浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

結婚についてのあれこれ:『最小の結婚』読書前感想

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昨日から、エリザベス・ブレイク『最小の結婚 ——結婚をめぐる法と道徳』(白泉社)を読み始めた。

最小の結婚: 結婚をめぐる法と道徳

最小の結婚: 結婚をめぐる法と道徳

 

 

「結婚」というものについて、道徳哲学・政治哲学の観点から考察したもの。カバーの可愛らしいイラストとは裏腹に、内容はエグいほどアカデミック。全体で400ページ近くあるうえに、なんと二段組み。メモとか挟みながら読んでいるが、読み終わるまで相当かかりそう。内容的にも結構難解である。

で、今日はこれを記念して、僕が結婚についてどう思っているかを簡単に書いてみようと思う(なんの記念?)。ちょうどこのところ、家族や結婚・夫婦関係について考える機会が多いので。この前紹介したイリゴエン『フランス人の新しい孤独』もカップル関係あれこれだったし、明日は家族をテーマに同期との勉強会がある。我々の社会に目を向けても、現在、国会では夫婦別姓の議論が熱い。その辺や本書を踏まえた上で、「結婚」というのをどう捉えているかなどを、簡単に書いてみます。書けるものならね。

 

本当ならこの本を読破したあとにしたかったのだが、正直いつ読み終わるのかわからない。というか、感想を書けるレベルで理解できるかも微妙だ(今30ページほど読んだが、割とついて行くので精一杯である)。それに加え、この本はかなり網羅的に議論を展開しているので、読む前と読んだあとでだいぶ考えが変わりそう。ということで、いったん読む前の所感を記しておきます。

あちこち話が飛ぶかもしれないけれど、思っていることはできるだけ書いておこうと思います。そしてこの分厚い本を討伐したあとでもう一度振り返ってみよう。

 

「無理に結婚しなくていい」の意味するところ

みなさん、結婚したいですか? というか結婚してますか?

上記の『最小の結婚』の序盤で、「結婚の脱道徳化」という言葉が出てくる。脱道徳化とはなんぞや。これはかなり砕けた表現で言えば、「理想的に語られがちだけれど、結婚ていうほど素晴らしいものかね」といったものだ。結婚は道徳的に重要なのか、という問いが立てられている。もうちょっと雑に突っ込むと「別に無理して結婚しなくてよくね?」ということになると思う。

「無理して結婚しなくてよい」と聞いたとき、どんなことを思い浮かべるだろうか。一つに、「無理に法律婚をする必要はなく、事実ふたりがパートナーとして愛し合っていれば十分だ」という見解があり得る。いわゆる事実婚の肯定論だ。

そしてもう一つに、「別に誰かと連れ合う必要はなく、独身を謳歌すればいい」という見解があり得る。こっちはシングルライフの肯定である。どちらかというと、こっちの話を思い浮かべた人の方が多いんじゃないかと思う(少なくとも僕はそう)。結婚というのはギスギスドロドロ人生の墓場なんだから、避けた方がいいという話である。

ここには二つの軸がある。一つが「法律婚事実婚」、もう一つが「カップル⇔シングル」の軸。で、『最小の結婚』では、どちからというと「法律婚事実婚」が中心的な議論であり、次のような問い、すなわち「なぜ法律婚には特権的地位が与えられ、事実婚はその下に置かれるのか」という観点で、結婚の脱道徳化が説かれている。

ただ、僕が結婚の価値的な話をするときは、後者を念頭に置くことが多い。僕は結婚願望を持っているが、それは「事実婚より法律婚がよい」という話ではなくて、あくまで誰かと情緒的な関係を持てればということ。そして「法律婚事実婚」の話なら、結婚しなくてもいいんじゃない? と言われることも納得だが、「カップル⇔シングル」的な意味では、あんまりこれが言われて欲しくないなと思っている。やっぱり我々、結婚に『夢』を託しているところがあるし、僕も結婚に希望に賭けている人間の一人である。だから、この意味での「結婚しなくてもよくね?」には反発したくなるという話。

 

なんで結婚したいの?

なんで結婚したいんですかね。シンプルに答えれば、「独りで生きていくのが嫌だ」ということになると思う。今年で一人暮らしを初めて5年になるが(もうすぐ6年)、正直もう飽きてきた。昨日炊いた冷や飯を食べたり、小バエが出るまで生ゴミを放置したり、誰も待っていない部屋に帰ってきたり、そういう同じことの繰り返しでループループしている。この先もずっと続くのかと思うと嫌になる。もちろん、一人暮らしは基本的に楽しいので、誰かと暮らすよりずっとストレスフリーかもしれない。のだが、いい加減飽きてきたというか、何か変化が訪れて欲しいとは思っている。

あとは、所帯を持って親を安心させたいという気持ちもあるにはある。一応僕は長男なので。親からもそれなりにプレッシャーをかけられる(そのうちお見合いの話とかも持って来られるかもしれない)。「親を悲しませたくない」という気持ちは人並みにあるので、いい報告をして親を喜ばせたいものである。とはいえ、姉が結婚して子どもを産んで以降、僕への期待度は見るからに下がったので、最近はそんなに気にならなくなった。

そして最後に、これが最も核心的な理由であるが、”普通の生活”とか”普通の幸せ”に憧れるということがある。結婚すれば幸せが手に入るというのは、明らかにナイーブな発想である。それはわかっているつもりなのだが、、、どうしてもそこに夢を託してしまう。何か自分にかけているものが得られるんじゃないかと。多くの人が「結婚なんてするもんじゃない」と言っているが、それでもやはり、人生の喜びとか、人間としての満足とか、そういうものが手に入ることを期待してしまう。この辺はアグレッシブ烈子のシーズン2で出てきたので、見るべし。

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あともう一つだけあった。どうせ自分が結婚できる見込みが薄そうなので、あえて「結婚したい」と言っているところもある。結婚できなさそうな人間が、「結婚なんて無価値」って言うのって、あまりに簡単すぎるじゃないですか。その辺はできるだけ抗っていくというか、ちゃんと前向きな目標を設定しているのである。まあ実際独りは嫌だしね。

 

結婚のあれこれ

そんなこんなで個人的な結婚願望を露呈した。これを学問界隈に繋げると、リベラル界隈は、こういう人には割と冷たいことが気になる。左派の間では、婚姻の理想化は推奨されないというのが、コンセンサスとしてあるようにも思われる。結婚願望に縛られてるなんて窮屈だね、的な。

これには多分、結婚が概して抑圧的な制度であったことも関連する。女性を家庭に閉じ込めたり、男性優位な空間を作ったり、主に女性の姓を強制的に変えさせたり。あと、「結婚は素晴らしいですよー‼」と喧伝されると、未婚者が生きにくくなるという問題も指摘される。その点で、左派は個人の自由なライフスタイルを守るために、あまり結婚の価値というのを強調しない向きがあると思う。
(ただ、同性婚の議論だとちょっと別で、「誰にでも結婚の自由を」と言われたりする。が、ひとまずその辺の話は置いておいて)。

対して、右派は結婚の価値だとか、「伝統的家族観」というのをよく強調する。自民党の動きを見ていると、「婚姻関係は男女に限る」「夫婦は同姓を名乗るべし」という考えが根強いようだ。左派に比べれば、結婚の持つ道徳的な価値というのを強調しているだろう。そしてこうした「伝統的家族」が変化に晒されることを嫌がる。なぜなのか?

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↑のリンクは、この間の国会での夫婦別姓議論に纏わるもの。ここの丸川氏(夫婦別姓への反対を呼びかける文書に署名している)の発言で、次のようなものがある。

——なぜ夫婦別姓に反対したのかを問われて

丸川担当相「この問題についてはこれまでに非常に幅広い議論がなされておりまして、夫婦の氏に関する具体的な制度のありかたについては、夫婦の選択的別氏制度、あのなかなか、通称使用と別氏もまだ、国民のみなさまのすべてが理解されているわけではないと思いますので、まず、自分ごととしてこの問題を捉えていただけるような、活発な議論、しかも、自分ごととして深く考えていただく議論を後押ししたいと思っています」

 

丸川担当相「かつて私がもった意見というのは、あの、まあ家族の一体感について、議論があって、これは家族の根幹にかかわる議論なのだな、という認識を持ったからです」

この辺を見るに、右派が現状の婚姻制度に拘る理由として、「国民の感情」「家族の一体感」は挙げられそうである。すなわち、夫婦別姓は「広く国民の同意が得られていないから」できない、あるいは「家族の一体感を崩すことになるから」すべきでないということになる。

これには左派の側から徹底的に反論が出されている。上のリンクにある福島氏の発言は模範だろう。それは以下の通り。

福島党首「同姓でもいい、別姓でもいい。選択肢なんです。夫婦別姓を選択的に認めたからといって、天変地異が起きるわけでも、誰かが損をするわけでも、犯罪が増えるわけでもありません。一般の人たちが通称使用をするのにもものすごく苦労をしている。その苦労をご存知ですか?」

右派は家族の一体感が綻ぶことを恐れるが、左派はそれに根拠がないことと、個々人が抱える苦難に目を向ける。そして右派にこう問いかける。「同姓が強制されることで、実際に苦しんでいる人がいる。他方、夫婦別姓が選択制になったところで、誰か苦しむ人がいるのか?」。これについて右派(というか丸山氏)は十分な回答を与えていない。

この辺は完全に保守の側(というか丸山氏)が説明不足で、これだけ問い詰められるのも当然と思う。そして理屈上は左派の言っていることが正しいと思うが、、、個人的には、保守の側が抱く懸念もわからんでもない。個人主義が蔓延し、かつて私たちを結びつけていた伝統や慣習が解体され、ますます共通の地盤が失われていく今日。同じ社会に生きているはずなのに、自分とは全く考えを共有しない、異質な他者と過ごしているような、そんな不安感を抱いても、そこまで不思議じゃないように思う。保守派は、単に差別的な制度を温存させたいというよりは、伝統的な家族観が変容することで、社会的な紐帯が綻ぶことを恐れているはずである。

この辺は「選択的夫婦別姓にすることで、社会的紐帯が綻ぶことの根拠がない」とバッサリ斬られるのだが、、、ただまあ、結婚して庶民的家庭を築くことに憧れる僕からすれば、こうした”普通の家族観”的なものを追求する右派の試みも、なんとなくは理解できる。ひとまず安心が欲しいのである。代々続く伝統だとか、”普通”と言われるものだとか、それを追求しておけばひとまず安心だと思えるものが(その伝統は虚構だとか、そういう”普通”の設定は暴力的だとか怒られる上に、それは本当にその通りなのですが)。で、そうした「共通の善」というのが、我々の求めるところなんじゃないかと思う。

 

以上 

まあそんな感じで、基本は左派の論理に同意するのだが、ぶっちゃけ心の中には右派同様、伝統的家族観というのがあると安心だなという気持ちもあります(コミュニタリアンなので)。自分の中の結婚願望とかとも折り合いが付くので。これがどう変わるかは、、、エリザベス・ブレイク『最小の結婚』を読み終えてからのお楽しみということで。

あまりにも眠いので(現在朝の5時)、読み返さずに投稿します。明日の夕方直すと思う(追記:3日経った現在も直し中)。よろしゅう。