その意向を尊重するべきだった」とも言えるし、「いや、死んだら無にしかならないんだから、それは生きている人間の役にこそ立てるべき」とも言えるはず。この話は正確には「遺言」とか「死者の権利」の問題ではないかもしれないが(生きている内の話なので)、でも「この世にいない(いなくなる)人間の願望をどこまで尊重すべきか」ということには繋がるはず。

こういう問題、どう考えるべきかという話ですね。

 

死者の権利が問題になる状況

ちなみに、こういう「死者の権利」が問題になる状況、どんなものがあるかというと、パッと調べた感じだいたい次の5つがある。一応並べてみる。

 

① プライバシー

…故人のプライバシーは守られるべきか。故人は、生前のあれこれを死後に探られない・公表されない権利を持つか。厳密には死者であるため「権利を持つ」という言い方は馴染まないかもしれないが、ともかく、そのような配慮に値するのか。

 

名誉毀損・侮辱

…故人の名誉は守られるべきか。故人の名誉を貶す行為に対して、法や社会はどのように対応すべきか(刑法で罰すべきか? など)。

 

③ 相続・遺言

…故人の遺言は守られるべきか。いない者の言葉など無視して、残された者で協議して遺産を分け合うではダメなのか。

 

著作権

…故人の著作物は守られるべきか。日本では現状死後70年まで著作権が有効とされるが、なぜ逝去から70年も著作権は守られ、逆に言えば、なぜ70年経つと消えてしまうのか。

 

⑤ 身体

…故人の身体は守られるべきか。その者の生前の同意無しに、臓器提供や解剖実験に回してもよいか。あるいは、死体を切り刻んで遊ぶことなどはなぜ許されないか。一応日本の刑法でも、190条で「死体損壊罪」(死体を損壊しちゃダメだよ)ということが定められているが、この法律は何を守っているのか。

 

死者の人権の保護に関する質問主意書

↑こちらなど参照。

 

ちなみにこれらの問題は、死後の身体・財産・評判の問題としてまとめられるっぽい。①②が「評判」で、③④が「財産」、⑤が「身体」になるかな。著作権はもしかしたら「評判」の問題でもあるかもしれないけど。

 

結局、死者は権利を持つのか?

で、結局こうした「身体」「財産」「評判」の問題に、死者は「権利」を持つのだろうかという話。あるいは、故人の遺志はどこまで配慮に値するものなのか問題。

これ、法哲学っぽい話題だし、調べたらたくさん出てくるかと思ったけど、思ったより出てきませんでした。英語で検索すれば出てくるのかな? 日本語でも1つ2つは見つけられたので、その簡単な紹介をしておきたいと思います。

 

瀧川裕英編『問いかける法哲学』(法律文化社、2016)収録、
 森村進「相続制度は廃止すべきか」(第8章)

一つ目は森村先生が書いている「相続制度廃止」についての議論。相続制度の廃止というのは、「相続の際に、一切税金を課しません、遺族に100%を相続させます」という話ではなく、むしろ逆で、「遺産は遺族に相続させません。100%国庫として預かった上で、土地であれば競売にかけるなり、公正に再分配します」というもの。相続制度を廃止するというよりは、むしろ相続税を100%かけちゃいましょうという話になる。

なぜ相続制度の廃止を目論むのかいえば、これには2つの根拠があって、一つは、相続制度は「不平等だ」というもの。我々、社会の中で精一杯働き、頑張ってお金を稼いでいるというのに、「親から貰った」「偶然祖父が富豪だった」という理由で大金持ちになる人間がいては、確かに不公平な気もする。「親がすごいってだけで、金持ちになるのはどうなの?」という話。基本的に、富や財産は当人の「努力」によって得られるべきものであり、また相続制度は、金持ちの家系をさらに金持ちにし、貧富の差が固定化されるという意味でもよくない、ということが言われる。で、それなら、相続分は国が全部預かって、貧しい者に配るなど、平等を実現していった方が良くないかという話になる。

もうひとつ、相続制度に反対する理由があり、2つ目は死者に財産権は認められないというもの。これはまあシンプルで、「死者は所有権を持たないから相続させる権利を持たない」(p146)と説明されている。アダム・スミスやトマス・ペインなどがこの点を論じていたそうで、彼らは17世紀の段階から「死者が所有権を持つという発想は相当怪しい」と指摘していたようである。ただ、今の日本の社会では、「生存時点での所有権が、死後にも延長され続ける」的な発想があるようで、この考えはそこまで一般化していないとのこと。

で、著者の森村先生は、一つ目の「平等」を根拠とした議論に懐疑的であり、二つ目の「死者に権利無し」の議論の方に賛同を示している。一つ目については、そもそも経済的不平等を生んでいるのは相続制度だけではないし、あと政府がそこまでの格差解消の義務を負うのかは疑問であるとのこと。引用すると、「政府がなくさなければならないものは、相対的な経済格差ではなくて絶対的な貧困である」(p144)というのがここでの森村先生の見解となっている。

その上で、森村先生は「そもそも死者に権利無し」「ゆえに”相続させる”権利も無し」という議論の方を推す。その部分をちょっと長いけれど、引用しておこう。

.....相続させる権利はこの意味での人権としての所有権には含まれない。なぜなら、自然権や人権がなぜ認められるかというと、それはその権利主体がそれぞれの意志と目的を持つ行為主体だからだ。あるいはそこまでいかなくても、少なくとも喜びや苦しみや痛みを感じることができるからだ(もし後者のように考えるならば、多くの動物も自然権を持ちうることになるから、「人権」という表現は適切ではないだろう)すると死者はこれらの要件を満たさないのだから自然権あるいは人権の主体たりえない自然権としての所有権は死亡と同時に消滅するのである。(p148、強調は引用者)

このあたりの、「権利を持つのは、意志や目的を持つ者に限られる」というのは、動物倫理でもよく出てくる話で(引用部分でも言及されているけど)、それを持たない以上、死者に「権利」は認められないということになる。

のだが、そうするとでは、遺言とかは一切守られなくていいの? 本当にいいの? という話になりそうである。ただ、そこで直ちに、「遺言は一切守られなくてよい」ということにはしていない。こうした制度が論理的に不可能だとか、全く正当化できないということまでは言わないのである。

ここでの趣旨は、あくまでそれが守られるべき根拠が、「故人の権利(自然権)」ではなく、「死者への敬意」になるよという話。「権利」と言うと、かなり強固で不可侵なものに感じられてしまうが、「敬意」であれば、考慮に値するとかそのレベルの話になる。森村先生は「故人の遺志は遺産に対する遺族の関係と同様に相続制度において考慮してよい事情の1つだが、決してそれ以上のものではない(p149、強調は引用者)ということを、この問題の結論として述べている。そして、財産を遺族に相続させる代わりに国が預かったときに、そのことでどれだけ国庫を補充できるかだとか、あとは「死後、家族に遺産を残せない」という状況が、生者の生産活動のモチベにどれだけ影響を与えるかなどを加味すべき、ということも示している。

とはいえ結局、「死んだ者に権利(所有権)はないよ」という結論がここでは出されている。

 

② J. ファインバーグ著(島津格・飯田亘之 編集・監訳)『倫理学と法学の架橋 —ファインバーグ論文集』(東信堂、2018)
同著「動物の権利とまだ生まれていない世代の権利」(第12章)

もうひとつは、ジョエル・ファインバーグ論文集の12章「動物の権利とまだ生まれていない世代の権利」における言及。ファインバーグはアメリカの法哲学者で、かなり実証主義的なことをしていた人だが、日本だと邦訳が少ないのもあり、あんま紹介されていない。でも大事だと思う。

で、この12章の前後の章では、「そもそも権利って何だろうね」「”道徳的権利”ってものが大事なんすよ」という話をしており、12章ではそのより具体的な問題として、動物やその他の存在に焦点が当てられている。具体的にここで挙がっているのは、「動物個体」「植物」「種全体」「死者たち」「植物人間」「胎児」「将来世代」の7つ。これらが権利を持つのかどうかという話。めっちゃ法哲学やなあと思う。

ちなみに、ここで「動物個体」が挙がっているけれど、ファインバーグは動物権利の擁護者でもある。その話はいつかするとして、今回は本章第5節の「死者たち」に着目。ここで死者は権利を持つのか? という話がされている。

これについてファインバーグは、最終的には「権利」っぽいものは認められるよ、という話をしているように読める。彼は「権利」を「利益」(原語はinterest)との関連で論じているようで、ちょっと断定はしきれないが、「利益」を守ることに「権利」の意義があると見ていた様子。つまり、死者にも何らかの「利益」が認められるならば、それは権利として守られるべき、ということになりそう。

では、「利益」を守るということはどういうことなのか? ここでファインバーグは、「悪評」の話を出している。例えば、死んだ後に悪評を広められた場合などは、故人の「感情」が傷つくことはない。だってもうこの世にいないので。ただ、悪評が広められることで、その者の「利益」は害される、とファインバーグは論じる。なぜかといえば、私たちは、よい評判を持つこと自体に利益を持っているからである(p346)

で、この「利益」は当人が生前から持っているものであるが、それが死後にまで一定の射程を持つ、というのがファインバーグの見解らしい。ちょっと引用すると、「死者は感情を傷つけられることはできないが、だからといってそこから、彼が値するよりも悪く思われないことに対する彼の請求権が、死後も生き残ることはできないことが導かれるわけではない」(p347)とのこと(難しいね)。「請求権」という言葉が出てきたが、ファインバーグはこの前の章で、権利を「請求する」という行為と結びつけて論じており(第8章)、その辺の理解もここでは大事な様子。

かなり雑な紹介になったけれど、ここで言いたいのは、ファインバーグは、「利益」という観点から、死者が権利を持つことも一部説明可能と見ているように思われる、ということです。

森村先生は「死者は権利持たんやろ」というのをもっと直接的に言っていたけれど、ファインバーグは「利益」という観点から、これを積極的に捉えていた様子。とはいえ、森村論文が相続(財産)に焦点を当てていたのに対し、ファインバーグは身体と評判に力点を置いていたので、そこで「権利」の概念が多少違うというのは、あるかもしれない。わからん。

 

 

まとめ

とりあえず今回紹介したかったのは以下のことです。すなわち、「死者の権利」にまつわる問題では、身体・財産・評判の3つのレベルがあり(ちなみにこれはファインバーグ論文p344を参照)、そこでは「死者が権利を持つことはないよ、だって死者だもん」という立場があれば、「いや、”利益”という観点から、権利も一応は説明できそう」という立場もあるよ、ということです。ちなみに死者の権利を否定する立場でも、生者が持つ彼らへの「畏敬の念」が配慮に値することは認めております。

補足すると、両方の論文で、死者の権利に纏わる問題は、彼らの権利を守ると言うより、「生者の利益」を守ると言う方がしっくりくるのではないか、という話はされていました。「現に生きている者たちのモチベに関わるから、死後のことでも約束はしっかり守るべき」という話。これはわかりやすい。

例えば森村論文では、

被相続人の遺志を尊重することが、現に生きている人々——〔中略〕——の期待を確保し、彼らを安心させるならば、相続制度には人々の欲求の実現という功利主義的な理由があると言える(p148、下線引用者)

といった形で、「功利主義的な理由」として説明されている。

で、まあ当然、「自分が死んだら財産も身体も評判も一切どうなるかわかんねえ怖い」という状態よりも、生前に決めたことがしっかり守られている社会の方が、色々安定はするだろうし望ましいと思う。そんなわけで、「故人の権利云々よりも、生きている者への様々なプラス効果」に言及した方が、この辺は説明しやすいというのは言えそうです。

ただそうすると、「誰にもバレないようにこっそりと、死者の遺志を無下にする行為」について、その道徳的善悪はどうなんだろう、という疑問は残る。例えば僕が、今回譲り受けた本をメルカリで大量転売するかどうか悩んだときに、「ま、バレないようにやりゃ問題ないか!」となってしまっては、ちょっと問題なのではないかと思う。やっぱりそこには、死者への敬意だとか、あるいは故人の「利益」への配慮だとか、そういったものを組み込んだ議論が必要なのではなかろうか、と感じる。

そんなわけで、ただ単に、「死者の意志を蔑ろにすることは、現に生きている者たちのモチベに関わる」とするのみではなくて、「死者それ自体が、我々今生きている者に負わせる義務は何なのか?」とかを問うことも、大事なんじゃないかなという感じです。

「死者の権利」についての問題、さっきも書いたけど、思った以上に日本では論じられていないようで、ちょっと驚いたというのがあります。検索の仕方が悪いのかも知れないけど、これを主題とした論文とか意外とないんだな〜〜〜と感じた次第。ので、誰かやってくれ。もう少し突っ込んで、誰か色々書いてくれ。いやもう書かれているのか? じゃあそれを紹介してくれ。僕は読むから、、、、、

 

 

 

以上

ちなみに、途中で紹介したファインバーグの本ですが、

 

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これも実は、先生の蔵書から譲り受けた本の一冊です。前から欲しかったが、お値段がかなりするので買えていなかった。今回もらえたのは僥倖であった。

そんなわけで、強欲にたくさんの蔵書をいただいたこともあり、今後は<シリーズ  法哲学覚え書き>的なことをやっていきたいと思っています。今回扱った『問いかける法哲学』のように、簡単に法哲学的な話題を紹介したりなど。これは決して、タイトルに「法哲学」を入れておけばアクセス数が稼ぎやすいことに気付ちゃったという邪な気持ちではなく(違いますよ)、あくまで今回受け取った本たちを最大限活用するためにも、今年はそういった企画をやっていきたいと思った次第です。一応もう修士も出ちゃったし、自分の「研究」的なものもなくなっちゃったしね(多少は続けるけど)。

そんな感じです。

死者は「権利」の名に値するものを持つのか、道徳的配慮に値するのか、ブラックジャックの行いは正しいものだったのか、某呪術の名家がああなってしまったのは誰のせいなのか....... そういうことを皆で議論していきましょう。

 

 

 

 

 

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