浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

優しさとか配慮とか壁とか卵とか:ちょっとだけ動物倫理

眠れないので、深夜更新します。先に言っておくと結構長いっす。

現在、田上孝一『はじめての動物倫理学』を読み進めておる。

 

はじめての動物倫理学 (集英社新書)

はじめての動物倫理学 (集英社新書)

  • 作者:田上 孝一
  • 発売日: 2021/03/17
  • メディア: 新書
 

 面白いけど、初学者にばんばん勧められるほど優しくはないという印象。ある程度倫理学の議論(規範倫理学とはなんぞやとか)を知っている人向けな気はした。

で、今日はこの辺をちょーーっとだけ踏まえて、他者への配慮とか、その辺の話をします。自分の中でもあんまりまとまってないので、多分ボヤっとしたことをふわーっとだけ書く。とりあえず、最近思ってることだけでも。

 

動物倫理学とは

主に、動物に対して行われている仕打ちが、本当に正当なものなのかを問うていく分野です。我々、動物を単なる「道具」として扱いがちである。ウサギやネズミを使った動物実験はその典型だし、「おいしいから」という理由で牛や豚や鳥を殺すのもその一例。人間の都合で動物を利用(搾取)しているからである。我々、普通なら同胞(人間)にしないようなことを、「相手が動物だから」という理由で、いとも簡単に行っている。こういうのを問題視していくのが、動物倫理という学問になる。

ただ、多くの人の直感として、「動物を殺して食べて、それの何が悪いの?」という気持ちはあるはず。人間の方が強者であって、強い者が弱者を支配するのは自然の摂理であるとか、動物よりも人間の利益に重きを置くのは「当たり前」であるとか。あるいは、これら仕打ちの善悪は置いといて、「肉食が嫌なら、一人でやっていてください」系の、付き合ってらんねえコメントもよく見られる。他には「動物への迫害よりも、まずは人間への差別を解決すべき」という意見も多い。

要するに、動物倫理だとか、動物の権利論(動物も不当に自由・生命を奪われない権利を持つといった主張)は、とにかくウケが悪いということ。「なんでそんなことやってるの?」とか、「動物の権利とか言い出して、結局何がしたいの?」という疑問が付きまとうのだと思う。ぶっちゃけ、僕も半年前まではこれを言う側の人間だったので、そういうのはよくわかる。

 

「常に卵の側に立つ」

で、こういう「動物のこと考えてどうするん?」という問いについて。

ameblo.jp

「なんで動物の権利とか言い出すの?」という疑問に対する、僕の一つの答えとしては、村上春樹「壁と卵」の話がわかりやすい。2009年、エルサレムの授賞式典スピーチである。僕は村上春樹の小説は一つも読んだことがないのだが、このスピーチだけは知っておる。全文は↑の記事で訳されているが(ありがたし)、ちょっとだけ引用しておく。

 

.......これは私がフィクションを書く間、ずっと心に留めていることです。紙に書いて壁に貼るとか、そういったことではなく、私の心の奥に刻み付けていることがあるのです。それはこういうことです。

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

そう、壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、私の立ち位置は常に卵の側にあります。何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。どんな理由があるにせよ、もし壁の側に立って書く作家がいたとしたら、その仕事にどんな価値があるというのでしょう。 

 

 ……私たちは皆それぞれ、多かれ少なかれ、一つの卵であると。皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。これは私にとっての“本当のこと”であり、皆さんにとっての“本当のこと”でもあります。そして私たちは、程度の多少はあるにせよ、皆高くて硬い壁に直面しているのです。この壁には名前があります。それは“システム”というのです。“システム”は私たちを守ってくれるものですが、しかし時にそれ自身が意思を持ち、私たちを殺し始め、また他者を殺さしめるのです。冷たく、効率的に、システマティックに。

 

非常に単純化して説明すると、世の中には少なくとも二つの存在があるということ。一つが、脆くて壊れやすい「卵」。もう一つは、卵を壊しにかかる、硬くて冷酷な「壁」である。「卵」には魂を持った個々の人間が、「壁」には巨大で効率的なシステムが当てはまる。システムといっても、結局は人間の作ったものなのだから、それすなわち社会の多数派・マジョリティとかでもあると思う。対照的に、「卵」とは社会的弱者・マイノリティのこととも捉えられる(あくまで僕の解釈ですが)。そして春樹村上が言うとおり、我々は常に、卵の側に立つべきであるとは思う。

 

「なぜ動物の利益を考えるのか?」に対する、僕の一番端的な答えは、「動物がここでいう”卵”だから」というものである。食肉の習慣とか工場畜産を「壁」とすれば、苦痛に満ちた一生を強いられ、為す術もなく殺される動物は、まさに「卵」の側だと思う。実際、屠殺の現場で鳥や豚に与えられる苦しみは、相当なものであるという。

そして動物たちは、それに抗議するための手段を持たない。力や技術も、人間より遙かに劣っている。だが苦痛を受けているのは事実であって、その痛みを言葉にして声にできないからといって、好きに殺して奪っていいとするのは、「壁と卵」理論を貫く以上、どうにも正当化できないことだと僕は思う。だからこそ、我々がそれら苦痛を敏感に感じ取り、言葉にして訴え、不要な苦痛を取り除くべし、ということにになっていく(「壁と卵」の話に納得していることを前提にしています)。

 

優しさや配慮とは

で、ここまでが前置きというか、どちらかというとこの先が本題です。

動物倫理の本を呼んでいると、しばしばこんな感じの言葉が出てくる。主に、論文とかのまとめパートで出てくるものである。

動物たちを、人間のための道具としてではなく、共に生きていく仲間として捉えよう。動物の叫び声に耳を塞ぐのではなく、そこに耳を傾けよう。彼らの感じている苦痛に、耳を澄まして聴き取るのである。

論文でなく個人のブログとかでも、こうした記述はよく見られる。つまり、動物が受ける苦しみに「共感しましょう」というもの。苦痛の声が聞こえるはずだとか、直で見れば良心が痛むはずだとか、あるいはもっと端的に、「動物たちが可哀想だと思わないんですか」というのもある。「耳を澄ませば、彼らの苦しみの声が聞こえるはずだ」という、「痛みに共感できる」との前提がこれらにある。

で、正直な話、僕がこうした「生きた動物たちの声」が聴こえているかというと、実はそうでもない。動物が多大な苦痛を受けているというのは、理屈や理論として理解しているとしても、痛みへの「共感」やシンパシーまであるかというと、無いというのが本音である。僕が動物倫理云々するのは、あくまで「理論的に正当化されるか否か」で言っているだけなのだ。だから、苦痛を自分事として感じるだとか、「可哀想だと思う」という感情は、僕は実感としてあまり持てていない。

で、ですね。

ちょっと話は飛ぶけど、この前、「亜獣譚」を全巻読み終えました。

 

亜獣譚(8) (裏少年サンデーコミックス)

亜獣譚(8) (裏少年サンデーコミックス)

 

すっげえよかったです。最高でした。

 

で、この漫画、中盤以降は罪の意識・贖罪・許しだとか、あるいは人間の弱さ・脆弱さ、それに対する優しさや配慮に焦点が当てられていた。主人公は最強つよつよマンなので、人間の弱さとか脆さに鈍感であった。蟻を踏んでも気付かないのと同様に、他人がどんなことで心を壊すかとか、そういうのに疎いのである。が、圧倒的な優しさを持つ女性に出会えたので、云々という話。

特に、下記のセリフが印象的であった。

 

あなたは勉強ができるわけじゃなかったし
頭が切れるタイプでもない
弟のことだって姉なのにあまり分かってなかった
あなたはこの世の苦しみの底を
経験したこともない
理解もできない

でも他人の辛さを理解できなくても
目の前の相手に今なにをすべきか
誰よりも知ってる

だって誰よりも優しいから

 

 一番いい場面なのに、こんなとこで紹介しちゃって申し訳ないです。

 

で、何が言いたいかというと。

「他者の痛みに配慮する」って、この引用にある通り、少なくとも三通りあると思います。

一つが、他人の痛みについて、勉強したから知っているというもの。もう一つが、自分も同じような痛みを経験したから、他人にも配慮ができるというもの。そして三つ目が、そういうの関係なしに、最初から優しいから(共感の心を持っているから)というものです。

「壁と卵」の話をしたけど、僕の場合、卵の側に立てるのは、主に「勉強して知っているから」ということになる。フェミニズムとかも勉強しているけれど、仮に僕が女性への差別を問題視し、糾弾したとしたら、それは僕が他者の痛みに対して敏感なのだからではなく、やはり「書物を通じてその辺の問題性を知ってるから」ということになると思う。自分自身の経験を反映したとか、ましてや「女性自身の苦しみの声を聴けたから」ということでは断じてない。

動物倫理もそれと同様。本を読むことを通じて、「そういうか弱き存在がいる」というのを学んだのが大きい。大きいというか、十割それである。動物への共感の気持ちとかは、本当になかった。この社会には声を上げられない弱者がいて、我々はそうした者の味方でいるべきだという発想を当てはめているに過ぎない。

最近、これがなんだか、虚しいなあという話です。

もちろん、勉強した分優しくなれるというのは、悪いことではない。最近ぺこぱも似たようなこと言ってたし。知識は望遠鏡だ、云々。学びを積んだ分だけ他者に配慮できる、、、そういうNetflix的価値観も全然ありだとは思う。

のだが、僕の場合は裏を返せば、本とかを読んで勉強しない限り、あるいは自分が過去に似たような体験をしていない限り、他者の脆さとか弱さに気づけないということでもある。それこそ蟻を踏み潰すように、「これが普通やろ」って思った振る舞いで、周りの人を傷つけたことは確実にある。人の痛みを感じる力だとか、常識的感覚、それこそ天性の優しさや共感力といった部分で、人よりも大きく劣るような気がしてならない。

というか、根が不寛容なのである。ぶっちゃけると、あんまり、他者の違いを尊重できない。誰しもかくあるべしという理想は強いし、異端なものは排除したくなる。が、それは間違っているということも知っているので、なんとかストッパーはかかっているという感じ(かかってないときもある)。

そういうのがなんか、切ないな〜〜〜という話です。他者とか弱き者に配慮できているようで、実は全部後付けの優しさなんじゃねえかなって。「卵」の味方であれとか言いつつ、根本的な優しさには欠けているというか。それが悪いというわけではないけれど、たまに天性の優しさとか共感力を持っている人を見かけると、自分が人間的に欠落を抱えているようで悲しくなる。かつ、そういう人が偽善的に映ったりもするので、よくねえよなあとも思ってます。

 

 

優しくなりたい

というわけです。愛なき時代に生まれたわけじゃないので(ついでに強くもなりたい)。

あんまり考えがまとまっていないので、読み返すとかなりgdgdで申し訳ない。

勉強で得た優しさ、自身の体験から来る配慮、そして天性の共感力。自分にはどれがあって、どれがないのか。そして他の人は、どれをどれだけ備えているのか。最近は、そんなことを悶々と考えておりました。3つ目は持っている方がレアなのであって、これが欠けがちなのは、なにも僕一人だけではないと思いたい。

暗くなってしまったし(外は明るくなった)、そろそろ眠いのでこの辺で。

あと、動物倫理関連は、批判が四方八方からビュンビュン飛んでくるセンシティブな話題でもある。こんな底辺場末ブログであっても、書くのに若干勇気が要る。ので、我々はどちらかというと「卵」の側かもしれない。皆さんもあまりいじめないでください。