浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

innocent world、千葉大学散策、名古屋訪問、哲学は不健全な学問か?:10月の振り返り

ども〜〜  めっきり秋めいてきたこのごろ、皆様いかがお過ごしでしょうか。僕は最近の蚊の多さにビビっています。あいつら今が一番元気。

そして今年の紅葉はどこを見に行こうかと考えています。都立庭園美術館などが狙い目でしょうか。

www.teien-art-museum.ne.jp

さて今月もやってまいりました、10月の振り返りです。日頃、ちょっとずつ書き溜めているその日のメモを、月末にやや手直ししつつ放出する回です。今月は旅行で電車に乗っている時間などが長く、その分たくさん書いたと思う。あとやたら暗いことをたくさん書いた記憶がある。まあそういう月もあるということで、日記メモ、放流していきますよ!!

 

 

 

10/4(金)

只の静止ではない!

超高速で回転するコマは静止して見えるのだ!

山口貴由覚悟のススメ』10巻著者コメントから引用。

ebookjapan.yahoo.co.jp

最近はこれが仕事の流儀。「ただの定時退社ではない! 超高速で回転するコマは静止して見えるのだ!」 そんな社会人がいたらカッコ良すぎる。

「近頃じゃ夕食の話題でさえ仕事に汚染よごされていて.....」と歌っていたミスチルの気持ちがよくわかる。この頃仕事が忙しい、というか悩ましい。悩みが多い。あまり仕事のできない人々によって、どこかに皺寄せがいっており、大抵それは立場の弱い者たちへと行くのだが、「仕事のできない人を責めてはいけない」という風潮のもと、身内を庇う精神が発揮され、能率も悪く特に自己反省もないような仕事のできぬ人はそのまま放置され、そのことで外縁への皺寄せは止まらず、皺寄せを受ける非正規職員の方々がどんどん離職し、それをなんとかしようとする問題意識の高い人のところへは過度に仕事が集中してしまい、結局その人も疲弊し、「仕事のできない身内を庇う」という風潮だけが温存されるということが、どんな職場でも起こっているのでしょうか(我が職場で起きているとは言ってませんよ)。暗いな!!

働き始めた頃に、「仕事は研究と違って、定時という概念があるのが新鮮」ということを書いた気がする。院生時代は四六時中、食事の時も寝る前も研究の悩みが続いていたが、仕事は定時を迎えれば「はい仕事のことお終い〜〜」と頭を切り替えられるのが良い、ということを当時は考えていた。が、この頃はそれも失われている....... 夕食の話題でさえ仕事に汚染されていて、、、よくない傾向なので断ち切りたいですね。


www.youtube.com

次からは明るい内容をメモる。そして虹の彼方へ放つ。

 

 

10/5(土)

f:id:betweeeen:20241006021356j:image

千葉大学・西千葉キャンパスに遊びに行ってきた。

特に意味もなく、ただキャンパスを散歩しに行った。

f:id:betweeeen:20241006021420j:image

「このごろ国立大巡りをしていて、次は千葉大に行ってみたい」という話を職場の同期にしたところ、その同期の妹(千葉大生)が大学を案内してくれた。どゆこと???? しかし、大変感謝です。

千葉大学西は、緑豊かで、あまり主張の強いところがなく(タテカンや目に見える荒れ事などがなく)、バランスのよい大学だった。長らく行ってないが、地元の新潟大学も確かこんな雰囲気で、「地方国立らしさ」というのがどこかにあるのかもしれない。各大学を巡って「地方国立らしさ」なるものを解き明かす旅、出たい。パーティーメンバー募集中。

千葉大はいいところだったが、しかし、百万の蚊軍がいた。本当に蚊が大量にいた。こいつらさえいなければ、自然の中でゆっくり時を過ごせると思う。10月なのに蚊だらけで、それだけは困った。

千葉大学西千葉キャンパス 評価】

自然度:★★★★☆

人工物度: ★☆☆☆☆

秩序度:   ★ ★ ★☆☆

カオス度:   ★☆☆☆☆

f:id:betweeeen:20241006022520j:image

教育学部のところにあった像。

前になんだったか、大学に関する雑誌を読んだ時に、ある教員が自分のキャンパスに対して、「こんなに大学内に裸婦像が置かれてるのはどうなんだ」という問題提起をしていた気がする。まあ確かに、なんで大学に裸の女性の像が置かれているの? とは思う。その記事ではそこから、そういうところから大学内の女性の過ごしやすさを変えていかねばならないのでは、ということを訴えていたと思う。どこの大学だったかは忘れてしまった。

上に挙げた写真の像は、一目見ると女性をモチーフにしてそうだが、タイトルは「巻貝の芯もしくは女」とのこと。いいモチーフだと思った。しかし、パット見でこれを女性っぽいと思う我々の心こそ、ジェンダーバイアスに囚われているのだと、この像は訴えたいのかもしれない(それは穿ちすぎか)。で、この像を見て、「大学内の女性銅像を論じた記事があったなー」ということを思い出した。みなさんはどう思いますか?

f:id:betweeeen:20241006023400j:image

「サイエンスブロムナード」にも行った。千葉大理学部内にある小さな科学博物館のようなもの。お昼を食べた後だったこと、だいぶ歩き疲れていたこと、蚊に大量に血を吸われていたことが災いして、全く頭が働かず、あまり理解できなかった。

千葉大はそんな感じ。次に私が現れるのは、あなたの大学かもしれません。

 

10/10(木)

われらのとるべき道は、理不尽に忍耐することでなく、理不尽に必勝することである。

山口貴由覚悟のススメ』第1巻(完全版)より引用。

この頃、仕事が忙しいという話をまた始めそうになってしまった。反省。できるだけ明るい話をするのだった。

 


www.youtube.com

ネバヤンの「明るい未来」でも置いとくか。

 

明るい話、ないな。。。

久々にネバヤンを聞いたらこの曲は、死すらも明るい未来にカウントしてて、すごいなーと思った。「たとえ僕らが死んでしまっても〜 あっちでも仲良くやろう」だって。

PVではひたすら仲の良いカップルが映されるのだが、こういう時こそ、明るい未来ではなく「終わり」や悲劇・絶望を想起してしまう。2人がスーパーを歩いていると、包丁握った通り魔にめちゃくちゃにされるのではないかとか、飲酒運転のトラックが突っ込んで来て理不尽に殺されるのではないかとか、実は、2人は異母兄弟であることが発覚して、近親姦の重みに耐えられず兄は首を吊り妹はドラッグ依存になるのではないかとか。明るくない未来のことばかり考えてしまう(それにしても明るくなさすぎる)。

通り魔でもトラックでも悲劇でも、自分の外からやってくるものに振り回される生活はつらい。「 われのとるべき道は、理不尽に忍耐することでなく、理不尽に必勝することである。」という一文は、またしても覚悟のススメからの引用なのだが、最近はこのメンタルを仕事でよく感じる(また仕事の話してる)。

自分のコントロールが全く及ばない侵略物のことを理不尽と呼ぶのなら、最近の仕事は特にそういうことが多い。そんなものには耐え忍ぶしかないのだが、しかし「われらのとるべき道は、理不尽に忍耐することではなく必勝することである」ということを信条とするのなら、なんとか頑張れる気がする。ただ耐えるのではなく、少しでもコントロール権を取り戻そうと、足掻くことが大事。

呪術廻戦で言うならば、来たものをただ打ち落とすだけの落花の情ではなく、攻撃にも転ぜられる簡易領域を使うことが大事ということになる。来週、仕事で、新入職員に仕事のあれこれを教える機会があるのだが、「 落花の情ではダメだ、簡易領域を使えるようになれ」ということを話そうと思う。降りかかる業務はそれで叩き潰し、理不尽な上司の怒りは、領域展延で中和しよう。余裕のある空間を作って、そこに他者の怒りを流し込むことが大事。これが呪術から学べる教訓。

 

10/12(土)

電車の中から書いている。

自分のはてなブログを開くと、PCなら右側、スマホなら下の方に「アクセスの多い記事」というのが出てくる。これは僕がセットしているわけではなく、はてなブログが自動で作ってくれているもの。ここを見て僕自身、この記事に今アクセスがあるんかいって思ったりしている。

betweeeeeen.hateblo.jp

人気の記事に、上記「秋なのでスピッツを聞きましょう」が上がっている。これは2021年に買いた記事で、去年もその前の年も、特に秋だからといってアクセスが増えてた様子はなかったと思うが、今年は多いらしい。なぜ.......

久しぶりに過去の自分の記事を読み返すと、本当に面白いと思う。自分で面白いと思ったものを書いてるのだから、自分で読んで面白いと感じるのは、自画自賛と言うよりは論理的必然です。しかし面白いな。

この記事を読み返すと、「この時の精神を忘れてしまってるなあ」と感じる。この時は、ブログを書くときは、何か面白いことをしてやろうという気概があった。だから唐突なハカセとか登場させてるし、なんか今よりもっと自由な感じがする。

それに比べると最近のブログ更新は、すっかりルーティン化してしまって、自由に飛んでいる感じがしない。もちろん、読書感想は書いてて有意義だし、書いてる時は楽しく感じるのだが、もっとふざけてもいいのかもな。伏黒が領域展開にチャレンジしたときのように。また呪術廻戦の話してる。

まあ、悲観的なことばかり書くのは良くないな。

 

 

10/20(日)

f:id:betweeeen:20241021000933j:image

ここはどこでしょうか??

正解は名古屋大学東山キャンパス。現在絶賛工事中らしい。

10/19が名大のホームカミングデーで、母校ということも兼ねて遊びに行った。7月にも遊びに行ったので3ヶ月ぶりの来訪。来すぎである。

出身ゼミのOBOG会というものを初めて企画して、実施した(偉すぎる)。OBOG会、人を呼んだり会場探したりも難しかったが、一番の難敵は、カンパ代の徴収・調整だった。これが本当に難しい。

OBOGだけでなく現役生も呼んでたのだが、できれば現役生の参加費は少なくしたい。まだ学生だしね。しかし、僕もそうだが、わざわざ東京から名古屋に来ている人に追加でお金を取るのも忍びなかった。だから「多めに出してください」とも言いづらい。集めすぎてもどうする? という感じだし。困った。

今後OBOG会を企画したいという方は、カンパ集めが難解ということは念頭に入れておこう。

 

お金を出し合うことを「カンパする」と言いますが、これはロシア語の「kampaniya(カンパニア)」の略です。

本来のロシア語のカンパニアは「政治的な活動や闘争」を意味し、目的達成のために「大衆を先導するような組織的な活動」のことを指します。そこから目的達成のための資金集めという意味で「カンパ」が使われるようになったそう。もちろん、現在では政治的な目的以外でも使われます。

https://www.rarejob.com/englishlab/column/20220420/

へえー。

 

www.law.nagoya-u.ac.jp

名古屋大学法学部には、EQUIP Miraiというプログラムコースがあり、こっちもこっちで同窓会があった。ゼミの集まりより、こちらに参加したときの方が思うところが多かったので、今日は追加でその話も。

EQUIP Mirai、というよりは僕の研究コミュニティ遍歴については、いずれしっかりした記事を書きたいと思っているが、今日は簡単にこのプログラムの説明でも。当然だが、ネットで検索してもEQUIP Miraiについて書いてる人はおらんかった。僕がちょっとぐらい紹介してもよいだろう。

EQUIP Miraiとは、2017年ごろから始まった名古屋大学法学部のプログラムで、その趣旨は「研究職の志望者を増やすこと」。名古屋大学は法曹志望者はそれなりにいるのだが、研究科の大学院に進む人は本当に少なく、その危機感を持って作られたプログラムらしい。ただ実際は研究志望者を「増やす」というより、学部時代からなんらか大学院というものに触れてもらおうというプログラムで、そこまで研究職志望者は増えてないと思う。

これに参加すると、自習室がもらえたり、研究発表の機会をもらえたりする。

ゼミがあくまで、近しい関心分野の人々が集まって、学術的方法なども共有されているのに対し(判例を分析するとか歴史検証するとか)、このコースでは実定法から政治学までいろんな分野の人が入り乱れるので、議論の方法も多様なものとなり、そこが新鮮だった。学部2年の後期から卒業するまで最大2年半過ごすことができ、色んな人に出会えたので、僕としては大変思い入れの深いプログラムである。

で、その同窓会が先日あった。同窓会では、2個上の先輩で研究員として働いている方の発表を聞くことができた。感想としては「ちゃんと専門性を活かしているのだなあ」だった。当たり前だけども。

僕は現在大学の一般事務職を勤めており、ジョブローテーションということもあり、専門性はあんまりない。「今後は大学職員にも専門性が必要だ」という話を方々で聞くが、同期や周りを見ても、そこまでその機運が高まってるとは感じられない。あくまで、今でも何でもこなせる一般職が求められているという印象。

ただ今回、同窓の方の話を聞いて、「組織に言われるままに、なんとなく何でも屋さんになっていくだけでよいのか?」という意識を強く持った。やはりなんかしら、自分の強みとなる専門性を持って、そのことでもっと自立して頑張っていくべきではないかと....... 自分もこのような特殊なプログラムを出て、せっかく大学院にも進学したのに、何の専門性も持たずにただジョブローテーションに流されるまま便利屋さんというのは良くないなーーとか。偉いな。

大学院を出たばかりの頃は、そういう気持ちを常に抱いていたが、近頃じゃ夕食の話題でさえ仕事に汚染されていて、、、様々な角度から物事を見ていたら自分を見失っていたのかもしれない。


www.youtube.com

まあそんなわけで、今回の名古屋来訪で、もっと勉強を頑張ろうと思った。いずれは「本を出す」という夢も持っているので、しっかりその夢に向かって行きたい。

 

10/22(火)

今日はこの本を読んでた。大変面白い。

天文系の物理学者と哲学者(倫理学・科学哲学者)が、互いの噛み合わなさを本気でぶつけるというもの。基本的には「科学者から見たら哲学はこんなにおかしい」という構造で、最初の方は哲学者側も「確かにね〜」「一部そういう悪いところはあるよね〜」という感じなのだが、途中から互いに血管がブチブチ浮き出てるんじゃないかと思うほどレスバトルしていて、面白い。

職場で近くの席同士の人々が、ガチトーンで言い合い寸前みたいになってる時の緊張感・気まずさのようなものが、この本にはある。終始ハラハラするが、その分飽きずに読める。久々に100ページ以上をぶっ続けで読んだ。

少し感想を書くと、序盤に科学者の側から「哲学者のコミュニティって、学術的な意味では不健全じゃない?」という指摘がある。「過去の人を勝手に権威化して意味のない議論を続けてるだけ」とか、「相互批判の精神が無い中でお互い空虚な議論を続けているだけ」とか、そういう事が言われる。

で、我が身を振り返ってみると、大学院に行ったことで、いろんな研究に対し「そういう良さもある」ということを思えるようになったんだなあと思った。同書では科学者の側が、一部の哲学や現代思想の分野を指して「やる意味がない」「学問として健全ではない」というふうに腐すのだが、僕も学部3,4年の頃は、哲学(特に大陸系)や精神分析系に対して同じことを思ってた。やたら難解な言い回しで、もったいつけて空虚なことを言い合ってるだけだろと。

ただ、大学院で3年過ごす頃には、「そういう分野の良さも確かにあるよなあ」と感じるようになっていた。M1ぐらいまでは、学術的な議論においては分かりやすく書くことが「良いこと」「正しいこと」で、それができていないだけならまだしも、「やろうともしていない」というのは、ただの怠慢や不誠実だと思ってた。本書でも科学者の側から同様の指摘がされている。

ただこれはあくまで、分かりやすさという一つの指標を重視した時の立場にすぎないよなあと。「そうじゃない学問があってもよい」とは思うようになった。結局は己の関心に沿ってしか研究はできないのだから、分かりやすく書こうとすることでそれがこぼれ落ちてしまうなら、そうじゃない指標があってもよいだろうと。一つの基準を押し付けるのも良くないっすね。大人になったのかもしれない。

とはいえ、自分自身は「わかりやすく」書きたいとずっと思ってるし、分かりやすい文章をケロっと書ける人こそ本当に尊敬する。そこは変わらないのだが、やや懐は深くなったかもしれないという話。

まだ全部は読めてないので、近日中に読み終わりたい。しかし、ハラハラ感がすごすぎるんだよな。

 

 

 

以  上  !!

以上、10月の振り返りでした。今月は多めにメモを書いてたなあと思います。

メモは10/22までだけれど、その後も、神保町の古本まつりに行ったり、衆議院選挙に投票してきたりと、いろんなことがありました。10月は結構楽しんだのだと思います。なんか書いてることはやたら暗いけどな!!!

11月は、前向きなことを書いていきたいですね。例えば、こんな秋の味覚が美味しかったよとか。それができればみんなハッピーだ。

 

海も見に行ったよ。葛西臨海公園