浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

リス村のリスを解放せよ:浅野幸治『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』読みました

こんばんは。本日は動物倫理回になります。

 

みなさん、「動物も権利を持つ」という主張について、どう思いますか?

 

 

  • いきなりそんなこと言われても......

 

という人もいれば、

 

  • 「権利」というのはそもそも人間が作り出した概念であって、動物に当てはめるのはおかしい
  • 動物にそういうのを認めるのは、人間中心主義的でおこがましい発想だ
  • そんなこと言ったら、肉食どころか、大半の日常的営みが制約されることになるけど、どうするんすか?
  • いうてお前らも植物を差別してるじゃん

などなど、矢継ぎ早に反論が出てくる人もいると思います。

 

ベジタリアン哲学者の動物倫理入門

ベジタリアン哲学者の動物倫理入門

  • 作者:浅野 幸治
  • 発売日: 2021/03/10
  • メディア: 単行本
 

で、今日はこちらの本、浅野幸治『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』を読み終えたので、その紹介。簡単に内容をさらったり、感想を書いたりなどなど。このブログでも定期的にやっている読書感想&動物倫理回となります。長いので、気合いあるときに読んでください。

この本、まあ簡単に言えば、冒頭で挙げたような反論に遭いつつも、「やはり動物に権利は認められる(認めるべきだ)と主張する一冊です。人以外の動物にも「基本的動物権」があるとして、動物との関わり合いを問い直したり、それが我々にもたらす利点を訴えたりなどなど。「入門書」を謳っているだけあって、語り口とかはかなり平易で、ほぼエッセイみたいなもんです。

同時期に田上孝一『はじめての動物倫理学』も出たけれど、あっちはレビューとかたくさん書かれてるのに対して、こっちはマジで見かけないんですよね。Twitterとかで探してもほとんど出てこない。ので、僕が頑張って書きます。頑張ります。応援してください。

 

「動物倫理関連の情報を発信する」というのは、このブログをやってる意義の一つである。ので、興味ある人もない人もぜひ読んでいってほしいところ。

今回は、動物に”権利”が認められると言ってる人は、こんなことを考えてるんですよとか、動物の持つ”権利”とはなんぞやというのを、紹介できればと思ってます。合わせて、この本の感想とかも書くので、まあなんかの参考になれば幸いよ!!(ちなみに1万字近くあります)

 

 

導入:金華山のリス村

本書からは離れるけど、まずちょっとした導入を。

岐阜県岐阜市に、金華山という山がある。山頂に行くと、「リス村」という施設があって、200円払うと、この山のリスたちと触れ合うことができる。

その施設の説明文が面白かったので、ちょっと紹介。読むべし。

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実際に訪れたときの写真

 

金華山に生息するリスは、昭和11年岐阜公園を中心に「躍進日本大博覧会」が
開催されたとき、当時珍しいタイワンリスが観衆の見せ物として多数持ち込まれました。
この時のリスが集団で金華山に逃げ込み、野生化したと言われています。

金華山には、リスの食べるシイの実やドングリの実が豊富で、他に天敵も少なく、リスの環境には、大変良い場所で、現在も多数生息しています。

この金華山の野生のリスを、そのまま自然の中で子供たちと遊ばせたいと願って、長い年月をかけてリスを調教し、昭和40年に当時日本で初めての「リス村」を開村しました。

リス村は、金華山山頂駅の前にあって、周囲は自然を大切に、太陽と緑の環境に恵まれ、忍び返しという外に出られない広い柵の中で、リス たちは自由にのびのびと暮らしています
HPからの引用、強調部分は引用者)

 

 

みなさんこれ、どう思いますか? ちなみに、男4人で訪れたときは、「さすがにリスがかわいそう」と盛り上がりました。

「リス村」に生息するリスたち、もとは人間によって見世物にされたあと、集団で山に逃げ込んだ個体である。そこは彼らにとって「ドングリの実が豊富で、他に天敵も少なく」、「大変良い場所」だったわけですよね。書き手はこれを認めています。

それなのに次の瞬間、「自然のなかで子どもたちと遊ばせたいと願って」「長い年月をかけて調教」したと公言。調教て。「子どもたちと遊ばせたい」というのもめちゃくちゃ人間の都合だし、さすがにリスに同情するというか..... あと、これを堂々と書ける精神がちょっと面白い。 

そして最後の一文、「忍び返しという外に出られない広い柵の中で、リスたちは自由にのびのびと暮らしています」というのも、興味深い。広いとはいえ、「柵の中」の生活を「自由でのびのび」と言えるのか否か......(そして実物を見ると、そんなに広いわけでもない)。この一文は ”自由”とは何かについて、我々に考えさせてくれます。

あと、ここのリスたちは、人間が与える餌以外を食べると、お腹を壊すようになっている。施設の注意書きには、「ドングリや木の実を与えないでください!」とあり、本来は「ドングリの実が豊富」で「大変良い場所」であったはずなのに、もうそれらを食べられない体に調教済みである。加えて、天敵もいなかったはずなのに、今じゃ人間によって柵に囲われており、「触れあいタイム」の名の下、餌を無限に食わされている。これ、動物倫理興味ない人でも、さすがにリスたち気の毒やなあとか思ったりするんじゃなかろうか。

 

この「リス村」の文章、個人的には、名文だと思ってます。というのも、「永い年月をかけて調教」したとか、「忍び返しという外に出られない広い柵」を作ったとか、自分たちのやっていることに自覚的だからですね。やっていることはなかなか酷いけど。

で、この「リス村」について、何か間違ったことをしているんじゃないかと感じられた人は、本書『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』についても、ある程度受け入れ土台ができているように思います。この本は、「人間の都合で」「動物の自由を奪う」ことについて、かなり批判的に論じたものであるため。

自由が奪われているという点では、リス村のリスだけでなく、牛や豚などの畜産動物や、競走馬なども同様である。それらの倫理的問題を問い直していこうというのが、本書の内容になる。

 

動物の持つ「権利」とは?

というわけで、本書の紹介に入っていきます。

この本の基本的な主張は、「動物も”権利”を持つ」というもの。もう少し具体的に言えば、「動物にも生命権・身体の安全保障権・行動の自由権が認められ、それゆえに人間による拘束から自由であるべきだ」という具合です。

「はぁ? 動物に権利?」と思うかもしれないが、そこはひとまず心を開いて、著者の言っていることを聴いてみるべし。

 

人間の持つ権利(基本的人権

まず著者は、人間が持つ基本的人権に言及する。ここでの基本的人権は、憲法で明文化されているものでもいいし、もっと自然権的な発想でもよい。ともかく、基本的人権の中には、諸々の自由権(思想・良心の自由、表現の自由、生命・身体の自由などなど)が含まれており、それによって我々は、不当な拘束や抑圧から守られている。例えば、表現の自由であれば、これは国家からの検閲を受けないことや、政府に自由な表現を邪魔されないことを認めてくれている(この辺の人権理解は、ぶっちゃけてきとーでもよい)

で、著者曰く、人間が持つ基本的人権は、二つの類型に分けることができる。1つは、人間の理性なり、社会性に根ざす権利である。例えば表現の自由は、人間が「表現」を行う動物だからこそ守られる権利である。思想・良心の自由、言論の自由なども、人間が「思想・良心」を抱き、「言論」を行う存在だからこそ、守られる権利である。

これらの「表現」「思想・良心」「言論」の源泉にあるものは何だろうか。何がこれらの活動を可能にしているか。それはずばり、人間の理性的能力である。人間が思考し、言葉を操る存在だからこそ、これらの活動が生まれている。ゆえにこの種の自由権は、人間が理性的動物であるがゆえに認められる権利だと言える。

とはいえ、すべての基本的人権が、人間の理性的能力に根ざしているわけではない。仮にそうだとすると、理性・言語能力が十分に発達していない子どもや赤ちゃんなどには、一切の人権が認められないことになってしまう。そうはなっていないのは、理性以外にも、基本的人権の根拠となるようなものが存在するからである。

では、理性以外にどのような権利の基盤があるかというと、著者曰く、「感覚や意識」である。なぜに我々には、不当な拘束を受けない自由や、生命・身体の自由というものが認められているのか。それはずばり、人間が苦痛を嫌がり、自由を求める存在だからである。本書に即した言い方をすれば、「感覚器官と運動器官を備えているから」ということになる。

なぜ我々は、理性(言語能力や認識能力)の十分に発達していない、子どもや赤ちゃんを虐めてはならないのだろうか。痛めつけたり、閉じ込めたりしてはならないのだろうか。それは子どもや赤ちゃんであっても、痛みを感じる能力があるし、自由を奪われることを苦痛とするからである。彼ら・彼女らのことも、痛みや苦しみから守ろうとするならば、人間の理性的能力ではなく、「感覚器官・運動器官」に根ざしたような”権利”を認める必要がある、という話。

 

基本的動物権

感覚器官・運動器官を備えた存在は、おそらく次のような三つの願望を持っている。すなわち、「殺されたくない」「傷つけられたくない」「自由を奪われたくない」の三種類。

著者はこれに対応させて、3つの権利を提唱する。それぞれ「生命権」「身体の安全保障権」「行動の自由権」である。これらは順番に「殺されない権利」「傷つけられない権利」「自由を奪われない権利」と言い換えられる。そしてこの三種を、最も重要な基本的人権と呼んでいる。

 

<最も重要な三つの基本的人権

  • 生命権:殺されない権利
  • 身体の安全保障権:傷つけられない権利
  • 行動の自由権:行動の自由を奪われない権利
    →意識や感覚を持つことや、自由を求めることに由来する(理性的能力は関係ない)

 

で、よくよく考えると、感覚器官や運動器官を持つというのは、何も人間だけに限られたことではない。牛や豚などニンゲン以外の動物も、これらの感覚を備えている。

だとしたら、人以外の動物にも、こうした三つの権利を認めるべきなのではないか? それが本書(と動物倫理学一般)の核となっている考え方である。著者はこうして、人以外の動物にも認められるべき、上記3種の権利として、基本的動物権というのを提唱している。

 

<基本的動物権>

人以外の動物も持つ、

  • 生命権:殺されない権利
  • 身体の安全保障権:傷つけられない権利
  • 行動の自由権:行動の自由を奪われない権利

のこと(参政権と財産権とか、そういうことまでは言わない)

 

ありうる反論

仮に、著者の言うことに反対して、牛や豚に上記の権利は認められないとするなら、どのようなことが主張可能だろうか(この辺ちょっと、本書の筋からは脱線します。あと「種差別」とか知ってる人は読み飛ばしてよろし)

一つに、人と他の動物は違う、ということは言えるかもしれない。ただ、そこでいう「違い」とは、どのようなものだろうか。言語能力だろうか。あるいは知能や社会性、道具を使う能力だろうか。もしそこで線引きをするならば、先に確認したとおり、子どもや赤ちゃんは、この線引きでは守られないということになる。

「子どもや赤ちゃんは、将来的には言語や道具を操れるようになる。が、動物はそうではない」ということは言えるかもしれない。ただそうすると、脳に障害を負ってしまい、これから先も言語をうまく使えないような人はどうだろうか。そうした人の思考や記憶の能力は、もしかしたら、成熟したチンパンジーなどには劣るかもしれない。その場合に、「知能が認められないから」という理由で、その人に上記3種の権利(生命権など)を認めないことは、果たして正当なことだろうか。

もしこれを正当とせず、なおかつ「人間にしか権利は認められない」とするならば、次のような反論が予想される。すなわち、「人間には、彼ら(我ら)が”人間である”という理由で、生命権などの権利が認められる。それ以外の動物は、それらが人間ではないという理由で、これら権利は認められない」というものである。

これは一見、納得のいく主張に見える。というのも、そもそも権利という概念は、人間が生み出したものなのだから、人間以外に当てはめること自体おかしいのだと。人間の観念を動物に押しつけること、それ自体が人間中心的な驕りなのだと。またこのタイプの主張であれば、「人間だから」という基準を採ることで、子どもや赤ちゃん、障害のある人への差別を回避できる。これは明らかに、「知能」を基準とした場合と比べた利点である。

とはいえ、この主張も、うまく行っているとは言いがたい。というのも、この種の「人間が生み出した概念だから」というロジックは、そのまま人種差別や性差別のロジックと同型であるからだ。

「人権」という思想が出始めた当初、黒人や女性には、十分な法的保護が与えられていなかった。人の権利と書いて人権だが(human right)、彼らのいう「人」の中に、女性や有色人種は含まれていなかったのである(英語だとmanで人/男を表したりもするし)

そうすると、当時の支配階級に属する白人は、次のように言うことが可能である。「我々の言う”権利”という概念は、我々(白人男性)が作り出したものである。だから、それを黒人や女性に当てはめないとしても、何ら問題はない」と。ただ、これは正当な主張だろうか?

もしこれに意を唱えるなら、すなわち、「同じ人間同士、差別を設けるべきではない」と主張するならば、同時に、「同じ有感動物同士、差別をすべきではない」という主張についても、検討する必要は出てくるだろう。もしこれをしないのであれば(「人間であるかどうかが問題なのだ」とするならば)、少なくとも論理の構造上は、かつてのレイシストと同じ過ちをしていることになる。この辺がまあ、「種差別」についての、動物倫理の基本路線である(この辺の話は、どの本を読んでも一通り出てくる)

 

具体的にどうするの?

動物にも3種の基本的権利(基本的動物権)が認められるという、著者の主張をひとまず受け入れるとして、、、じゃあその先で、具体的にどうするの? ということについて。

著者は本書を通じて、畜産動物(牛や豚など)・伴侶動物(犬や猫など)・野生動物の扱いについて、一通り提言している。加えて、動物園や水族館、競馬の問題や、もっと根本的に、肉を食べることや動物実験の在り方についても、基本的動物権を認めるとどうなるか、具体的な言及を行っている。

本書の提言、一言で言ってしまえば、「動物を解放せよ」「人間は介入するな」である。二言になってしまった。

なぜそんなことをいうのかといえば、これまで見てきたとおり、動物にも「殺されない権利」「傷つけられない権利」「行動の自由を奪われない権利」が認められるからである。その考えに即して、各動物への扱いを検討すると、次のような感じになる。

 

畜産動物

  • 牛や豚や鶏の自由を奪うなかれ。解放せよ
  • 当然、我々は肉食を辞めるべき
  • ただし、乳と卵については、めちゃくちゃ頑張れば許容されるかも

実験動物

  • 典型的な「動物実験」(好奇心から殺すようなもの)はNG
  • ただし、例外的状況もあるにはある(そうしないと人が死ぬなど)
  • それを例外に留めておくためにも、国民が実験者を監視する制度(裁判員制度みたいなの)を作ろう
  • 「医学の発展のため」とか言うなら、犬やラットよりも人間で実験した方がいいよ

動物園・水族館

  • 自由奪ってるから当然ダメ
  • 元いた場所に帰すべき(野生復帰訓練も行う)

競馬

  • 競馬産業ではたくさんの馬が死んでいる(現役を過ぎた馬の殺処分など)
  • 賭け事のために、自由を奪って殺すって何? ダメでしょ

伴侶動物(ペット)

  • まず自由を奪うべからず
  • 自由にさせた上で、犬猫が人間に飼われることを望んでいるならば、飼うことは許容されうる
  • ただ、その場合も、飼育を免許制にするなど、様々な条件を満たすべし
  • ペット産業も、大幅に見直すべし(殺処分を防ぐため、飼い主が決まってから繁殖させるなど)

介助動物(盲導犬

  • 虐待にあたるので廃止するべき
  • 人間の介助は、人間が行うべきである

野生動物

  • 人間が野生に介入するな棲み分けろ
  • 畑を襲う獣についても、殺すべからず。柵を立てるべし
  • 境界動物(野良猫や奈良の鹿など)については、一緒に生きる方針を探る
  • 環境開発は、動物の生態を荒らすという点で、よくない

 

本当はもっと詳しく書いてあるけど、そこは本書を読んでもらうとして、まあ大体はこんなかな。とりあえず、「動物を解放せよ(自由にさせろ)」「人間は干渉するな」というスタンスが伝わればよろし。その一応の例外として、人間に飼われる方が幸せでありうるような伴侶動物がいるという感じ。

冒頭で紹介したリス村とかは、著者の批判要素の役満事例やなあと思う。良質な環境を人為的に奪われ、柵で囲われ見世物にされているため。あれを「よくない」と思うなら、牛や豚にも同じことが言えるはず、ということ。

ここまでで、全部で5章ある本書のうち 、4章までをさらってきた。最後の章は、「動物倫理と世界観」というタイトルで、キリスト教や仏教における動物観が紹介されている。個人的に、ここが一番面白かったかな。

 

キリスト教・仏教の動物観

非常にざっっっくり説明すると、こんな感じ(箇条書きで)

 

キリスト教

  • キリスト教は、人間中心主義的な考えを採用しているように見える。例えば創世記には、「地の上を這う生き物をすべて支配せよ」という記述がある
  • が、これはあくまで、原罪を背負った堕落後の世界の話に過ぎない。 そうではない別の解釈もありうる
  • 新約聖書的に旧約聖書を読めば、キリスト教はむしろ、動物の解放を支持しているように見える

…この辺の話は、田上『はじめての動物倫理学』とそっくりであった。

 

<仏教>

  • 基本的に、動物の生命を奪うことを禁じている(ゆえに菜食と相性がいい)
  • ただ、例外的な考えもある。①鈴木大拙の仏教理解、②親鸞悪人正機説、③三種の浄肉説などは、仏教思想でありながら、肉を食べることを認めている
  • とはいえ、これらはどれも、現代において正当化されるとは言いがたい

そんなわけで、キリスト教でも仏教でも、菜食の思想は見受けられるという話でした。

 

非暴力は素晴らしい

本書の最後の節は、「非暴力はすばらしい」となっている。動物に権利を認める考え方は、「非暴力」の典型であるのだと。そして非暴力が素晴らしい以上、動物権理論もまた素晴らしいという話をしている。誰にとって素晴らしいかといえば、人間にとって素晴らしいのである。

動物に権利を認めるというのは、何よりもまず人間に権利を認めるということなんですね。人間も動物であるので。何を当たり前なことを、と思うかもしれないが、「すべての人間が基本的権利を持つ」という発想は、それほど自明なものではない。人種差別の歴史が示すとおり、これはかつては全く当たり前になっていなかったし、現在でもおそらくそうである。日本でも、相模原の障害者殺傷事件などで「意思疎通の取れない人間は安楽死させるべきだ」ということを犯人が言っているし、これは要するに、「人間は人間であるがゆえに尊重に値する」という思想すら揺らいでるわけなんですよね。

こうした、「正常な人間だけが生きるに値する」という思想を崩すことに、動物権理論は貢献する。なぜなら、すべての動物を尊重するということは、すべての人間を尊重するということでもあるからである。

「動物にも権利を認めよ」という主張は、まるで動物vs人間の対立を生み出して、あたかも人間を貶めているようだと、そう考える人もいる。が、著者の見解はそうではない。動物権理論はむしろ、人間にも優しい理論なのである。一箇所引用しておこう。

 

 

…動物に共感し、動物の権利を正しく尊重する人は、やはり相手の動物が何種に属すのであろうと、相手を虐待しないでしょう。ということは、人間に対しても暴力的犯罪を犯さないと考えられます。ですから、もし人々が動物に優しくなるならば、人間にも優しくなって、人間に対する暴力的犯罪が減るでしょう。このように他の動物にも人間にも暴力を働かない——これが、動物権理論が抱く非暴力の理想です。
(本書、p192より)

 

繰り返しになるが、「動物権理論」は別に、人間と動物を対立させ、動物の方に重きを置く理論ではない。 そうではなく、両者に平等な配慮をしようというものである。ゆえに、色々と人間の行動を改めさせるものではあるけど、根本から対立を生じさせているわけではないという話。

 

 

以上

ここまでが、僕なりの補足含む、本書のだいたいの内容紹介となる。動物倫理全く知らんという人にも配慮したので、それなりに長くなってしまった(めっちゃ長いよ)。

最後に、この本への個人的感想などなど。

本書は、動物倫理の「入門書」となっている。「入門書」ということは、はじめてこの分野に触れる人に向けて書かれたものということであり、多くの初学者の疑問に答えたものとなっている。なっているはずである。

なっているはず、なのだが、個人的には、その「入門」の試みが成功しているかについては多少疑問が残った。

一番の要因は、語り口が冗長というところにあるかもしれない。本書は話し言葉で書かれていて、読者に語りかけるような文体となっている。例えば、「私がこう言うと、皆さんは、○○○と思うかもしれませんね」といった感じ。

で、この「皆さんは、○○○と思うかもしれませんね」というところ、個人的には「そうか?」と感じるところが多かった。いや、そんなことは思わんよというか。で、特に疑問にも思っていないところで長々と解説が続くので、「冗長」という印象が残った(どう感じるか、個人差はあると思います)

あとはまあ、そんな感じで、全体的にすっきりしていないという印象がある。ところどころ、著者の「おっと、ちょっと待ってください」とか、「○○って何でしょうね」「よく分からないです」とかが入ってくるので。話し言葉が好きっていう人にはいいかもしれないが、普通に動物倫理を知りたい人にとっては、鬱陶しいとさえ思えるかもしれない。

あと個人的には、p8なんかの「自然的発展」という言葉の使い方も気になったけど、、、、 あと三種の浄肉からの現代批判が当たっているのかとかも、、、まあそういう細かいのは置いておきます。

細かいのは置いておく、のだけれど、動物倫理学の入門書にとって、こういう「細かいところの疑問」って、非常に大事だと思うんですよね。どんなに些細な突っかかりだろうと、無視してはならず、解消しておかなければならないというか。

というのも、動物倫理において我々は、基本的に「肉を食べるのはもうやめよう」と訴えかけられるわけですね。自分たちの日常的な実践について、「それは不正ですよ」と横から口を挟まれるわけである。

これは大半の人にとって、不愉快なことである。不愉快なことをされると人は、相手の粗を探したくなる。僕は特にそうで、「粗探しが生きがいの人間」アラジンと呼ばれたりもする。で、粗を見つけられると、「やっぱり言っていることおかしいじゃん」「ゆえに今後も肉食べます」とかになりかねない。

で、大半の人を不快にさせる議論だからこそ、小さな疑問にも細かい配慮と対応をすべきである。というのが、僕が動物倫理学に対して思っていることです。その点が本書でなされていたかどうか、、、、

それは、読む人各々が判断すべきことであって、僕がとやかく言うことではない。のだが、ここは僕のブログであって、王は僕であるので、ちょっと思ったことをぼやくとすると、「微妙かなあ」と感じるところがありました。 

 

長くなってしまったけど、そんな感じです。

 

ベジタリアン哲学者の動物倫理入門

ベジタリアン哲学者の動物倫理入門

  • 作者:浅野 幸治
  • 発売日: 2021/03/10
  • メディア: 単行本
 

 興味のある人は、ぜひ買って読んでみてください。

 

 

betweeeeeen.hateblo.jp

 ↑ついでに、個人的初学者向け動物倫理本のおすすめも紹介しています。

 

たくさん書いて疲れたので、今日はこの辺で。

そういえば、先日、アースデイin京都というイベントに行ったりしてきました。

earthdayinkyoto.com

こういうイベント、シンプルに楽しいので、皆さんもぜひ行ってみましょう。