浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

額に入れて飾っておきたいミル様のお言葉:J.S.ミル『自由論』読みました

こんばんは。

もうすぐ5月が終わるらしいですね。はやすぎて早修(林修)だわというしょうもねえギャグまで思い浮かびました。

 

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今回は読書感想回でっっっす。

前回も取り上げた、ジョン・ストゥアート・ミル『自由論』(2020,関口訳、岩波書店)を読み終えました。この本、法哲学で「自由」を語るには、ほぼ外せない必読書となってます(同じ必読書として、アイザイア・バーリン『自由論』などもある。同じタイトルつけるなと言いたい)

ちなみに上の画像、表紙がだいぶ汚れていますが、これは土砂降りの中をカバン濡らしながら帰ったせいです。なんかグッショリになってしまった。他にも、今使っているMacBookも、ぞうきんみたいな異臭がする。これも濡れカバンの中で放置したせいです。異臭を放つMacBook Proとか新ジャンルを開拓した気がする。

 

そんなことはどうでもいいですよね。

 

本の感想

自由論 (岩波文庫)

自由論 (岩波文庫)

  • 作者:ミル,J.S.
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: 文庫
 

これ、個人的にめちゃくちゃ良かったです。本当に読んでよかったす。もし学部時代に読んでいたら、「学生時代に最も影響を受けた本ランキング」のトップ5には入ってたはず(もうあと10ヶ月で学生生活終わるので、今更そんなことはしませんが.....)

というわけで、本日はこの『自由論』の魅力をご紹介。本書がどんなことを言っていて、どんなところが面白かったかなど。僕はこの本を読んで、「ほんとうに、ミルさん、ほんとうにそのとおりなんですよ!!」と激しく同意できる部分が多かった。同意しすぎて、ページを切り抜いて額に入れて飾っておきたいほどである。というわけで今回のタイトルは、「額に入れて飾っておきたいミルのお言葉」ということに。

何がそんなに面白かったの? という点を、まあ気ままに書いていきます。簡単に本書の流れを紹介したあとで、特に良かった点をピックアップする感じで。あんま長くなりすぎない程度にやっていこうと思います。

→めちゃくちゃ長くなりました。

 

ミルの『自由論』とは 

著者のJ.S.ミルは、1806年生まれの哲学者。高校で倫理・政経をやっていれば、名前ぐらいは知っているかもしれない(僕は取ってなかったのでわからん)。ミルのお父さんは、かの有名なジェレミーベンサムのお友達で、彼もベンサム功利主義の教えの影響を受けながら育ったらしい。この本の原書が出版されたのは1859年で、だいたい150年前のことである。

この本が2世紀近く前に出されたものだというのが重要。もはや古典の領域で、今更読んで得られるものがあるかといえば、むしろ大いにある。現代でこそ読まれるべき本だと思う。まあ古典とは得てしてそういうものなんだけれど。ただ、昨年に新訳が出ているあたり、他の古典以上に現代的価値があるのかもしれない(わからん)。

 

内容紹介、危害原理など

で、その内容はというと、『自由論』のタイトル通り、「自由」について論じたものである。自由について論じたと言っても、「”自由”とはそもそも何なのか......」という、古典的な問いを扱ったものではない。本書はそうした概念的な疑問に答えるものではなく、もう少し実際的な問いを扱ったものである。それすなわち、「社会が個人の自由を制限し得るのは、いかなる場合であるのか」というものである。

我々、「人間にとって自由が大事」ということは、かなりの程度認めている。自由はそんなに価値あるものかと疑う人はほとんどいないし、いるにしてもかなり少数派である。多くの人は自由を大事なものとみなしていて、それはミルの時代にとっても同様であった。

ただ、彼の時代、自由が人間にとって価値あるものだとしても、それがどこまで認められるべきかという点については、あまり議論がされていなかった。個人の自由を際限なく認めてしまうと、なにか社会的な混乱が起きそうである。それゆえ、どこまでが個人の自由の領域であって、どこから先が、それら自由を制限しても許されるかを定めなければならない。

個人の自由が大事と言っても、あらゆる行いが社会的に許容されるべきかというと、そうではないという話。例えば、「放火をする自由」などは、諸個人の自由として認められないはずである。窃盗や殺人の自由なども然り。こうした行いは、社会の側が法律などで禁止することが正しいだろうし、もしこれらを行ったものがいれば、刑務所に収容しても許されるだろう。

とはいえ、判断が微妙になる例もある。「昼間から酒を飲んで酩酊する自由」などはどうだろうか。これを認めてもいいものだろうか。あるいは、児童・未成年者に対して、「労働の自由」「婚姻の自由」などを認めても良いだろうか。

もう少し現代的な文脈で言えば、「喫煙の自由」などがある。昔の日本では、職場で上司が隣のデスクでたばこをふかしていても、それを制止する権利は認められていなかったらしい。「嫌ならその職場を辞めろ」とさえ言われたぐらいで、たばこを吸う自由は、今よりもかなりの地位を持って認められていたのである。が、今となっては、喫煙の自由はかなり制限されている。ほとんどの公的機関が禁煙になっているし、分煙体制も年々厳しくなっている。そんなわけで、どこまでが当人の自由であって、どこからが社会的な規制の対象となるかは、そんなに自明ではないし、時代とともに移り変わってもいる。

 

 ↑児玉聡編(2020)『タバコ吸ってもいいですか』信山社。最近読んでめっちゃ面白かった。

 

では、どのような行為が「個人の自由」の領域に属して、どのような行為が、社会的規制の対象としてふさわしいだろうか。それを考えましょうという話。ミルはその判断基準として、統一的な原則を持ち込もうとした。というのも、もしそうした原則(一定の判断基準)が存在しなかったら、人々は単なる「好き嫌い」で、規制の対象を決定しかねない。例えば、俺はたばこが許せねえから処罰してやろうとか、逆に、俺は喫煙者だから処罰はやめとこうとか。そうした、大衆の「感情」(共感と反感)によって人々の自由が左右されることを、ミルは何よりも嫌っていた。感情などのよくわからないものではなくて、もっと統一的なルールや原則に基づいて、社会的規制の可否は論じられるべきだと考えていたのである。

で、そこで彼が出した原則というのが、俗に言う「危害原理 harm principle」というものである。他者危害原則とか、自由の原理とか、いろんな名前がついてるけど、ひとまず危害原理ということで。これは要するに、社会が個人の自由を制限してもよいと言えるのは、その行為が他者の自由を侵害するものである場合のみであるとしたものであった。そうではない場合、すなわち誰にも危害を及ぼさないような行為については、社会は規制の対象とすべきではない。放火や殺人の自由を認めてはならないのは、それらが他者に危害を及ぼすからである。逆に言えば、「昼間っから酒を飲んで酩酊する」ことなどは、誰にも迷惑をかけていない限り、それは全く当人の自由である。その者が暴力沙汰を起こしたりすれば別だが、そうでなければ、社会は法を用いてその者が酒を飲まないよう強制してはならないし、世論によっても制裁を加えるべきでもない。当人がそれを望んでいて、かつ誰にも迷惑がかかっていないなら、それはもうそのままにしておくのが一番なのである

 


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小難しく書いたけど、この辺はさくらももこの漫画に出てくる「コジコジ」のような発想だと思ってくれればよいと思う。「盗みや殺しやサギなんかしてないよ 遊んで食べて寝てるだけだよ 何が悪いの」という、よく画像だけポンと置かれるあれである。

僕は原作を読んでないのであんま言えんが、もしミルがこのコジコジ発言を目にすれば、こういったと思う。「何も悪くないよ。社会は法によっても世論によっても君の行動を変えさせられない。それこそが危害原理だよ」と(たぶん)。これこそがまさに、社会の秩序と個人の自由の間にミルが引いた線引きであった。*1

 

gendai.ismedia.jp

ちなみに「危害原理」については、↑でまとまるくん並みにまとまっている。もっとちゃんと教えてくれよ欲をどうにも抑えられないという人は読んで見るべし。

 

思想と討論の自由

で、ここまでが前置きになります(毎度前置きが長い)。

一応、上で書いたことがだいたい本書の「序章」に該当している。ここまででも面白いのだけれど、個人的には第二章「思想と討論の自由」が非常に刺激的であった。

上述のように、ミルは誰にも危害を及ぼさない行為については、社会(法や世論)は規制すべきではないとしている。なぜかといえば、自分の幸福は当人が一番分かっているだろうので、社会の側が「昼間っから酒を飲むべきではない」などとするのは、そもそも野暮だからである。これが一つ。

そしてもう一つ、社会の側が「こうしなさい」と規則を押しつけることによって、当人の個性が死んでしまうことを恐れたというのがある。もしかしたら、社会の側が「異常者」と診断して、行動を規制しようとする人物は、後に大成する天才であるかもしれない。そして天才であるならば、その個性を殺すことは、社会全体にとって損失であるし、その才能を開花させることは、社会全体にとっても有益となる。そうした全体へのプラスを考えて、ミルは各人の自由を守るべしと言っているのである。

ここは重要と思うので繰り返すと、ミルは個人の自由を価値あるものとしているが、それはあくまで、個人の自由が守られた方が、当人のみならず社会にとっても益がある、と考えていたためである。「”自由”というのはそれ自体価値があるから」としていたわけではない。誰にも迷惑をかけない行いをする自由があるのは、各自が自由放任に生きる権利を持っているから(だけ)ではなく、それを認めていた方が、社会全体にとってプラスに働くためである。

で、こちらの2章の議論では、その考えが結構如実に表れている。ミルはこの章「思想と討論の自由」で、良心や言論の自由、討論の自由といったものを擁護する。思想の自由とはざっくり言えば、「自分の考えを自由に発信できること」を指している。かつての社会であれば、国王や政権を批判する文書を出せば、政治犯として取り締まられたりした。現代ではそこまで行かなくても、何か社会の主流の考えに反対しただけで、異常者だなんだと、世論から弾圧を受けることもある。が、ミルはそういうのに断固反対である。ミルの力強いお言葉を借りれば、「人々が自由に意見を持ち、自分の意見を包み隠さず表明できることは、絶対に必要である(p125)」。繰り返しになるけれど、なぜかといえばそれらを認めた方が社会にとって有益だからである。

 

ミル様のありがたきお言葉

ここからが本題。「人々に意見表明の自由を認めることが、どうして社会にとってプラスになるの?」というのが、この第2章で答えている疑問であり、この本の一番面白いところでした。

ミルはここで、自分の意見を絶対的な真理として、そこへの反対意見を一切認めないような態度を強く批判している。教条的・ドグマティックな態度への批判とも言えるかもしれない。ドグマティックな態度というのは、「俺の考えは正しい。だから、それに疑義を呈するお前は根本的に間違ってるし、その意見は聞く価値もねえ」というようなものである。一つの教えを絶対のものとしてしまうことですね。 

そうした態度は、先進的な人間の中にも、往々にして見られる。性的マイノリティについての議論などは、今ではかなりセンシティブなものとなっている。「マイノリティの権利は認められるべきだ」という教えを絶対のものとして、少数派の権利に対して少しでも疑義を呈すれば、差別主義者として罵られるような風潮は、やはりあるように思う。もちろん逆も然りで、50年ぐらい前であれば、LGBTの権利などを主張しても、一笑に付されるだけだった。そんなこんなで、世間で主流になりつつある考えに対して「否」を投じると、異端・異常者扱いされて、意見そのものが封じ込められる現象は、いつの時代も見られるものだと思う。マイノリティの権利を守ろうとすることが間違っているという話ではなくて、その反対意見にレッテルを貼るなどして、最初から聞こうとしない姿勢が問題であるということ。

『自由論』においてミルは、そういう風潮に非常に強く反対している。たとえ相手の見解が馬鹿げたものであったり、時代と逆行するものであったとしても、その表明の機会を奪うべきではない。ミルからすれば、差別主義的と罵られるような発言、例えば、先日の自民・山谷絵里子発言「LGBT云々の議論は不条理だ」などについても、数の力で撤回を求めたり、辞任に追い込んだりするべきではない。それも一つの「意見」として、我々の議論の中で歓迎するべきなのである。

本書の議論に妥当性があるとすれば、どれほど不道徳だと考えられるかもしれない主張でも、倫理上の核心の問題としてそれを公言したり議論したりする完全な自由が存在すべきだ、ということになる(p40,1)*2

どれほど不道徳でも、その発言は公言する自由があるのである。なぜなのか? なぜ我々は、明らかに真実に反するような見解や、無知に基づく発言、私たちを不快な気持ちにさせる意見について、封じ込めを行ってはならないのだろうか。差別的な発言など、存在しない方が平和である。誰かを傷つけるような発言は、百害あって一利なしなのではないか。そうした発言をした人間は、今後は意見表明の機会を奪って、徹底的に糾弾するべきではないか。

ミルはこうした見解に、「NO」と答える。このミルの回答が、とにかく熱い。熱すぎて、額に飾っておきたいぐらいである。

ミル曰く、我々は自身の見解への反対意見こそ、深く学ばなければならない。なぜなら、自身が「正しい」と信じこんでいる教えは、もしかしたら間違っているかもしれないからである。人間は悲しいことに、常に誤りうる存在で、完全に無謬ということがない。だからこそ、反対意見に耳を傾け、常に自身の見解を修正しようとする姿勢が大事なのである。それをしようとしないことは、自身の無謬性を想定して、あたかも自身を完全無欠の存在であると見なすことである。が、それが誤りであることは、言うに及ばず。反対意見を封じ込めず、そこに触れることこそ大事なのである。このことをミルは、次のような激アツな言葉で語っている。長いけど、コピーして部屋に飾っておくべし。

本当に信頼に値する判断をする人の場合、どうしてそうなっているのだろうか。その人の知性が、自分の意見や行為に対する批判に開かれているからである。自説の反論となり得るすべての議論を傾聴すること、批判が当たっている部分からは多くの教訓を得るとともに、誤っている部分については、どこが誤っているかを、自分に向かって、またときには他の人々に向けても丹念に説明することが、その人の習慣になっているからである。その方法とは、多様な意見をもつ人々がその問題について語ることのできるすべてに耳を傾け、また、あらゆるタイプの知性がその問題を注視する仕方をことごとく学ぶことである。どんな賢者も、これ以外の方法で英知を獲得したことはない。また、人間知性の性質からして、賢明になるのにこれ以外の方法はない。自分自身の意見と他人の意見を照らし合わせて自分の意見を訂正し補完する堅実な習慣は、自分の意見を実行に移すときに懐疑や躊躇を引き起こす原因などではない。それどころか、自分の意見に正当な自信を持つための揺るぎない唯一の根拠となる。その理由はこうである。このような人は、少なくともはっきりした形で、自分に向けられる反論は全部知っていて、反論している全員に対抗して立論を行っている。自分は反論や難点を回避するのではなく探し求めてきたのであり、問題に対して投げかけることのできるどの角度からの光も遮ってはいない、とわかっている。だから、どんな個人や大衆にせよこれと同じ手順をたどっていない判断をしているのであれば、それよりも自分の判断の方がすぐれていると考える権利がある、ということである。

(p50,51) 

自分への反論を積極的に知ることについて、「どんな賢者も、これ以外の方法で英知を獲得したことはない」と言い切るところとか、「自分は反論や難点を回避するのではなく探し求めてきたのであり、問題に対して投げかけることのできるどの角度からの光も遮ってはいない」ってするの、めちゃくちゃかっこよくないですか?

僕も何度かこのブログやらnoteやらで、「自分の見解への反対意見を丁寧に扱うことが大事」とは主張してきた。偉大なるミル様は、そのことを激アツな言葉で述べてくださる。他のところも引用しておこう。

ある問題について、自分の側の見方しか知らない人は、その問題をほとんど理解していない。その人の根拠は適切で、それについては誰も反駁できないこともあるだろう。しかし、その人が同じように、反対説の側の根拠に対して反駁できないのであれば、つまり、反対説の根拠についてそこまで十分に理解していないのであれば、その人はどちらの側の意見を選ぶかの根拠を持ってないことになる。(p84,5)

…ここはまあ、わかりやすい。双方の主張を知るべしということ。

……自分の教師から論敵の議論を聞かされ、論敵の議論に対する教師の反論も併せて聞かされる、というのでは不十分である。それでは、論敵の議論の公平な扱い方にはならないし、自分自身の知性と論敵の議論とが本当にぶつかり合うことにもならない。論敵の議論は、その主張を本気で信じていて熱心に擁護しそのために最善を尽くす人から、聞くことができなければならない。なるほどといちばん思える説得的な形で、その議論を知る必要がある。そういう難問の手強さを、まるごと実感すべきである。(p85) 

 …そして、自身の反対意見を知るときは、都合のいい部分を持ってくるのではなく、最も熟達した論敵を呼び出してこいとのこと。これも本当に、大事だと思う。

教育があると言われている人々の100人のうち99人は、この状態〔真理を自分のものにしていない状態〕にある。自分の意見を流ちょうに述べることができる人々も同じである。こうした人々の場合、結論は正しいこともあるだろうが、理解という点ではすべて誤っているかもしれない。彼らは、自分とは異なった考え方をする人の心の状態に自分をおいて見たことはないし、そうした人々がどうしても言いたかったこともあっただろうが、そこを考えてみたこともない。だから、彼らは自分が公言している主張を、理解という言葉の正しい意味で言えば、理解していないのである。彼らは、自分の主張の中で説明や正当性を担っている部分を理解していない。……真理を成り立たせているすべての部分のうち、議論の正否を左右し、問題に完全に精通している人の判断を決定している部分が、わかっていないのである。その部分が本当にわかるのは、いずれの側の主張に対しても等しく公平に注意を払い、最強の光を当てて双方の理由を理解しようと努力する人々だけである。こういう修練は、道徳や人間にかかわる問題を本当に理解するのに絶対に欠くことができない。だから、重要な真理の場合はすべて、論敵がいないときは、論敵を思い浮かべた上で、最も熟達した悪魔の代弁者が呼び出すことのできる最強の議論を論敵に与えることが、必要不可欠となる。(p85,6)

自説への反論を知ろうとしない人物に対し、「彼らは、自分とは異なった考え方をする人の心の状態に自分をおいて見たことはないし、そうした人々がどうしても言いたかったこともあっただろうが、そこを考えてみたこともない」とするのは、本当にその通りだと思います。めっちゃいいこと言ってるなあと思う。それに続く、「その部分が本当にわかるのは、いずれの側の主張に対しても等しく公平に注意を払い、最強の光を当てて双方の理由を理解しようと努力する人々だけである」て。「最強の光」ってかっこよすぎませんか。一人で盛り上がって申し訳ないですけど!

続く引用は、まとめ的な内容である。

恐るべき害悪は、真理の半分がひっそりと抑圧されることである。人々が双方の意見に耳を傾けざるを得ないときには、いつでも望みがある。一方の真理にしか耳を傾けないときこそ、誤謬が偏見にまで凝り固まり、真理は誇張され虚偽になってしまい、それで真理の持っている意味を失うのである。問題の両側面のうち一方しか代弁されていないとき、その両側面のあいだで理知的な判断を下すことのできる判断能力は、ほとんどありえないような精神的特質である。だから、真理〔全体〕が得られる機会は、両方の立場に、真理のどこかの部分を含んでいる両方の意見のそれぞれに代弁者がついていて、さらに、その代弁者の声を聴けるようになっている場合に限られてくるのである。(p118)

こんな具合にミルは、人間が真理に至れるのは、それが反対意見に対して開かれているときのみであるとしている。また同時に、真理が生き生きとした活力を持つのも、それが反対意見に開かれている場合であるとしている。たとえ絶対的な真理であるとしても、そこへの疑義を一切封じているようであれば、それは真理としての信頼を持ち得ない。例としてミルはニュートン万有引力の法則を出しており、仮にニュートンが「俺の自説は絶対正しい! だから反論を唱えることすら許さん」としていたら、この説は今ほどの信頼を勝ち得ていただろうか。答えは否である。万有引力の法則が真理として信頼されているのは、それがあらゆる批判や反論に開かれていて、そしてその反論達に勝利してきたからである。決して、反対意見の表明を封じ込めてきたからではない。

真理が生き生きとした力を持つには、常に論敵の存在が必要である。ミル曰く、「教え説く側も学ぶ側も、戦いの場に敵がいなくなると、それぞれの持ち場で眠り込んでしまうのである」(p97,8)。これも、名言だなあと思います。

 

…長々書いたけど、まとめると、たった一言です。「誤っていると自分が判断している意見だから、ということでその意見を誰の耳にも届かないようにしてしまうのは、有害なことである(p56)」。なぜなら、それは自身が無謬の存在であると仮定することであるし、また、真理への到達や、真理を生き生きとしたものにするのを妨げることだからである。真理に到達し、社会全体に益をもたらすためにも、反対意見は封じ込めるどころか、むしろそこに積極的に学ぶべし、ということになる。

* ただしミルは、討論の際には、社会の中でのパワーバランスを考えるべしとも言っている。議論の場においては、誰もが対等というわけではない。社会の主流派に属する人々は、少数派の意見を封じ込めやすいはずである。逆に少数派の側は、過度な圧力をかけられることを恐れて、自分の意見を引っ込めてしまうかもしれない。そうならないためにも、できるだけ少数派の見解にこそ配慮すべきであり、パワーを持つ権力者の側の意見は、相対的に配慮の度合いが下がる。とはいえミルは、どのような見解が「主流派」に属し、どれが少数派に属するかということについては、あまり言及していない。僕は冒頭で、山谷絵里子発言についても意見表明の自由が認められるべきだと書いたが、この辺はパワーバランス次第でひっくり返されるかもしれない。とはいえ、署名運動推進派などは一つの大きな「権力」を形成しているようには思うので、やっぱ封じ込めは良くない気はする。

 

 

そんな感じで

す。なっげえなっげえなっげえわ。

ちなみにここまで、書くのに約3日かかりました。読むのにも3日ほどかかったので、この一週間はずっとミル様のことを考えていたことになる。更新サボっていたわけではなくて、書くのが難しくて難航していました。。

あまり面白く書けた自信がないです。許してください。そういう日もあるということで。

今回僕が声を大にして言いたかったのは、自分と異なる見解を知りに行くこと、めっちゃ大事ということです。ミル様のお言葉を借りれば、常に論敵に対して最強の光を当てろとか、自説に対するどの角度からの光も遮るなということになる。なんてありがたきお言葉だ.....

ちなみにミルはこういうことを書きながら、何度も何度も、これら自説への反論を積極的に取り上げている。ときには2,3ページにわたって論敵の見解を列挙していて、有言実行なさっているなあと感心する。僕もミルの見解を鵜呑みにするのではなく、そこへの反論、すなわち「マイノリティの権利に疑義を呈するような発言などは、封じ込めても正当である」といった見解を、常に探していかないとなあと思います。(ちなみに、例としてこの話が分かりやすいだろうと思って出しているだけで、僕がLGBTの権利反対派というわけではないです。むしろ賛成派ではあるけれど、あらゆる反論を「差別主義」として蹴散らす人に対してはかなり不満を持っているという感じ)

ほかにも、額に飾りたい言葉は多数あったけど、あまりに長くなったので今回はこの辺で。序章と2章だけ取り上げた感じなので、いずれ3章以降についても書きたいな。特に3章は、非常に面白いことがたくさん書かれていたので。

この熱が伝われば幸いだけど、そうでなかったら、努力不足なので精進します。さようなら。

 

 

 

 


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 ↑名曲(昨日発見)

 

*1:とはいえ、本書を通じてミルはずっと、快楽には高貴なものもあれば低俗なものもあると言っている。ミルは多分、法や世論の強制によってコジコジの行動を変えさせることには反対だが、かといってコジコジの生き方を尊重するわけでもなく、むしろ低級なものとして侮蔑すると思う。なぜかといえば、社会に対してほとんど益をもたらしていないため

*2:引用はすべて、J.S.ミル著、関口正司訳『自由論』(2020,岩波文庫)より