浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

今の人生をもう一度生きたいか?:森岡正博『生まれてこない方が良かったのか?』途中感想

嫌な就活あるある:「合否にかかわらず連絡します」とかの記載がないので、落ちてるかどうかすらよくわからない。

そんな日々です。

 

最近、またぼちぼち、森岡正博『生まれてこない方が良かったのか?』を読み進めております。現在6章まで読み終わり、残すところ終章の7章のみ。

 

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

  • 作者:正博, 森岡
  • 発売日: 2020/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

この本、3~5章ぐらいが非常に細々していて、けっこう読むのがしんどかった。何の話をしているのかよく分からず、読み飛ばしたところも多し。6章のニーチェからはまたそれなりに理解が追いついたので、おもしれえおもしれえ思いながら読んでいる。

「生まれてこない方が良かったのか?」というタイトル通り、反出生主義の問いに答える本となっている。反出生主義とは大雑把に言えば、「生きることには苦痛が伴うので、そんな苦しみを味わうぐらいなら、いっそのこと生まれてこない方がマシ」というもの(苦痛云々言わないタイプもある)。

西洋ならショーペンハウアーギリシアの詩人たち、東洋ならブッダがこの思想に到達していた。彼らの考えでは、「最もよいことは、生まれてこないということである」となっていた。この考えは「誕生否定」とも言われている。

で、これに対してニーチェ(6章で登場)は、生きることを全肯定した人間であった。誕生否定を唱える思想家たちは、この世に苦しみがある以上、人間は生まれてこない方が良いと考える。が、ニーチェはそうやって、苦しみを単体で取り出すことを否定した。すべてのものを根底で繋がっていると捉え、苦しみもまた、喜びの一部なのだと考えていたらしい。そして、苦しみだろうとなんだろうと、この世にあるものを全肯定する思想を打ち出していたらしい。苦しみも丸ごと愛せ、というわけである(雑すぎる紹介)。

 

反出生主義にNOと言う中で、ニーチェはまた、永遠回帰という考え方を採用していた。永遠回帰というのは、簡単に言えば死生観の一種で、我々は死を迎えた後、今生きた人生をもう一度生き直すという考え方のこと。いわゆるループものである。我々が経験した苦しみも喜びも、死後にもう一度、否何度でも、そのまま全く同じにやって来るという捉え方である。

で、もしそのようなループする人生に対して、「イエス」と言えたなら、それすなわち自分の人生を肯定できたということになる。今のこの人生が、次もまた、そしてあと何回繰り返されてもよい...... そう思えることこそが、生きることの肯定なのである。そうなれるように頑張りましょう!、ということまで言われていたかどうか、、、多分言われていたと思う。我々、自分の人生がもう一回やってきても良い、そんなふうに思えるような生き方をするべきなのである。

 

出会う不幸、出会わない幸福

今日もお風呂に浸かりながら、このニーチェパートを読んでいた。読んでいると、どうにも暗くなってしまう。

自分の人生を振り返ってみて、この人生をもう一度生きたいかと問われれば、そうでもないというのが正直なところである。全否定まではしないが、全肯定できるようなものでもない。もし仮想空間とかで、誰かの人生を一から追体験できるとしたら、自分以外のを選ぶんじゃないかなあと思う。つらいこととか、悲しい思い出がたくさんあったので。

僕が高校時代にハマった漫画の一つに、イティハーサというのがある。だいぶ古い漫画で、母親に勧められて僕も読んでいた。

 

イティハーサ (1) (ハヤカワ文庫 JA (639))

イティハーサ (1) (ハヤカワ文庫 JA (639))

 

 で、この漫画の中に、次のようなセリフがある。

もしほんとうに御魂(みたま)が生まれかわるものなら...
おれは きっとまた...

出会わぬ幸福より
出会う不幸を選んでしまうでしょう...

輪廻転生について言及したもので、手酷い失恋をした男が言っているものである。この男、どうようもなく好きな女性がいたのだが、最後までその人と結ばれることはなかった。そのことで闇堕ちしたりするのだが、最後の最後まで、「たとえ出会わない方が幸福だったとしても、それでも出会う人生を選んでしまう」と言いきるのである。かっこいい。

これ要するに、ニーチェの言うところの誕生肯定じゃね? ということで、久しぶりに思い出していた。出会ったことで苦しみが生まれたとしても、出会わない人生よりはそっちを選ぶ...... これは反出生主義の主張、すなわち「生まれてくることは苦しみであり、ゆえに生まれてこない方が良い」に対するアンチテーゼにもなっている。

「出会わぬ幸福よりも、出会う不幸を選ぶ」。この心境、わかるようでわからないというか、わからんようでわかるという、よくわからんところがある。僕としては、可能な限り苦しみとか不幸は避けるべきであり、そういうもののない人生を選べるなら、やはりそうすると思う。わざわざ苦難の多い人生を選ぶ必要がないというか。その意味では、反出生主義との親和性は高い。

が、試しに「あの人と出会わぬ人生」というのを想定すると、、、はっきり言って、出会ったことで苦しみしかなかった気がするのだが、それでも、バッサリ切り捨てることにためらいがあるのであった。これは、なんでなんでしょうねぇ。やっぱり自分の人生の一部になっているから、なんですかね(ちなみに失恋の話をしております)

映画「エターナル・サンシャイン」的に、苦痛に満ちた記憶を消せるなら、やはりそれを選ぶと思う。現実として可能ならそうする。その辺についてはあまり迷いがない。ただ、新しい人生を選べるというときに、全く出会うことのなかった人生を生きたいかと言われれば、、、そこでは複雑な気持ちになるので、なんだか不思議である。センチメンタルな気持ちになってしまった。

 

というわけですよ

今日は森岡正博『生まれてこない方が良かったのか?』関連でした。

反出生主義、、、必ずどこかで、取り組まなければならない思想だと思っています。本当に、いろんなところに通じていると思うので。人生観とか生命倫理に関わってくるし。

ただ、考え出すと自分の人生振り返って暗くなるし、そしてその暗さの要因は過去の恋愛のあれこれだったりするので、読んでる側としても「書くならもっとはっきり書けや」とか、「いやそんなもん聞かされても(^_^;)」って感じなのではないかと思う。非常に歯切れが悪くなってしまうので、この話題はこの辺にします。

何が言いたかったというと、皆さんも”永遠回帰”、すなわち「今の人生をもう一度生きたいか?」について考えてみるべし、ということです。今日はそれが言いたかっただけなのです。そして、そう思えるように生きるということが、果たして可能なのか、、、 まあ、可能にすべく頑張りましょうという話ですね。つらい思い出も生きる力に変える云々。頑張ります。