浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。読んだ本の感想や思うことなどなど。大学院でいろいろやってます。

清田隆之『さよなら、俺たち』を読んだのでその感想

この1月と2月はフェミニズム強化月間ということで、フェミニズム系の文献を多めに読んでいる。3月からは就活強化月間になるので、今後はあまり読まなくなるかもしれない。が、ひとまず、清田隆之『さよなら、俺たち』を読んだので、その感想など。

 

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さよなら、俺たち

さよなら、俺たち

 

 

 

著者の清田隆之さんは、「桃山商事」という、恋愛相談に乗るユニットの運営者。大学時代から人の恋バナを集めるということをしており、いろんな女性の話を聞く内に、ジェンダー意識を深く持つようになったとのこと。で、肩書きとしては、学者や研究者というよりも、ライターやジャーナリストの方が近くなりそう。

今日はこの本を読んで思ったことなどを、雑多な感じで書いていきたいと思う。まとまったものはまた後日ということで(本当にやるかはわからん)。思ったことを自由に書いていきます。

 

 

本の内容

 

【公式の紹介文】

男たちは今のままでいいのか。これからの時代私たちに必要なことは、甘えや油断、無知や加害者性など、自分の見たくない部分と向き合いながら、「俺たち」にさよならすることだ。
1200人を超える女性の恋愛相談に耳を傾けた結果、見えてきたのは男たちの幼稚で狡猾な姿だった。
恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表として恋愛と性差の問題を発信してきた著者による、初の本格的ジェンダー・エッセイ集。
失恋、家事、性的同意、風俗、夫婦別姓、マンスプレイニングからコロナ離婚まで、様々なテーマに根づく男性問題を掘り下げていく。

こちらより持ってきました。 

 

【個人的な紹介文】

一言で言うならば、ジェンダー意識に目覚めた男性が、自らの男性性を反省し、世の男性にもその反省を促している、そういう本だと思う。

内容的には、フェミニズムの主張とそんなに変わるところがない。ただ、それを男性が書き、「俺たち男はこういうことやりがちだけど、そういうのはもう辞めないとね」という、反省的な論調で書かれているのが特徴だと思う。

もう一つの特徴として、女性から寄せられた膨大なエピソードに基づいているということがある。桃山商事の活動の中で、著者はこれまで1200人以上の恋バナを集めてきたらしい。そしてその9割が女性による相談だったとのことなので、「女性を困らせる(苦しめる)男性像」というものに造詣が深い。その辺を踏まえて、多くの男性にとってのあるあるを紹介しつつ、そこに自己反省も組み込むというのが、この本の基本的スタイルとなっている。 

この本で主張されることはだいたいフェミニズムのそれと変わらないので、やっぱり特徴的なのはこの辺だろうか。批判の重点はとりわけ、「男の幼稚さ」「自らの特権に気づかぬ男性」にあるように思う。

「男の幼稚さ」というのは、自分の意見が通らなかったらブチ切れたり、女性の容姿に点数をつけたり、相手とのコミュニケーションを拒絶したり、そういう子どもっぽさを指している。対義語は「大人になること」だ。こういう男の幼稚さが社会で女性を苦しめているし、「男の子は褒められるのが好き」という特集を組ませるに至らせている、とのこと。

 「男性の特権」については、今更ここで説明するまでもないんじゃないかとは思う。が、一応著者の見解を引用しておく。清田氏が「男性特権」をどう捉えているかについて。

 

「考えなくて済む」という〝男性特権〟


特権と言うと物々しく感じるが、それは例えば「考えなくても済む」とか「やらなくても許される」とか「そういうふうになっている」とか、意識や判断が介在するもっと手前のところの、環境や習慣、常識やシステムといったものに溶け込むかたちで偏在しており、その存在に気づくことなく享受できてしまう恐ろしいものだ。

清田隆之. さよなら、俺たち (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1806-1809). Kindle 版.

 著者の「特権」の理解としては、「考えなくて済む」というところがクローズアップされている。特権というと、搾取を通じた”利益”を受けているとかそういうのがイメージされるが、この本ではそこは重視されない。例えば、夫婦別姓・同性の議論において、男性のほとんどは特権者であるとされている。自らの姓が変わるということについて、女性は日々意識するものだが、男性はほとんど気にかけることがないからだ。そういう意味で、「マジョリティ」も「その存在が自明視され、改めて問われることがない人々を指す言葉(Kindle の位置No.92-93). Kindle 版.」とされており、考えなくて済むと言う点で、似たようなもののように感じられる。

 そんなこんなで、こうした”男性性”の批判に加え、現在の自民党政権批判とかが織り込まれているのも特徴か。後半に出てくるbeingとdoingの話なども、結構著者は力を入れて説明しているのだが、とりあえずここでは省略。

 

 

率直な感想

ぶっちゃけた話、あまり面白くはなかった。というか、読んでいてイライラとかモヤモヤの方が多かった。その辺はまた後述するとして、先に面白かった点の紹介など。

 

面白かった点

この本は(僕にしては珍しく)買ってから3日で読み終えた。普段は他の本とかと並列して読書するので、一冊を一向に読み終わらないということが多発しがち。なのだが、これはのめり込むように読了できた。文体としても非常に柔らかく、すんなり頭に入ってくる。同時に購入した『ヴェーバー入門』(ちくま新書)は15頁ぐらいで挫折したので、えらい違いである(入門にしては難しすぎた)。

もちろん、読んでいてとことん頭にきたので、怒りにまかせて勢いで読み切ったというのはある。ただそれでも、こういうフェミニズム系の本の中では、クセがなく読みやすい方なんじゃないかと思う。ちょっとだけ書店で触った『さよなら、男社会』はもっと著者のクセが強かったように感じた。どうでもいいけど、これだけ似たタイトルの本が同じ年に出るのはなんなのか。誰か読み比べとかしてください。

あと、こういう本が出ることの社会的意義に着目すると、そこはかなり大きいんじゃないかと思う。今までこうした、「男性の視点から書かれたフェミニズム本」というのは、ありそうでなかったはず。主に女性視点から書かれてきたフェミニズムが、男性視点でも書かれるようになった。そこは大きなジェンダー的前進があるように感じる。

 

不満を感じた点

怒っている、と書いたけれど、自分も男性であり当事者であるという点で、思うところは多かった。ここでは批判される側なので、言い返したいことなどもあり。その辺を素直に書きます。

① 「非モテ」が議論の対象外

真っ先に挙げられる不満は、「結局モテてきた男性が書いている」ということだろうか。そして「女性から見向きされずツライ」的な男性特有の悩みはほとんど無視されている。この本の中だけでも、著者の”元カノ”として4人の女性が登場するし、なんなら著者は既婚者である。初めての恋人ができたのは高校時代であり、初体験は19歳だったとのこと。それは、何よりである。

この本の前半部分では、高校時代の話が多い。著者は男子校に通い、部活動のサッカーに明け暮れていたという。ただ、恋愛面では挫折の方が多かったようで、毎日が「悔しかったし悲しかったのだと思う」とのこと。それでも、かなり”陽キャ”の風格は漂っている。

そして著者は、大学に入るまで本をろくに読んだことがなかったらしい。自分の感情を言語化する方法も知らなかったとのこと。自分の気持ちに向き合うことをせず、しょうもないマウンティングや男同士のふざけあいで、不安や悩みから目を逸らしていたらしい。

その辺を振り返って、著者はこのように言っている。すなわち、もっと本を読むべきだったと。そして自分の悲しみや現実のままならなさを語る言葉を仕入れるべきだったと。そして、それが今の男達に必要なことなのだとしている。

引用を持ってくるとこんな感じ。

おしゃべりや読書によって言葉を仕入れ、感情を言語化していく。それを続けていくことでしか想像力や共感力は育っていかない。ハラスメントをしてしまう「気づかない男たち」に必要なのは、そういう極めて地味で地道なプロセスを延々くり返していくことではないだろうか。

 (Kindle の位置No.560-562). Kindle 版.

 

これは個人的には、 結構怒りポイントの高い文章だった。というのも、筆者の高校時代の様相は、僕自身とは正反対だったので。自分の高校時代を振り返ると、男女共学であったにも拘わらず、全く女子と会話することがなかった(というか、クラスに友達がいなかったので、一日通して声を発しないということも珍しくなかった)し、恋人ができるというのは夢の世界のお話に過ぎなかった(悲しい妄想はたくさんした)。

そしてその分、本はたくさん読んだ。小説も読んだし、お手軽な学術書とかにも手は出していた。太宰とか坂口安吾とか、やたらあの辺にハマっていたなあ、、、

 

で、結局のところ、高校を読書に費やした僕の人生と、わいわいとした高校生活を送った清田氏、どちらの方が幸福度が高いかと言えば、明らかに後者だと思う。僕はどうにも、高校3年間のせいで偏屈な人間に育ったという自信がある。そのせいかはわからんが、今まで恋人ができた経験もない。悲しい。正直、清田氏の人生の方がよっぽど推奨されるものだと思う。

ので、あまり自分の人生を恥じないでほしいというか、あなたはこっち側の苦しみを知りませんよねという感じはあった。あと、清田氏は自分の高校生活を「毎日悔しかったし悲しかった」と振り返っているが、恋人ができないことへの苦悩は、多分そんなもんじゃない。中島みゆきの「サーチライト」という曲に、「あたしの悲しみは昇る朝日も落としちまうほど」という歌詞が出てくるが、僕もこれに似たものを感じていた。非モテの苦悩は太陽だって落とすぞ。

そうした非モテマウンティングはさておき。ただ依然として、議論の中に「モテないことの苦悩」が出てこないことへのモヤモヤはある。清田氏は「男性性から自由になりましょう」的なことを結構気軽に言うのだが、僕からすれば、そういうのを備えた人間の方が”モテる”とは思う。そして、異性から好かれるというのは、結構大事な経験であるはずだ。自分に自信が持てるし、幸福感とか、生きている意味も得られるはず。そういうことへの羨望の気持ちとか、「童貞のまま死ぬことへの恐怖」というのが取り上げられないまま、加害者としての男性が批判されるのは、読んでいて乗れない部分がありました。

あとは単純に、この本の中で批判される男性性というのが、ほとんどが恋人や妻との関係におけるものということがある。セックスを拒否されると当たり散らしたり、付き合いだした途端に不誠実になったり、彼女の浮気は絶対に許さんくせに自分はしれっとしていたり....... でも我々、そもそもこういうスタートラインにすら立ててないからなあと思ってしまう。その辺でも、自分のことが置き去りにされているという感覚はあった。

本書の第1章のタイトルは、「あの人がいない人生を生きるのだ——失恋による小さな死」となっていて、失恋が一つの死に例えられるのは、僕も十分理解できる。のだが、ここでの「失恋」は、5年間付き合った彼女との別れのことであった。5年も付き合えたならそれで十分幸せでは? とも思ってしまう。

 

② 男性による抗弁の封殺

これは清田本だけでなく、フェミニズム系の本を読んでいてよく感じることである。例えば、ソルニット『説教したがる男たち』ではこんな挿話があった。”マンスプレイニング”という言葉が流行りだしたとき、女性たちは皆「自分もこういう経験をしたことがある」と訴えた。が、男性たちはそれに取り合わず、「すべての男がそうであるわけではない」などと反論。それに対して女性たちは次のように言い返した。「私たちが自身の体験を訴えているにもかかわらず、それを上から目線で否定する。これぞまさにマンスプレイニングなのだ」と。

清田本にもこういう雰囲気はあって、男がジェンダー的な意見に反論したくなったとき、それは「防御反応によって発動した感情的なリアクションである可能性が極めて高い (Kindle の位置No.608-609). Kindle 版.」とされている。こういうのはちょっと、なんだかなあと思ってしまう。そうすると男が口にできるのは、懺悔の言葉ぐらいしかないんじゃなかろうか。

 

③ 懺悔の言葉が多い

そして清田本は、この「懺悔的反省」というのを、結構地で行っている。幼稚な男らしさを批判する文脈では、文章中に何度も「同じ男として耳が痛い.....」とか、「他人事ではないぞと冷や汗をかいた」とか、そういう文章が頻出する。

こういう自己反省の態度は、基本的には推奨されるべきものだと思う。のだが、この本ではこれがあまりに多すぎて、「懺悔なしには男はフェミニズムについて語れないの?」と思ってしまう。もっと言えば自虐である。まあ、実際に男性は特権者であると思うので、そうなのかもしれませんが、、、

ただ、「男性目線のフェミニズム本」として、フェミニズム側の意見にひたすら追従し、男性からは反省と謝罪の言葉しか出てこないというのは、いささかワンパターンでつまらないなとは思った。この本はフェミニズムに対する批判的視点は皆無であり、「フェミニズムはそう言うけど、実際男としては.....」という抗弁はまるで出てこない。それはそれで、どうなんだろうなあとは思った。懺悔・自虐・反省抜きには、男はフェミニズムを語れないのだろうか。もうちょっとフェミニズム内部への批判的視点はあっていいんじゃないかと思った。

 

④ 汚れのある女性が出てこない

同時にこの本には、「悪女」という概念がほぼ存在しない。悪女というとオブラートだが、もっと言えば「クソ女」的なものである(いい言葉ではないですね)。

著者は非常にたくさんの「女性から聞いたエピソード」を紹介するのだが、反省を迫られるのは99%男性の側である。まあ、今更そんなことに文句を言ってもあれなのだが、あまりに女性が汚れのない存在とされているようで、そこはちょっと気になった。

例えばこの本では、”セカンドレイプ”の紹介がある。本来なら女性は被害者であるはずなのに、「男を誘惑したお前が悪い」などと二次的に非難されることだ。著者はこれを取り上げて、「女性に落ち度があった」という言説をことごとく斥けているように思う。

・・・のだが、男性側の失敗については、「それは男が幼稚だよね」という具合に、シンプルに男性が責められている。この非対称性はちょっと不思議だった。なんというか、著者は「女性を責めてはいけない」「責めるなら男性を」という価値観をインストールしているのではないかと疑いたくなる。

以前、バイト先の後輩と「サマー論争」なるものをしたことがある。映画「500日のサマー」について、僕と後輩Aは「トムに共感できる(サマーが悪い)」という意見を持ったのだが、もう一人の後輩Bは「勝手に幻想を抱いたトムが悪い」と主張した。この3人の間で交わされた論争が「サマー論争」である(1日で終わった)。なんとなくこの著者も、一応トムへの共感を示しつつも(同じ男だからわかるよ的な)、最後までサマーのことは責めないのではないかと思う。僕はサマーは結構、クソ女だと思ってますけどね。

 

⑤ 加害者性に苦しむ男性についてはほとんど何も言っていない

正直、この本は読んでいてツラいところが多い。というのも、僕もやっぱり男性な訳で、自分自身の「加害者性」と向き合わなければならないからだ。この本に限らず、フェミニズム系の話題を追っているときは常にそうだけども。

ただ僕はこの辺に関して、男・女に関わらず、余計な罪悪感を抱かせないということが何よりも大事だと思う。女性に関しては、自分の振る舞いのせいで彼氏を怒らせたのではないかと悩む人がいれば、そんなことはないよと伝えてあげる。男性についても、自分が無意識に女性を抑圧しているのではないかと悩む人がいれば、そんなことはないよと伝えてあげる。そうした、事実に根ざさない罪の意識について、そこから解放することが何よりも目指されるべきだと思っている。

著者の清田氏も、「推測地獄」という言葉で、この事態に警戒している。

「わからない」という状況は無限の推測を引き起こしかねない。恋愛相談の現場では、理由がよくわからないまま別れを切り出されたり、音信不通のまま去られたりしてしまった人たちの話を聞く機会が少なくない。別れは仕方ないがせめて納得はしたいと、彼ら彼女らは理由や原因を必死に探そうとする。しかし相手はもう目の前におらず、対話によって原因を探ることはできない。そうしてはじまるのが、過去のあらゆる可能性を振り返り、「あの時のあの対応がよくなかったのではないか」「私がああしていれば別れることはなかったのではないか」などと無限に考えをめぐらせ、自分のことを責め続けてしまう〝推測地獄〟だ。

 (Kindle の位置No.2931-2937). Kindle 版.

この現象は僕も結構身に覚えのあることで、一刻も早くこんな地獄から解放されたいものである。

清田氏の「男性責め」は、こういうところの一因になっているとは思う。「加害者性を自覚しろ」と言われれば、無限に反省できてしまうし、そもそもこの本における「男性特権」というのは、無自覚であることに起因しているのであった。だとしたら、意識的に無自覚を排するために、常に自己の行いを反省しろとなるし、「自分が悪いかもしれない」という自覚を持つべき、ということになると思う。それこそ、加害者性の自覚に基づく、無限の「推測地獄」に陥りそうだ。

ただ清田氏は、そういう加害意識の苦悩については、結構ほっぽり出している節がある。下記の文章は印象的だった。

男性たちがジェンダーの問題に意識的になり、これまで気づかなかった性差別の構造に目を向けたり、男性が履かされている「下駄」や自らの踏んでしまっている足について自覚したりすることは、絶対に必要なことだ。ただ、そのプロセスで発生し得る「加害者性」にまつわる悩みや苦しみをどう考えればいいのかに関して、私はまだ明確な答えを持ち合わせていない。男性性の問題と向き合うほど加害者性に悩まされる一方、向き合わなければその苦しみを味わうことすらないかもしれないというジレンマもあり、ますますわからなくなる

 (Kindle の位置No.2041-2044). Kindle 版. 強調は引用者

 ここは正直、明確な答えを出していてほしいところだった。これこそがまさに、男性がフェミニズムをやっていく上での肝になるところだと思うし、あとそういう「加害者性に悩む男性」の生産には、清田氏も一役買っているはずである。わからなくなるでぼかしておいて、いつかちゃんと答えを出すつもりなのかは聞いてみたいところだ。

ちなみに僕だったら、「まずは完全ブラックなところを叩け。グレーゾーンは気にかけるな」と言うだろうか。完全ブラックというのは、常習的なセクハラや性犯罪のことで、グレーゾーンというのは、気づかぬうちの性差別とか、そういう無意識的なものを指す。フェミニズム的に完全アウトの領域を叩けていればひとまずよくて(この間の森発言など)、あんまり無意識とかの細々したところは、ひとまず悩まないようにしておきましょうと、僕は自分ではそういう風に考えている。最初から完璧を目指さなくてよいという、ヴィーガンの実践から学んだ経験です。

話が脱線したが、そんな感じで、一番読者が気になりそうなポイントについてほぼ何も言っていないのは、やはり気になった。

 

 

 

 

 

疲れてきたのでこの辺で

終わります。もっとざっくり書くつもりが、中途半端に突っ込んだものとなってしまった。

 

【個人的な面白ポイント】

  • 非常に読みやすく、読んでいて面白い
  • 男性視点からのフェミニズムという、今まであまりなかった本
  • 女性と男性双方を敵に回しそうであるが、その微妙なバランスを上手くいっているところ

【個人的な不満ポイント】

  • 結局はモテる男が書いているんだなあという感じで、「異性から興味を向けられないことの苦悩」とかは扱われていない(というか、ほぼ無視されている)
  • 懺悔や反省の言葉が頻出し、ワンパターンさや退屈さを感じる
  • 責められるのが男性ばかりで、「(男女問わず)人間としてアカン」とかそういう視点はない
  • 主張としては単純に従来のフェミニズムの繰り返し
  • 結局読者層はどこ?(フェミニストからすればあんまり新規性はない話。かといって男性を幅広く説得するような内容でもない。フェミニズムは男性にも必要だと言っているが、その辺の説得的論証はない)

 

最初からこれぐらいざっくり書けばよかった。反省。

 

ちなみに、本書で触れられていない「非モテ」についての話題は、太田啓子『これからの男の子たちへ』で書かれていた(この本の著者である清田氏との対談が30ページぐらいある)。ついでにちょっとだけ引用しようと思ったが、ダルいのでやめた。94頁あたりに書かれています。Kindleは引用が楽なので、そこは大きな利点やね。

 

読み返してないけど、長いのでひとまず投稿。明日、チェックとか校正とかします。さようなら。

 

*追記:結局めんどくさいのでいまだにチェックしてないです(0302)。