浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

読書に何を求めるか?:読書記録#6 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024,集英社新書)

もう7月も下旬ですよ

 

皆さんどうもお久しぶりです。

暑いですね! これを書いている現在、最高気温37度とかです。暑すぎるだろ!!!!! この頃は、買っておいた野菜などが暑さで全てダメになってしまい、家には小バエが大量発生し、もう何の気力も湧きません。

さて、7月は更新多めにしたいと言いつつ、25日振りの更新となりすみませんでした。暑さのせいです。今日も読書記録をやっていきますが、本日紹介するのは、今話題のあの本、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です。

こちら気になっている人も多いのではないでしょうか。

いつも通り、読んだきっかけ→内容紹介→読んだ感想でやっていきます。ちなみに今回、長いです。

 

読んだきっかけ

まず、書名に惹かれました。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」。よいタイトルですよね。学生の時はたくさん本を読んでいたのに、就職してからトンと読まなくなったという人の話をよく聞きます。このあるあるが書名になっているというのがまず嬉しいところです。

ただその逆に、 僕自身は社会人の中ではまあまあ本を読んでいる方ではないか? という気持ちもあります。以前のブログにも書きましたが、大学院生の時より、よっぽど社会人になってからの方が本が読めています。これはどのように説明されるのか? というのも気になりました。

一つ思っていたのは、働き始めると本が読めなくなるのは「仕事と読書で、あまりに脳の動かし方が似すぎているからではないか」ということです。僕は事務系の仕事をやっていますが、日々メールを読んだり書類を解読したりして、とにかく情報処理することに追われています。で、仕事終わりに読書をしようにも、既に仕事で脳の処理野がイカれてダメになってしまっているので、今日は1ページも読めないなという日が多々あります。仕事をすると本が読めなくなっているのは、仕事と読書がタスクとして似すぎているからと感じていました。

で、本書についても、前にちょっと紹介したデイヴィッド・J・リンデン『快感回路』のように、脳科学や心理学の話なのかなーと思っていました。ただ実際のところは、それとはだいぶ毛色の違う内容です。では内容を紹介していきます。

 

内容紹介

本書は「なぜ現代人は、働き始めると本が読めなくなるのか」という問いに、労働の歴史や就労観という視点から切り込んでいます。

皆さん、映画「花束みたいな恋をした」はもうご覧になっていますでしょうか。

hana-koi.jp

まあ僕は観ていないんですが....... 「そろそろ観る」と言い続けて3年弱になります。

で、本書ではまず、「花束みたいな恋をした」の登場人物(麦)がフォーカスされます。この映画では、サブカルを愛し読書を愛したはずの青年が、社会人になってどんどん「本が読めなくなっていく」様子が描かれています。この描写に共感を覚えた人は結構多いのだとか。そして筆者もここに問題意識を据えます。すなわち、「現代人が読書と労働を両立させるにはどうすればよいか?」「働きながら本が読める社会にするにはどうればよいか?」という問題に取り組んでいきます。

その際のアプローチとしては、歴史社会学的な手法が採られます。というのも、読書と労働との関係についてはすでに明治時代から議論がありました。ので、そこから遡って日本の労働観を見ていくという感じですね。

目次を見ると、第1章が明治時代、第2章が大正時代、第3章が戦前・戦中、第4章が1950年代~60年代ときて、第5章以降はそこから10年刻みなります。5章が1970年代で、その後の6・7・8章が80s, 90s, 00s,と進んで、最後の第9章が2010年代になります。かなり細かく時代を区切っているのがわかりますね。

そしてその時代において「どのような本が読まれていたか」が注目されます。例えば1970年代では、司馬遼太郎歴史小説がヒットしていました。そのヒット本から当時の時代精神や労働観を読み解いていきます。例えばこの1970年代であれば、「当時のサラリーマンは、司馬作品の戦国武将や明治の軍人たちの在り方に、自分の組織論や仕事論を投影していたKindle版 p106)といったことが言われています。まあこれはあくまで一例ですが。

で、このような時代考証を明治から現代まで遡っていくことによって、一体どんなことが見えてくるのかというのは、是非本書を読んでいただいてということで.......(ぶっちゃけうまくまとめる自信が全くない)。一応、ここまでの話がいい感じにまとまっている箇所があったので、ちょっと長いけど引用しておきます。これさえ読めばこの本の流れがわかるはず。

本書は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」というタイトルを冠している。

普通に考えれば、長時間労働によって本を読む「時間」を奪われたのだという結論に至る。だが第一章では、それにしては日本人はずっと長時間労働を課されてきており、現代にはじまったことではない、と指摘した。

序章で引用した映画『花束みたいな恋をした』の麦は、長時間労働に追われるなかで、「パズドラ」はできても「読書」はできない。「パズドラ」をする時間はある。でも「読書」はできない。ここにある溝とは何なのかを知りたくて、私は近現代日本の読書と労働の歴史を追いかけてきた。

戦後、本が売れていた。とくに戦後の好景気からバブル経済に至るまで、人口増加にともない本は売れていたし、読まれていた。しかし1990年代後半以降、とくに2000年代に至ってからの書籍購入額は明らかに落ちている(第六章〈本をみんな読んでいた?〉参照)

しかし一方で、自己啓発書の市場は伸びているKindle版 p137, 強調は引用者)

引用箇所の最後で自己啓発書の話が出てきました。この引用は第7章からですが、本書では7~9章あたりにかけて、「なぜ働くと本が読めなくなるのに、自己啓発書は読めるのか?」という問題も追いかけていきます。「花束みたいな恋をした」の主人公も、以前読んでいたような本への興味をなくした代わりに、自己啓発本に関しては読めていたそうです。これは一体なぜなのか??

これについて本書の内容を紹介しますと、筆者はこのことについてノイズの有無という考え方を持ち出します。この「ノイズ」というのが本書において非常に重要な概念です。著者曰く、働くと本が読めなくなるのに、他方で自己啓発書は読めるのは、本はノイズに満ちているのに、自己啓発書はそれが取り除かれているからとなります。

そもそもノイズとは何なのか? という点については、「ノイズ=歴史や他作品の文脈・想定していない展開」と書かれていますKindle版 p174)。例えば自己啓発本の世界では、物事が上手くいかないのは自分自身のせいだとか、成功する人は自分で努力しているだとか、あらゆることが個人や自助努力の話に還元されがちです。そして、自分を離れた「社会」というものはそこでは触れられません(と筆者は見ています)。この「社会」というものこそ、筆者が言うところの他者の文脈・自分から離れたところにあるもの、つまり「ノイズ」であるとされます。

忙しい社会人は、ノイズの摂取をよしとしません。自分に関係のある、無駄のない情報だけを好みます。自分でコントロールできない事象はノイズとして切り捨てます。だからこそ、「社会」という文脈を切り離した自己啓発本は、忙しい社会人でも手に取れるのだと、筆者はそのように分析しています。

①読書――ノイズ込みの知を得る

②情報――ノイズ抜きの知を得る

Kindle版 p174)

本書ではこのように、「読書」と「情報」が区別されたうえで、自己啓発本は、あくまで「情報」を摂取するものだ、ということが言われます。そして読書という行為について、次のように述べています。

自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。

そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。

仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。Kindle版 p183)

つまりは、本が読めない原因は、我々の「余裕の無さ」にあるとのこと。なぜ余裕がないのかと言えば、全身全霊で働き過ぎだからとなります(最終章)

本書の最後の主張は、「全身全霊で働くのをやめよう」「むしろ、半身で働こう」となります。「全身」の対比としての「半身」が提唱されます(これ自体は上野千鶴子が言った言葉とのこと)。我々は全身をかけて働き過ぎであり、そうなると仕事に関係のないノイズまみれの情報は摂取しなくなってしまう。ただ、筆者の分析では、そもそも読書とは「ノイズ込みの知を得る」(自分から遠く離れた文脈に触れる)行為です。つまろ働きすぎとは相入れないわけですね。

ここまでの流れをまとめると、

  • 読書とは、ノイズ込みの知を得ることである
  • 我々は全身で働きすぎると、ノイズを排除しがちになる
  • ゆえに、働いていると本が読めなくなる

という感じになります。

ちなみに著者が提案する「半身で働くこと」はその名の通り、仕事のことは半分、そしてもう半分で趣味や文化的活動の時間を取ろうという提案です。また、本書の最後には、働きながらも本を読むコツなどが紹介されています。興味のある人はぜひ手に取ってみてください!!

 

読んだ感想

本書については、いろいろと、本当に色々と思うところがあるのですが.......

まずはポジティブな感想から書くと、結論の「半身で働く」ということについては、本当によい提案だなと思いました。

僕自身、こうして週5で働きながらも読書感想が書けているのは、確実に「半身で働いているから」となります。お仕事、真面目にやっておりますが、決して全身全霊とか人生を懸けてではありません。ほどほどに定時で帰って、ほどほどに有給も取って、その反面でほどほどに真面目に働いています。仕事の勉強(財務や会計の勉強)もたまにしていますが、その情報以外をノイズと判断するとかそんなことは全然ないです。

むしろ、何かに全身全霊で取り組んでおり、全く本が読めなくなっていたのは、大学院生の頃でした。B4、M1の時とか、「研究に関係のない本」が全く読めなくなってしまいました。今でもあのときは、読書が趣味ではなくなった瞬間として記憶に残っています。

ので、僕の場合は「働いていると本が読めない」ではなく、「大学院に行くと本が読めない」ですね。もちろん研究用の本は読んでいますが、趣味の文化的な読書は一切しなくなっておりました(漫画はめちゃくちゃ読んでたけど)

それを考えてもやはり、今の仕事は、ほどよく半身で行えているのだと思います。

ただ当然、本が読めなくなった背景には、「成果を出さなければならない」という強い焦りがありました。それは今本を読めていない人たちも同じではと思います。

で、この焦りはそのままに「いや半身で働けばいいんだよ〜」と言うだけでは何も解決しないなーとは感じます。著者は意外と、「まずやってみよ? やってみたらうまくいくかもしれんから」などと言いそうですが(偏見)、この辺は本当にどうするべきなんでしょうね。

別に我々、のんびり気楽に過ごしていても生きていけるというわけではなくて、院生なら研究して論文を書き上げなければならないし、社会人にも多くのタスクが溜まっていると思います。「やるべきこと」が常にある状態ですね。で、中には「全然関係ない本を読んでいたら、本業の方でも着想が得られた」という方もいそうですが、大体の場合は「いや今読まなきゃならん本が山積みなのに関係ねえ本なんて読んでられんよ」という状態だと思います。それをほどよく両立させている人間が超人なのであって...... そこを標準としてはならないとも感じます。

当然ですが、心の余裕があるからこそ関係のないこともできるのであって、関係のないことをし始めれば心に余裕が生まれるわけではないということは、一応気を付けなければならないとは思いました。

 

 

 

 

........で、ここからは、本書に対して批判的な内容となります。先入観を持たないためにも、まだ読んでない人は読んでからの方がいいかもしれません!!

 

 

 

 

 

 

読みました? もう本書読みましたね? 読んだということで、もう少し率直な感想を書いていきます。

この本、個人的にはかなりうーーーん........という感じでした。今回で読書記録は6回目となりますが、過去に挙げた本がどれも☆4~5つだとすると、今回は☆3いくかどうかというところです。それぐらいイマイチだったというか、なんというか、最近の左寄りの論者の問題点がギュッと詰まった一冊だと感じました。批判等も覚悟の上で、そうした感想を書いていきます。

 

 

分析の進め方が.......

まず、分析がかなりガバガバに感じました。「新書なんてそんなもんだろ」という反論は最後に取り上げるのでここではひとまず置いておいて...... 僕は日本現代史や労働史の専門家ではないので、むしろ勉強させてもらうつもりで読んでいたのですが、素人目にも「これは話半分で読んだ方がいいな......」と感じました。

どういうところが不満であるかというと、主に本書の論じ方のスタイルについてです。本書を読んでいてとにかく感じたのが、自説と異なる見解・事例をほとんど取り上げないということです。

説得的な文章の多くは次のようなスタイルを採っていると思います。すなわち、まず事例を集め、そこから仮説を展開した後、その仮説を補強するためにあえてその仮説に合わない事例を取り上げるという流れです(あるいは同じ事例からも別の主張ができるかもしれないとして別説を展開する)。時には自説の修正を強いられるかもしれません。ただ、そうしたことを積み重ねて、多角的な批判にも応えられる主張を練り上げていくのだと思います。

そこについて本書を見てみると、次のようなパターンが目立ちます。すなわち、まず何らかの特徴的な事例を取り上げて(この時代には○○が流行っていたなど)、次に自説を展開し(ここから、この時代には△△という思想が根付いていたと言えるなど)、その後、もう一度自説と合致する事例が取り上げられます。反例を取り上げたり、あえて自説と別の見解を取り上げたりといったことがほとんどありません。それがあれば「確かにそういうことも言えるな」と、読者としても続きの展開に期待できるんですが、本書では、「そう考えると、Aがこの時代に生じたのも無関係ではないだろう」とか、「Bという社会学者も同じことを言っている」とか、とにかく自分の主張への反省というもの無しに話が進みます。

そうなると、個人的には、事例を分析した結果として筆者の主張があるのではなく、あらかじめ筆者の言いたいことがあって、それを補うための事例をピックアップしているという印象を受けてしまいます。特に時代分析ともなれば、どの事例をピックアップするかは恣意的になりがちです。そんな中で、自説と異なる事例が全く触れられず、むしろ親和的な例ばかり挙げられて、「この事例もそのように説明できる」「誰々も同じような話をしている」と続くのは、正直、言いたいことだけ言ってんな〜〜〜と強く感じてしまいます。具体例については、長くなってしまったので註を辿ってもらえればと幸いです*1

ついでに言うと、先行研究への批判もほぼ無いですね。先行研究が引用されるときは、筆者もその意見に共感していそうな場合が多いです。そして、それが本当に妥当であるのかや、何かしらの反論が挙げられていないかなどがほとんど気にされません*2。これもかなり不満で、先行研究を聖典のように使うなと思ってしまいます。むしろその妥当性や有効性に疑問を投げかけて、彼ら・彼女らの研究を批判し、自分の手で前に進めるようなことをやってほしいなと感じます。「誰々もこう言っている」と、無批判に引用するのではなくて。

で、この問題は正直、『映画を早送りにする人たち』『ファスト教養』を読んだ時にも感じました。3つとも、自説や先行研究への批判をほとんど行わず、とにかく話が一本調子で進むんですよね。スタイルが結構似ていると思います。文章としては、非常に流麗というか、流れるような展開でスルスルと読めるんですが、逆に突っかかりや障害がなさ過ぎて、「いやほんとにそうなのか??」と度々感じてしまいます。そんなわけで、「近頃の左寄りの論者の問題がギュッと詰まっている」ということを最初に書いた次第です。

 

用語の定義も......

「近頃の左寄りの論者の問題」でいうと、用語の使用法にもいくらか気になるところが...... 本書で頻出するワードに、「階級」そして「格差」そして「新自由主義」があります。いかにも近頃の左派論者が好きそうなワードですね。本書では特に「階級」という言葉がよく出てくるのですが、これがほとんど定義がされず便利に使われすぎだと感じました。労働者階級、エリート階級という言葉が頻出し、「自己啓発書は読者の社会的階級を無効化する」とか、果ては「モテの階級」ということも言われるんですが、なんのことだかもう少し説明してほしいなと感じます。単なる年収を指しているわけではなさそうなんですが、じゃあそこでいう階級って何で測られているの? 本当に実態ある? というところが、ふんわりと使われすぎに思いました(ただ、新自由主義についてはp167でそれなりに説明されていて、そこはよかったです)

極めつけは「ノイズ」ですね。内容紹介でも書いたとおり、本書では、「ノイズがある=読書」、「ノイズが剥ぎ取られている=情報」と分類されます。かつ、自己啓発書やインターネットについては、「ノイズが剥ぎ取られている(情報である)」ことが指摘されています。そう考えると、「自己啓発書を読む=読書ではない」ということになりそうですが、本当かよと思います。あまりにも定義が曖昧であるか、自己啓発書を舐めすぎかのどちらかと感じます。本書の中心的問いであった、「社会人は読書ができないと言われているが、自己啓発書は読まれている」ということへの回答が、「自己啓発書は読書ではない」となるのは、正直おいおいおいと思ったところでした*3

それと、反例を取り上げないという話にも通じますが、現代の自己啓発書について、どんな本が売れているかとかがあまり紹介されないんですよね。僕のイメージでは『FACTFULNESS』とか、全く面白くはなかったけど社会的問題に触れている自己啓発書も売れているかなという感じなんですが、どうなんでしょう?

試しに自己啓発書の売れ筋ランキングを調べてみようと、ブックウォーカーというサイトを訪れたところ、

本書が一位でした自己啓発書とは何なのか、改めて定義を考えることも大事かもしれませんね。

 

お気持ちの表明が先行

「お気持ち」という言葉、本当は好きじゃないんですが、今回は使います....... 

本書の分析・考証パートは、上記の理由で、あまり説得力や納得感を得られませんでした。

ただ、感想の冒頭でも書いたように、本書の主張である「全身全霊で働くのをやめよう」「半身で働こう」については、よい提案だなと感じたのも事実です。

とはいえ、共感は覚えるのですが、あまりにお気持ちの表明が先行しすぎだとも感じました。この辺りの「半身」に関する主張は、主に第9章・最終章で行われるのですが、ここに来ると途端に改行が増えるのが特徴的です。

大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。

仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。

仕事以外の文脈を思い出すこと。

そのノイズを、受け入れること。

それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。(p181-182)

こんな具合の文章がしばらく続くのですが、急にふんわりエッセイみたいな文体にしだすのやめてほしいなと思いました。note読んでるんじゃないんだから......と。締めだけならまだしも、ほぼ2章分です。何か主張があるのなら、具体的に何を改善すればそれが実現するかとか、どういうところから制度改革を始めるべきだとか、ゆるふわ文体で凌ぐのではなく、もう少し最後まで粘ってほしかったなと思います。

ここも最近の左派論者の弱さを感じるところで、現代の問題を論じるという時に、新自由主義への批判をお気持ち的に表明しすぎなんですよね。これは自分の見解に親和的な人たちにはウケるかもしれないけど、本当に自己責任論を信奉する人間に対しては、全く説得的な議論になってないと思います(上の引用とかほぼ根性論だし......)。例えばですが、本当に経済成長は追わなくてよいのかとか、何らかの合理性があったからこそ新自由主義が台頭したのではないかとか、衰退を続けるこの国で焦りを抱かなくてよいのかという点は、もう少し具体的に論じて欲しいと感じました。

 

新書に何を求めるか

色々書きましたが正直なところ、これは新書に何を求めるかという問題でもあると思います。僕自身は、そういう左派のお気持ち表明はネットでいくらでも読めるのだから、新書では分析や論証を中心にしてほしいと感じています。ただ、これはかなり個人差があるとも思うので、次回「新書論」でも書いて、たくさん思うことを述べたいと思います。

ただ、やはり気になるのは、本書に本当に「ノイズ」があったのかということです。どうにも本書では、著者と異なる見解がほとんど紹介されておらず、新自由主義批判など左派論者にとって聞き慣れた話も並ぶため、言いたいことを言ってるなーというか、著者やそれに親和的な人たちにとっては「読書=自分から遠く離れた文脈に触れること」が起こらないのではないかなど、そういうことを感じました。逆に言えば、我々からすれば自己啓発書は「ノイズ」だらけかもしれませんね。実際未知の世界だし。

僕自身、読書をするときには確かに未知=自分から離れたところにあるものを求めますが、もちろんそれだけではないです。実用的な知識を重視することもあるし、単に笑いや刺激がほしい場合もあります。その点でいうと、本書はちょっと読書を神格化し過ぎという点も気になりました。「〈読書的人文知〉には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性や文脈性を重んじようとする知的な誠実さが存在している」(p156)といったことも書かれるんですが、あまりに読書の格を上げようとし過ぎていて、ちょっと怖いです。もちろん、読書に限らず「文化的趣味一般」の話なのだと最初に前置きされてはいるのですが、本編での話を読書に絞っている分、読書の多様性が失われていないかも心配でした。

で、僕個人としては、新書であろうとある程度は「しっかり論じる」ことを求めてしまいますが、その点は様々だと思います。むしろ、「我々は読書に何を求めるのか?」という点を、もっと争点にしていってよいのかもしれません。著者のようにやや崇高な理念を掲げてもよいし、単なる暇つぶしでもよいし、「売れてる新書を読んでもの申す老害修士卒の回」というクソ記事を書くためでもよいかもしれません(それはダメか)。本書は「読書」について扱った新書でありながら、やや「読書」の範囲を狭めるような見解も見えたので、最後にそのことを指摘しておきたかったという次第です。

 

 

 

 

 

終わり!!!!!

 

終わりです。

と言うわけで今回は、読書記録第6回でした。

この本、結構人気だし、著者も有名な方なので、批判的なことを書くことには正直かなりの勇気が要りました。25日振りの更新となったのは、この勇気が湧かなかったことが原因だと思っていただけると幸いです。ただまあ、ブログで自分の感想を書くのは自由だろうと、こうして一本書き切きったところです。著作権違反や事実誤認など、重大な問題がある際は遠慮無くご指摘ください。

あと、タイトルに惹かれたという方も、ぜひ遠慮をせずに読んでみてください。自分の感想を持つことが何より大事だ!!!!!!

 

次回は、「不正」についての本を扱う予定です。僕自身、仕事がら常に「不正」との闘いですが、この闘いは結構過酷です。それでは次回もよろしくお願いします。あしたのあなたがエネルギーで幸せになりますよに。合い言葉は、ハピエネ!!!!

 

 


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最近ハマっててよく見ています。

 

 

 

 

 

 

 

*1:一例として、第6章の議論を取り上げます。第6章では「『コミュ力』の時代到来」と題した節があり、ここで「BIG tomorrow」という雑誌が流行ったことが取り上げられます。1980年代に流行ったBIG tomorrowは、主に「職場の処世術」と「女性にモテる術」の2つを教えてくれる、男性にとって即物的で実用的な雑誌でした。で、これまでの分析で筆者は、70年代には学歴が重視されていたことを指摘しています。しかし80年代には、こうした教養的ではない雑誌が流行りました。なぜなのか? 筆者が言うには「答えは簡単で、サラリーマンの間で『学歴よりも処世術のほうが大切である』という価値観が広まったからだkindle版 p114)とのこと。なぜ学歴より処世術の方が大事であるかと言えば、80年代に入ると大卒者が増えてきた影響で、入社段階の学歴よりも、入社後のコミュニケーション能力こそが命運を分けると考えられたからだとか。

そこから筆者は、「労働に必要なのは、教養ではなく、コミュニケーション能力である。——当時のサラリーマンがおそらく最も読んでいたであろう「BIGtomorrow」のコンセプトからは、そのような当時の思想が透けて見える」Kindle版 p115)と言っているのですが、これが反例に着目しない例の一つ目ですね。正直なところ、雑誌一つ取ってそこまで言う? と思ってしまいます。もう少しそれに合致しない例もあるのではないかと。

ただ、筆者は、この事例一つのみで話を進めるわけではありません(早とちりで済みませんでした)。次に、同じ時代のベストセラー文芸に着目します。ここはまるっと引用します。

このような補助線を引くと、1980年代のベストセラー文芸――『窓ぎわのトットちゃん』が500万部超、『ノルウェイの森』が350万部超、『サラダ記念日』が200万部超――という華麗なる発行部数にも、ある種の合点がいく。というのもこの3作品、どれも一人称視点の物語なのだ。

[中略]つまりこの3作品、どれも「僕」や「私」の物語なのであるKindle版 p115) 

1980年代、つまり10年の間にヒットした3作品を挙げて、「どれも一人称視点の物語なのだ」と言っているのですが、ここは正直、3作品だけならそういうこともあるだろと感じました。ここで、「とはいえ、この時代には○○もヒットしていて、必ずしもそうとは言えないのだが......」とかがあれば別なんですが、本書全体を通じてそういうことはほぼ無いです。そして、上記の事例から、次のように続きます。

そう、70年代と比較して、80年代は急速に「自分」の物語が増える。そしてそれが売れる。これは当時、コミュニケーションの問題が最も重要視されていたからではないか。Kindle版 p116-117) 

この辺りの流れが、先ほどから書いている「自説の反証を取り上げない」「自説を補強する話ばかり取り上げる」といったところです。自己批判が本当にないんですよね。だいぶ長々と書きましたが、批判をするからにはちゃんと証拠を挙げなきゃと思い、このようになった次第です......

*2:ただ一箇所、伊藤昌亮のひろゆき論は明確に反論されていた p155

*3:あと、面接に来た若者がフリッパーズ・ギターを知っていたという事例が紹介される際、「若者と、フリッパーズ・ギターの間には、『(自分の時代とは関係のない)過去の流行』というノイズ性が横たわっている」(p177)と言われているのですが、「過去の流行」ってノイズ性なんだとは思いました。それをノイズに含むなら、世の中でノイズじゃないことってほとんどなさそうですが、どうなんでしょう。なんだかこの辺よくわからないなと感じたところです。