浅瀬でぱちゃぱちゃ日和

全部日記です。大学院でいろいろやってました。今もなんだかんだ大学にいます。

修論と「ジョジョリオン」は同じなのか違うのか(違います):修士論文反省会

ども。

しばらく更新を休んでおりました。サボってすみませんでした。修論を提出して以降、ちょっと気が緩んでおりまして..... 本年も「浅瀬でぱちゃぱちゃ日和」とたたたたたをよろしくお願いします。正直この名前は変えたいと思っている。

今日は今年の抱負と、修論の反省についてです。

 

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昨今の京都は、何食わぬ顔で雪が降っていてビビる。

今年の抱負

今日は新年最初の更新ということで、ここで今年のブログの抱負を述べたいと思います。今年の抱負はずばり、

面白い本をたくさん読んで、面白いことをたくさん書く

です。去年は段々と読書感想とかが減って、愚痴とか愚かな戯言が増えていったので、今年は「最低月1回は読書感想会を設ける」というのを目標にやっていきます。その方が需要もあると思うので。

更新はできれば週一ぐらいでやりたいとは思っている。たくさんコンテンツがあった方がなんかいろいろ楽しいと思うゆえ。1月はサボりましたが、これからは頑張っていきます。たくさん書きます。ので、どうかよろしくお願いします。

 

修論を出した

今日のメインは修士論文反省会です。

皆さん、修士論文とは何かご存じでしょうか。実のところ僕も知りません。マジで。今日はその話です。

先日僕はようやっと修論を提出しましたが、そのことで、解放感に満たされるというよりむしろ、日に日に虚無感が強くなっていて困っています。なぜかといえば、自分でも「こりゃあひでえや」と思う修論を出したため。僕の修論はだいたい『ジョジョリオン』と同じだと思っていて、迷走に迷走を重ねた挙げ句なんかよくわからんこと言い出したと思ったら、これまたよくわからん理論を持ち出しそのごり押しで無理やりエンドに持っていった、という感じになっています(存在しない回転って何?)。全体的にこう、敵を強大にしすぎた結果、その敵の倒し方がわからんなくなって無理筋を通したというところが似ていると思う。

 

教授:あなたの議論はこう、何か先行研究とかとして存在しているんですか?

僕:いいえ存在しません。でも、この世に「存在しない」理論だからこそ、あらゆる「批判」を”越えていける”んです。それがゴー・ビヨンドです。

 

修論割とマジでこんな感じ。で、ジョジョリオンネタはこれぐらいにして、今日は修論について思うことを書きます。

 

修論とは結局なんなのか

僕の修論も『ジョジョリオン』も、根本で共通していることとして、「書き始めた以上は終わらせないといけない」ということがあると思います。我々、提出しなければ留年確定のため。ただ、「完結させるためだけに修論を書くのか」と言われれば、そんなはずもなく、我々は何らかの目的を持って修論を書いているはず。じゃあその目的って何? というのが、最近よくわかんなくなって困るねという話です。

僕は2週間ほど前に修論を提出してきて、結果としては5万4千字ほどになりました(註とか参考文献含む)。多分、人文系の修論は平均4万字前後ではないかと思うので、僕の場合人よりちょい多めに書いたか、単に文章が冗長だということになると思います(卒論の目安が2万字程度と言われているため、おそらく3万字あたりが修論のボーダーで、でも長い人は10万字以上書いているらしい)。終盤はガチで泣きそうになりながらやっていたため、決して手を抜いたとか流したということはなく、ほぼほぼ出せる限界は出したのではないかと思います。振り返ればもうちょい頑張れたなとは思うけど。

で、そんな長大な文章(論文)を書く目的って何? と考えると、何があるかといえば、一つありそうなのは、2年間の研究の成果をしっかり形にしようというもの。論文としてまとめて初めて研究は形になるのであり、修論はその2年間の集大成になるということ。そしてもうひとつありそうなのが、修論は、修士の学位を取るために必要だから提出しようねというもの。こっちは学問的成果を残すと言うよりは、単に学位認定のために、それが形式的に必要だという話。

どちらもありそうなのだけれど、今日言いたいのは、このどちらを採るにしても、博士に進まぬ人間にとっては意義がよくわからないよということ。今日はそういう「なぜ修論を書くのか」について思ったことを書くので、じゃあなんで院進したのというツッコミは置いておいて、ちょっとだけお付き合いいただければ幸いです。

修論がどうとかあれこれ書きますが、なんかもう全体的に疲れてる学生がたわ言として書いているものなので、あんまり参考にしないでください。

 

研究の成果としての修論

我々、最低2年間の修士課程を経るわけであるが、修論とはそこでの研究の成果の集大成なのか。

大学院の修士課程(博士前期課程)は、修論を書くための2年間と言われたりもする。学部が4年間、博士(博士後期課程)が最低でも3年間なのに比べて、修士は2年と短い。ので、この期間は修論執筆のために計画的に使いましょうとよく言われる(僕も言われた)。

で、何が言いたいかといえば、修士課程の2年間は、基本的には「修論を書くための時間」として見られているはずだということ。極端な話、我々は修論を書くために修士課程に行くのだとさえ言える。学部生の場合はそうではなくて、「この4年間は、卒論を書くための時間です」とはあんまり言われないはず(卒論が必須じゃないところもあるし)。修士論文執筆は言うなれば、修士課程の目的でありゴールでもある、のだと思う。

......のだが、問題は、そうやって修論として残すもののクオリティが著しく低い場合である。特に博士に進まぬ修士たちは就活しながらの研究になるはずなので、そんなにガッツリ新規性とか革新性を打ち出せないとも思う(打ち出せたらすごい)。よく聞く話ではあるが、博士に進むならともかく、そうでない学生たちの修論はまあ出せばほとんど通るらしいし。そうしたものを「研究の集大成」として残したところで、若干虚しいといいますか..... 論文は一応、学問や社会への新たな貢献(付加)として書くものであるだけれど、我々院生の書くことは、研究者から見ればペーペーのPayPay(スマホひとつでお支払い)であるだろうし、それを残したところで結局何だろうなと思わないでもない。

結局のところ問題は、見知らぬ誰かに「あなたは修士課程に行って、そこで何をしたんですか?」と聞かれたときに、「研究の成果を、修論という形で残しました」と答えても、「修論を書いて、それで何がどうなったんですか?」と言われたら、うん何がどうなったんだろうねと個人的には思ってしまうということです。その「研究の成果」がどこかの誰かの役に立っていればいいのだが、修士の段階でそこまでの成果を残すのも多分難しいのではないかと思う(僕はできていなくて、それこそが問題なのだが)。ので、「修論の目的は、2年間の研究の成果を形にすること」としても、若干虚しさもあるということです(とはいえ、その論文単体で何かに貢献できていなくても、「そこから議論が生まれることに意義がある」と言われれば、そうかもしれない)

こんなこと書くのは、多分だいぶ疲れているからです。

 

修士の学位を取るための修論

「何のために修論を書くの?」に対するもうひとつの答え方は、「修論は、修士過程を修了するために必要だから」というもの。これはシンプルでわかりやすいと思う。たとえ論文の中身が鳥取砂丘DQNたちが書いた落書き並に無価値だとしても、「これは学位取得のために書いたもんやから!!」と開き直ることができる。

ただ結局のところ、修士の学位を取ったから何?」というのが問題になるはず。修士号を持っていることが尊ばれる世の中ならともかく、現状はそれがプラスにはたらくことはほとんどないため(特に文系分野はそうだと思う)。肩書きとしては残せるだろうけど、修論書いて修士号持っているから何? というのが、最近思うところです。

濱中淳子『検証・学歴の効用』(勁草書房, 2013)

↑この前、ちらっとこの本を読んで、内容は「検証・学歴の効用」の名の通り、社会学の分析系。で、第6章が「院卒という学歴は『使えない』のか」というものでした。書いてあることは皆さんご存じの通り、日本社会では院卒という学歴はほとんど重宝されませんよ(特に文系)というものなのだが、特に面白かったのが、「修士号」の学位を持っていても、別に年収が増える傾向にはありませんよというもの。それすなわち、我々は大学院に行くことで逆に学費を払っているので、むしろ全体として見れば経済面はマイナスではないかということが言われていた。それは多分その通りで、別に修士号を持っていることでの経済的なメリットはほとんどないどこら逆にマイナスでもありうると思う(特に文系の場合)。

 

だからまあ、苦労して修士論文書いたけれど、それが果たして何になるんだろうな? というのを、提出以降ずっと考えてしまっているということです。論文の中身がジョジョリオン並みに「どゆこと??」って感じなので。これが2年間の研究の「成果」だとしたら、大変情けなく思うし(と書くとジョジョリオンに失礼なのだが、ジョジョリオンは10年続いた)、逆に「修了要件を満たすために書いたんだ」と開き直っても、じゃあそれが満たせたから何なの? と問われれば結局よく分からないためです。こ仮に博士後期課程進学者とかであれば、「今後の研究の土台を作った」とか言えるかもしれないけど、そうでない自分の場合は、まあよく分からなかったりするんだね。

 

学問作法養成としての修論

......とまあ実はここまでは前置きで、ここからが本題。上ではネガティブなことばかり書いたけれど、最近になって、ようやく修論の意義というものを感じ取れた気がします。

というのも我々、その気になれば自主的に研究報告を行ったり、こうやってブログで自分の考えを発信することもできるわけだけれど、それらと「修論」は何が違うのか? という話です。単なる論文(レポート・エッセイ)と、修士論文の違いはどこにあるのか。それすなわち、修論には教授による審査があることだと思います。それも学位認定に関わる結構重大な審査がある。この「教授達(プロ)による審査」というプロセスを経るのが、修論の特質のように思います。

 

修論とは何なのか? ということを考える際、川崎剛『社会科学系のための「優秀論文」作成術』(勁草書房, 2010)には、修士論文の特徴について、次のような記述があります。

査読論文と博士論文は知的フロンティアの拡大に直接的に貢献することを目的とするが、修士論文はそうではない。その主要目的は、基本的な研究プロセスを(指導教官の助けを得ながらも)自力でこなせる能力を示すことにある。極論すれば、論文の内容そのものよりも、作成プロセスの達成そのものにねらいがある。(中略)言い換えれば、博士論文用のトレーニングが修士論文の役割といえよう。(89頁, 強調は引用者)

まず、論文には「問題と解決」という枠組みがある。そして修論ではそういう「型」を押さえることが大事なのだということが、ここでは度々言われている。つまり我々、修論で為すべきは、学問や社会への革新的な貢献以上に(論文である以上それも最低限必要ではあるけど)、まずは形式や作法を身につけることなのだと、そういうことになるはず。

そういうわけで、修論というのはつまるところ、「学問的な作法や研究プロセスがしっかり押さえられているか、教授たちが厳正な場で審査しますよ」というものではないかと思います。そうだとすれば、主張の中身云々よりも、論文の構成や骨子が大切ということになり、だからこそ、そこにしっかりした審査が必要なのではないかとも思います(基本的な研究プロセスができていない人間に、「修士」の学位を与えるわけにはいかないため)。

で、僕は内容カッスカスの極みみたいな修論を出したし、他にも多くの人が「これを読むぐらいなら、まだ雨上がりの水たまりに浮かぶ微生物たちの躍動を眺めていた方がマシだよ」と感じるものを出しているかもしれないけど、大丈夫、中身は問題ではない。大事なのは外殻であり構造だ、というのが今日言いたかったことです。全然確証はないけど、僕はそう考えることにしました。そう考えれば、いくらか気持ちは晴れるので。

まあ普通、修士で指導教員からいろいろ指導を受けていれば、そんなの当たり前では? と思うのかも知れないけど、いかんせん僕は「指導」とかは受けずに育ってきたため.....今更そういうことに気付きました。人文系の院生なら一定数そういう人はいるはず。

もちろん、こういう結論に対しても、「学問的作法を身につけたから(それに教授たちからお墨付きをもらったから)何?」ということは言いうるはず。とはいえ、これに対しては、「学問的作法を身につけることの意義」みたいなのを実感できていれば大丈夫と思います。少なくとも、論証のプロセスやリサーチの技法を身につけているということは、他人としっかり議論したり、自分の主張をより説得的にする上で大きなアドバンテージになるはず(僕はそう思っている)。だからまあ、「あなたは修士課程に行って、そこで何をしたの?」と聞かれたら、今後は「学問的な作法とかをしっかり身につけました(そのことのお墨付きもあり)」と答えることと思います。それが何の役に立つの? と聞かれれば、てめえの目で確かめなと言えるはず。まあそれは冗談で、折角ならそこまでしっかり論証できるとよいと思います。

 

結論

Q. 修論は、ジョジョリオン並に迷走してたり無理なロジックを通したりしてても完結してればいいの?

A. ジョジョリオン並ならOK!!

すみませんが、今日の結論はそんな感じにしたいと思います。ジョジョリオンネタを何度も引っ張って申し訳ないが、修論で大事なのは、おそらく中身の面白さよりも形式の整い具合にあるということで。そういう視点で見れば、ジョジョリオンもなんだかんだ面白いと思います。

書き忘れたけど、修論には基本「公聴会(発表会)」なるものがついていて、これが論文の審査の場になります。僕はまだこれをやっていないので、正確にはまだ修論は『終わっていない」。自分の場合、20分で自分の修論の内容を報告して、10分間、主査の先生ひとりと副査の先生ふたりの質問に答えるという流れになっている。これにきっちり答えられれば、晴れて修士号認定というわけです。

まあこういうことも言われているわけですが...... 僕も正式には、2週間後の公聴会修論が通るかどうかが決まります。これで落ちたらおもろいね。

 

 

そんな感じです

久しぶりに書いたせいか、ちょっと感覚がよくわからなくなってました。いつもより微妙だったら申し訳ないです。

最近、気分がブルー中のブルーで(カラーコードで言うと#3300CCぐらい)、その原因がカスカス修論を出したことによる落ち込みから来ているのですが、このように自分のことも励まして参りたいと思います。ので、2022年もよろしくお願いします。みんなも修論頑張ろう。

 

 

↑この前全巻読み終わったので、どうしてもこの話をしたかった。

 

 

 

今年○○してよかったものたち:2021年の振り返り

ども!! 12月30日、年の瀬の昨今、いかがお過ごしでしょうか。僕は相変わらず修士論文に取り組んでいます。これがもう終わりなき地獄で、24時間己のカスさに打ちひしがれる毎日です。論文の出口がさっぱり見えず、ここ2週間はずっと果てしなき迷宮の中に閉じ込められた感覚になっています。でもそれなりに元気です。

ちなみに論文のテーマは、「ある道徳が社会的に受容されているという事実は、法の在り方を考える上でどれほどの重要性を持つか」ってな感じのもの。我々の社会の中で、何らかの一般的な道徳観念が存在しているとして(例えばドラッグはよくないだとか、ポルノや高額転売や近親姦とかは不道徳だからやめるべきだとか)、そういう考え方が社会的に存在しているという事実それ自体が、法の在り方に対して何らかの影響力を持つべきかどうかという感じ。難しいですね。もっと言うと、「大衆の道徳上の信念は、しばしば偏見や迷信に基づいていたり、十分に啓発されていないものであるが、そうした不合理な信念でも、社会の中に道徳として根付いている以上は、何らかの形で重要性を持つのか」っていう、そういう話をしているんだと思います。たぶん。自分でも書いててよくわからなくなってる。

そんなことはどうでもE!! 今日はちょっと修論に一息付けたので、ブログ更新して、今年1年の振り返りを行います。「今年○○してよかったもの」というテーマで、ぼちぼち何か書いていきます。

年末のこの頃、暇な人はぜひ付き合ってください。

 

 

 

今年行ってよかった場所

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今年行ってよかったマジでよかった場所、滋賀県。9月にチャリで琵琶湖(北湖)一周の度に行ってきました。滋賀県、マジで、舐めてたけど、本当によーーーーい場所でした。

何がいいかって、自然がマジで豊かなんですよ。ずーっと左手には琵琶湖が見えて、右手には山々がそびえるという感じで、チャリ漕いでてめちゃくちゃ楽しかったです。普段、京都とかいう狭っ苦しく住居をミチミチに敷き詰めた場所に住んでいるので、滋賀県の自然の開放感は素晴らしかったです。自然、美しく、日本、捨てたところじゃないなと思えました。

 

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この『山』の感じ、わかります? まさに、『山』なんですよ。そして琵琶湖はもはや海でした。ひたすらチャリ漕いでただけだったけど、このチャリ度はほんと〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜に楽しかったです。もし万が一滋賀県を舐めてる人がいたら、ぜひ行ってみてください。

「今年行ってよかった場所」とは書いたけど、そもそも今年は名古屋と地元の新潟しか県外に行っていなかった。もっと旅行しとけばよかったなと思います。

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修論がヤバいのでしばらくお休み

こんばんは。

近頃更新をサボり気味でしたが、更にしばらくの間(1ヶ月ほど)お休みします。理由は修論がガチやべえやからです。あと1ヶ月で提出なのはマジ本当にやばい。

思えば修論とは、この6年間の学生生活の集大成のようなものだと思うんですが、それにしては本当に破滅的です。何一つまとまらず、文字数も一向に埋まりません。ブログ書いてれば論文書くのも楽になるでしょとかそんなことは微塵も無く、むしろ太字で強調とかの癖が付いちゃったので、逆に大変さを感じてます。普通に論文を書く練習をしておくべきだった、本当に。

そんなわけで、しばらくお休みです....... おそらく新年また更新すると思います。それまで元気に過ごしましょう。どうかお元気で。

 

【おまけ】

今年もSpotifyの例のものがやってきました。

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知らない人のために説明すると、Spotify(音楽サブスクリプションサービス)は、毎年12月になると「1年のまとめ」的なプレイリストを作ってくれます。今年は何の曲を一番聴いてたかとか、いくつのアーティストに出会ったかとか、他の人と比べて何を聴いていたかだとかを教えてくれる。これ結構毎年楽しみにしています。

で、僕は今年、約2万分Spotifyを起動していたらしいです。結構ですね(上位13%に入るらしい)。一番聴いていたのはなんだかんだスピッツだった。あんまりJ-POP聴いてるつもりはないけど、洋楽はアーティストばらばらに聴いているので、トップアーティストはJ-POPになりがちというサブスクあるある。

一応、下にトップ5の曲を貼っておくので暇な人は聴いてみてください。

 

1 Laura day romance / sad number


www.youtube.com

↑邦バンド。3分ちょいなのでヘビロテしてた。PVもよい。Lauraは新しいアルバム出ないかなあと心待ちにしている。

 

2 Dinosaur 94 / Love Imparied


www.youtube.com

↑洋楽。死ぬほど、死ぬほどかっこいい。何回も聴いてた。

 

3 Laura day romance / lookback&kicks


www.youtube.com

↑またしてもLaura day romance。この曲も好き。

 

4 M.A.G.S / Drugs


www.youtube.com

↑洋楽。4位に来たのは意外。2分ちょいだから何回も聴いてたのかも。

 

5 Early Eyes / Coffee


www.youtube.com

↑洋楽。これは好きではあるけど、Spotifyのおすすめで何回も出てくるから再生数が多くなったんだと思う。これが5位なのも意外。

全部聴くと僕と友達になれます。

 

以上。

僕の修論はかなりの末期状態ですが、なんとかあと1ヶ月頑張ります。

 

 

【お別れなぞなぞ】

Q. 締め切りに追い込まれて末期状態の人間、何色になる?

 

 

 

 

 

A. まっきっき(末期っき)

 

 

 

 

ブログ、やるかやられるか:1年やってみての感想

ども。習慣の力というのは恐ろしいもので、何気なく続けていたことが丸1年継続していた、ということが往々にしてあります。僕にとっては「ブログ」がそうで、実は去年の11月13日にnoteで初投稿してから、今日でちょうど1年になりました。早いもんです。あっという間でした。

 

みなさん、ブログやっててよかったなあと思うことってありますか?

 

 

 

......ねえよな。みんなブログやってねえもんな。皆ではないけれど、やっている人はかなり少ないと思うので。

で、今日は1周年を記録して、ブログについてのあれこれになります。僕が1年前、自分のnoteをTwitterで公開したとき*1は、こういう取り組みが周りで流行ってくれるんじゃないかという淡い期待がありました。が、もちろんそんなことはなく、ネットに文章を投下し続ける人間を増殖させることはほとんどできませんでした。無念です。

「もっとみんなもブログとかnoteやってみりゃいいのに」というのは、自分がnote始めた当初から、今も変わらず思ってること。文章にした方が伝わることもあるだろうので。特に、Twitterでポツポツと不満とか述べ続けてる人は、noteとかでしっかり主張してみては? と思ったりしてます。

とはいえ、書くことの大変さとかも身に染みてはいるので、今日はそれを踏まえつつ、ブログについてのメリット・デメリットを書いてみるなど。最終的には「ブログのすゝめ」的な感じになります。少しでもブログ人口を増やすため、そして自分が1年やってきた感想のまとめとして、まあ色々書きます。

 

ブログ、ここがよくない

先にデメリットについて。おそらく多くの人が感じてるのではないかということ。3つぐらい。僕も感じてます。

 

1.時間、溶ける

「文章を書く」という性質上、時間、めちゃくちゃ溶ける。僕は毎回4000~6000字ぐらいのを書いてますが、毎度少なくて2時間、多くて5時間ぐらいかかってます。どんだけ暇なの?? とか言わないで。この点で継続が難しいというか、忙しいから到底無理という人もいると思います。

しかもあくまで趣味に過ぎないので、特に稼げるというわけでも無し。就活とかでも特段有利になるわけでも無し(ライターとかに応募しやすくはなるけど)。つまりは、時間と苦労をかけてる割にわかりやすいリターンがない、というのが大きな悩みですね。

とはいえ趣味ってそういうものでは、とも思います。実利よりも楽しさのためにあるものだろうと。ただ、文章を書くという作業が、どうにも楽しさよりも大変さが上回ったりするので、その辺は大変です。動画制作に比べれば100倍楽だけど......

 

2.人の目に付く、批判されうる

デメリットの二つ目は、ネットで公開するという都合上、いつ誰から批判されるかわからないということですね。ブログの場合、批判ポイントはだいたい3つあって、①記事としての面白さ、②文章力、③書いてあることの妥当性、とかですかね。どこかの誰かがポテチ食いながら僕の文章読んで①つまらん、②稚拙、③意味不明とか言ってたら、いくらネットに有象無象しかいないとはいえ僕も涙を流して子どもみたいに叫ぶと思います。ので、出来る限りやめましょう。

誰から批判されるか分からないという点では、著名人に目を付けられた時の怖さとかもあり。たまに本の感想として「ここはちょっと違うんじゃないか」的なことを書いてますが、これが著者とかの目に止まってぶっ叩かれたらどうしようモウ終わりだ泣いて謝るしかないとか思ったりします。思っていることや考えを書くということは、自分の弱点、ヒットポイントを曝け出すということでもあるので、これはどうしても付きまとうリスクだとは思います。小心者にとってはツラいですね。

 

3.継続しないと自己嫌悪なる

自分で勝手に始めたことなので、いつやめようと自分の自由な気がするんですが、なんかそうすると自己嫌悪なるんですよね。「俺って継続力ないな」的な。あれは何でなんでしょうね。

「出会う前に戻っただけなのにどうしてだろうか 何か違うんだ」と米津玄師はメトロノームで歌ってますが、多分それと同じですね。米津玄師にわからないことは僕もわからないです。

 

4.黒歴史になる

4つ目。インスタやTwitterと違って、ブログ(やnote)は黒歴史化しやすい気がします。なんでやろね? 僕もnoteについては恥ずかしいのでいつか抹消したいと思ってます。「記録」として残しているという性質上あんまりしたくはないんですが、、、

まとめると、「書く作業って時間かかるし大変なのに、下手だつまらん間違いだらけとか批判されかねないし、将来思い返したときにも『俺を殺してくれ』と悶絶しそうだよ」というのが、ブログのデメリット、あるいは心理的ハードルのように思います(あと途中でやめにくい)。少なくとも僕の実感ではこれらは間違いなくありますね。

まあでも、やってると多少慣れます。

 

ブログやってみてよかったこと

デメリットから挙げたけど、1年もやってみればよかったこと・身についたことなども多少はあり。頑張ってメリットも挙げてます。

 

1.構成力が身につく

真面目な話からすると、ブログってやっぱり「文章」だなと思います。何を当たり前なことをと思うかもしれないけれど、そこがTwitterやその他諸々との違いであって、単に感想を垂れ流すだけではなく、しっかり構成を練る必要があるということ。例えば、導入でこう関心を惹いて、本題ではこれとこれを論じて、オチはこの辺に持っていこうとか、そういうもの。こうした構成を練る力は、ブログやってると培われるなと思います(ブログのタイプにも依るとは思うけど)。

最近実感するのが、今日はこれで書こうかなと思ったときに、「この話とこの話をこういう順番で繋げればいいか」というのがパッと思いつくようになったこと。この前の記事で言うと、カーペンターズの世界観から恋愛論に持って行って最後は自分の所感書けばいけるぞ的な。で、こういう構成を練る力は、大学院で研究報告レジュメを作るときとかに活かされている気がします。あと話をするのも前より得意になったかな?

ちなみに、「ブログで文章力が向上するか」というのは、割と微妙な気はします。自由に書ける分テキトーな日本語でも許されるし、添削とかもらえるわけではないので。でも、その場合でも導入とかオチは考えないといけないので、構成力は身につくと思うという話。

 

2.自己表現の場が作れる

自己表現というと大げさだけど、自分の考えとか思いを自由に書ける場があるということ。個人的にはこれが一番大きなメリット感じます。

今の自分の1週間の生活として、月火はバイトで人間と会話する機会があるけれど、それ以外の水木金土日はマジで誰とも会話しません。研究室行っても誰もいないので。だから、とぉっっっても面白いギャグを思いついたとしても(【なぞなぞ】ウェイウェイしているアメリカの小説家ってだーれだ? → 答え:ヘミングウェイ)、僕は一人で孤独に笑い続けるしかないのです。これは悲しい。

そういう意味ではこのブログは、ある種、自分と世間の窓口みたいに機能しています。窓口とは言っても、僕が一方的になんか言うだけで、必ずしも返事とかもらえているわけではないのだが。それでも一応生存報告なども兼ねているし、世間との繋がりが保たれている感はあります。

そして、そうした表現を、自分の好きな様式で行えるというのがブログの大きな魅力だと思います。よほど差別やヘイトを煽ったり、偏見を広めたり他者を中傷したりさえしなければ、ひとまずは何を書いてもいいし、どんな形式を取ってもいい。自由なスタイルで自由な内容を他者に向けて発信できるわけです。

 

 

f:id:betweeeen:20210901165318p:plain急にオリジナルキャラを登場させてもいいのだ!!

 

f:id:betweeeen:20210901164851p:plain私たちが出た回、大抵不人気だけどね。

 

というわけです。自分の思っていることを好きな形で表しつつ、それが他者や世間にも接続しているというのが、個人的にブログの好きなところです。その分、いつ批判されるかわからないという恐怖もつきものなのだけれど。

で、これはブログに限らないというか、YouTubeポッドキャスト・ラジオでも同じことはできると思います(博士は登場させられないが)。例えば登録者のほとんどいない配信者とか、やっててツラくないんかなとか思うこともありますが、目的が自己表現にあると思えば何もおかしいところはないですね。僕もまあそんな感じです。フォロワーはもうちょい増えて欲しいけど、、、

 

3.「何かやってる」感が出る

あとのメリットは、「継続してやっている何か」が残ることかな。例えばこの1年何してました? と聞かれれば、とりあえず「ブログやってました」という回答が出せることなど。そんな感じで、日々継続していることがはっきり目に見える形で残るというのは、ブログのメリットだと思います。他の趣味と違って、他人に対しても実物を示しやすいし。

時間がかかることをデメリットに挙げたけれど、その分「実績」が確実に残るのがいいですね。就活でも一応話の種にはなります(大抵「ふーん」で終わったけど)。その実績が実績のままでいられるか、あるいは消し去りたい黒歴史となるかは、まあこれからの我々次第ということで、、、

 

その他諸々

メリットとかデメリットについては以上です。あとは1年やってみた諸々について書いときます。閲覧数とか収入とか抱負とか。

 

記事数・閲覧数

記事数は、noteで88、はてなブログで68(これが69個目)で、現在計156です。年間で通算すると2.5日に1記事のペースですね。note時代に頑張っていたというだけで、もうこれ以上の記録を挙げるのは永遠に無理です。

ちなみに閲覧数(PV)は、noteの方が8575、はてなブログの方が4900でした。多いか少ないかはわからん。趣味でやってるならこんなもんって感じかな。仕組み的に、noteの方が閲覧数は稼げると思います(ちゃんと読まれてるとは限らないが)。

 

noteとはてなブログの比較 

一応noteについて。今の主流としては、はてなブログ→noteに流れる人の方が多いらしいです。僕はその逆で、noteよりもはてなの方が自由度高くていいなと感じてます。文字色変えたり莫迦デカくできたりするので。

あと、noteは善くも悪くもライト層が多くて、フォロー・フォロワーとかのサークル色も強く、その辺が苦手でした。小難しい話書くのにもあんまり適してなかったし、、、

......大変どうでもいい話をすると、僕は現在、大学院の「旧教養学部」に当たるところに潜んでます(人間・環境学研究科)。ここは学部の1年生が全学系の科目を取りに来る場所で、最近は対面が復活されたこともあり、構内は若き1,2年生でごった返してます。溢れんばかりに。

で、M2にもなると、彼らのハジけた若さ・初々しさを目の当たりにした際、異様に心がざわつきます。道端に1年生男子3人女子2人ぐらいのグループが出来て、男子諸君がなんとかして女子の気を惹こうとし、女子がやたらオタクっぽい言動でキャラ立てしてたりするのを見ると..... やたらざわざわしたものが心に迫ってくるとぼくのゆうじんがいっていました。

noteもそういう雰囲気があります。個人の感想ですが、あると、思いました。その辺がちょっと苦手だった。

 

収入

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これは本当に、普段読んでくださる皆様にお礼申し上げたいことで....... 当ブログで紹介し本などを購入していただけていることで、わずかながら僕にも収益が発生しています。大変ありがたい限りです。感謝の念が尽きない。

最近本の紹介とかサボり気味なので、もうちょい頑張ります。応援してくださるとありがたいです。このお金で本買ってます。

 

↑最近買ったのだとこれ。お風呂で読んでるが、面白い。

 

ご意見・感想

感想やコメントはいつでも歓迎してます。「市ね」以外なら大抵何言っても大丈夫です。キショいもNGだけど。

以前、「おすすめの小説を教えて欲しい」という記事で、読者の方からも小説教えてもらったことがありました。おすすめしてもらったブコウスキー『街で一番の美女』は寝る前にちょくちょく読んでおります(表題作が一番面白い)。ブログ始めた当初は、知り合いに向けた生存報告的な趣旨だったので、こうして知らない人からお勧めとか聞けるのは大変ありがたいです。この前初めて、ブログで先に僕を知っていたという人にも遭遇しました。

docs.google.com

↑またGoogleフォームを作ってみました。感想とかコメントとか、自由に使ってください(完全匿名です)。ここ(ブログ)のコメント欄だと他人にも見られてしまうので、そういうの避けたい方向けにも。

 

今後の抱負

まとめは以上。今後の抱負は二つで、

  • 継続すること
  • 楽しい記事を書くこと

です。PV増やしたいとか、有名になりたいとかはあんまりないですね。小心者なので。またぼちぼちやっていきたいと思います。楽しい記事が書けるようもっと頑張ります。

...今日何度も書いた通り、ブログは結局、いつ批判・非難に遭うかわからないというのが怖いです。たまにフォロワー4桁とかある人に記事をリツイートされて、そういうときはガクガク震えてました。その意味では、ブログは「いつやられてもおかしくない」試みだとも思います。

ただまあ、「やってみれば」面白いことでもあるので、もっと多くの人に勧めたいことではあります。面白い経験にはなるし、自分の考えを表現したりなどもできるので。ブログ、やるかやられるか。頑張ってやったりましょう。

 

 

 

 

 

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↑サムネ用の画像。サーチコンソールの画面。

 

 

*1:とりあえずこっそりnoteを30日分書いてみて、続けられたらTwitterで周りの人にも見せてみるという手法を採っていた。この手法は結構おすすめ

初心者が初心者におすすめする入門向けのSCP

ども。すっかり日が短くなってきましたね。

「秋深き 隣は何をする人ぞ」という芭蕉の句がありますが、今日はそれにこじつけて、最近僕がハマってるコンテンツについて紹介します。

この頃の僕は、SCP財団(SCP Foundation)というサイトにかなりハマってます。気付いたらのめり込むように読んじゃってる。おかげで無限に時間を溶かしてしまってます。

で、このSCPというコンテンツ、知ってる人は知っているというか、巷ではそれなりに有名らしいです。僕はつい一週間ぐらい前まで全く知りませんでしたが。もしかしたら、僕以外の全人類これについて知ってるということもありうるけれど、そうではない可能性もあるので、今日はこの紹介をしたいと思います。

SCP歴1週間ぐらいの僕が、SCP歴0日の人に向けておすすめなどを書きます。「今更これについて??」とか思ってる輩はもう帰っていいぞ。

 

SCP財団とは?

scp-jp.wikidot.com

めちゃくちゃ簡単に言うと、怪談の創作サイト。色んな人が投稿していて、怖い話や不思議な話がたくさん読めます。雰囲気としては「世にも奇妙な物語」とかが近いかもしれない。洒落こわとか意味こわが好きな人におすすめ。

ただ、普通の怪談サイトと違って、投稿内容についての世界観が統一されています。よくある怪談掲示板では、各々が体験した怖い話とか、身近な怪奇現象が書かれているはず。SCP財団はそうではなくて、「世の中の異常現象の確保 Secure・収容 Contain・保護 Protectを目的とした”財団”が、その記録のために用いている報告書」という形式で話が書かれています。

最近「アンデッド・アンラック」という漫画を読んだけれど、世界観はあれにだいぶ近いと思う。世界のあちこちで異常・超常現象が発見されていて、それを調査・鎮圧するための組織が存在する、というもの。で、調査する以上は何らかの報告書が作られるわけで(こういう異常が発生してました的な)、そこで書かれた「報告書」という体を取った創作コミュニティサイトが「SCP財団」というわけです。こういうのをシェアード・ワールドとか言うらしい。

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恋愛の成就で人生は闇から救われるか?

ども。お久しぶりです。最近は本当に書くネタがなくて困ってます。ネタがないというか、ブログ書いてる暇があったら修論を書こうねという気分になってしまう。まあそれが正しいのだが......

今日は禁忌に触れます。恋愛の話です。

 

恋愛で人生は救われるか?

なぜこんなことを書いているかというと、最近、現代思想2021年9月号『<恋愛>の現在』を読んでいるためです。

Kindleで買ってお風呂で読んでいる

今年の8月末に出た本で、周りで買っている人が多く、なんか評価も高いので買ってみました。

が、面白いかと言われれば、まぁまぁという感じ。根底にあるのがゴリゴリにフェミニズム的文脈なので、評価高いとはいえ、乗れない人は乗れないだろうなあと思いながら読んでます。勉強にはなる。

中身としては、15編ほどの論文・エッセイ・対談で構成され、それぞれ「恋愛」を様々な角度から論じたもの。ただ、それぞれに共通するところも多く、大体は、現状の「恋愛」にまつわる諸文化(ポップソング、漫画、ドラマ、映画など)が異性愛中心主義的に構築されていることを指摘し、それを社会構築主義の観点・男性特権性批判などから捉えなおし、恋愛の概念を新しく刷新しましょうという感じです。恋愛の現在というタイトルだけど、どうも、「恋愛の現在はこんな感じ」という記述面よりも、「これからの恋愛はこうあるべきだ(こうあってほしい)」という規範面・願望面が先行しているように見えて、まあなんかモヤりながら読んでます。言っていることは分かるんだけど、ちゃんとフェミニズムとかあんまり知らん人を説得する文章になってるか? とかでモヤる。

 

カーペンターズを聴こう

ところで、最近の僕は久しぶりにカーペンターズ Carpentersを聴いています。誰でも思春期にはカーペンターズを聴くものだよな。僕も中高、特に高校時代によく聴いてました。今、約7年ぶりに聴き直しています。

 

カーペンターズのベストアルバム「Gold - Greatest Hits」(2000年)。高校1年のとき、僕が初めて自分でお金出して買ったアルバム。iTunesに今も入っている。

 

カーペンターズって誰?

一応知らない人のために説明すると、カーペンターズは1970~80年頃、アメリカで活動してたデュオユニット。リチャード・カーペンターとカレン・カーペンターの実の兄妹からなっています。カーペンターは日本語で”大工”の意味があるけれど、この場合は二人の名字から来ています。色んな曲を出してめっちゃ売れた。

1983年、カーペンターズは、妹のカレン・カーペンターの死により活動停止に。カレンは重度の拒食症でありました。当時は今ほど摂食障害についての一般的認知はなく、カレンの死によって、拒食症・過食症の深刻さが広まったそうです。「雨の日と月曜日は」のようにメランコリックな曲が多く(明るい曲も多いけど)、カレンの悲劇も相俟って、暗さ・鬱さにカーペンターズの魅力を見出す人も多いと聞きます(明るい曲も多いけど)。

 

↑「雨の日と月曜日は Rainy Days and Mondays」。暗い曲代表。この曲からカーペンターズに入った人も少なくないとか。ちなみに僕は「トップ・オブ・ザ・ワールド Top Of The World」から入った。こっちは明るい曲代表。

より詳しくカーペンターズについて知りたい人は、Wikipediaを見るべし。

ja.wikipedia.org

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「法」とは結局なんなのか(について聞かれた際に自分なりに答えられること)

どうも。10月も下旬、冬を感じ始める今日この頃です。ひたすらに寒い。

僕は現在大学院の修士2回生をやっております。専門は法哲学。法学の中では基礎法学という分野に位置するもので、「法とは何か」「法が実現すべき正義とは」的なことを考えています。現在は修論の提出に向けて頑張ったり頑張らなかったりしています。

で、振り返ってみると、僕は実に6年間も「法学」について学んでいるということになります。法哲学という分野に絞っても、学部2年からゼミが始まったのでこれで5年目。小学校入学から卒業まで同じことをやっていたようなものと思うとなんかすごいですね。

 

結局「法」とはなんなのか?

で、そろそろ修論も書き上げるのに、「自分は6年間も法について学んだわけだが、『法とは何か』についてそれなりの説明ができるのだろうか?」というのがいまだ疑問であります。法って、結局なんなんでしょうね。今日はざっくりとではあるけれど、「法とは何か」について聞かれた際に自分が答えられることについて書いていきたいと思います。

 

【本日のゲスト】

ゲストがいます。

 

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リブ子ちゃん(登場2回目)。図書館で生まれた元気いっぱいの女の子。現在は国立国会図書館職員(倍率100倍)を目指して勉強中。

 

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博士(登場3回目)。図書館やその他諸々のことについて少しだけ詳しい。最近はもう将来のこととか別に考えなくてもいいかなと思い始めた。

 

↑ この人達はたまにコメントを挟みます。

 

法について考える

というわけで、「法とは何か」について考えてみます。つまらない話から始めるけdl、ここで言う法とは英語で言う“law”のこと。英語のlawは、基本的に基礎法学では「法」と訳すのがお約束。「法律」ではないことに注意。日本語で「法律」というと、どうしても国会(立法府)で作られるものがイメージされてしまう。が、ここでの法の中には、一般的な法律のほかに、その上位規範である憲法や、さらには国際法などの領域も含まれる。

で、そうすると、そうした幅広い領域を含む「法」について、何か統一的な説明が可能なのか、ということが問題になる。法律・憲法・その他国際法などの大まかな区別だけではなくて、法律の中にも民法・刑法・行政法など細かい区別があるし、憲法の形も国によって大きく違う(憲法がないところもある)。「法」と一応は呼ばれうる様々な規範・規定をひっくるめて、「法とは何か」というボヤっとした問いについて答え得るのか。これがまず問題になります。

 

f:id:betweeeen:20210901165318p:plain問題はそれだけじゃないぞ!!

 

博士からコメントが入りました。

 

f:id:betweeeen:20210901165318p:plainより根本的な問題は、なぜ「法とは何か」という問題について考えなければならないのか、という点じゃ。そんなこと別にどうでもよくない? それよりも儂が最近発見した、【ある程度の学歴 × 交際経験の少なさ ⇒ 就職の難しさ】という法則について考えた方が有意義だと思う。

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秋なのでスピッツを聴きましょう

どうも。お久しぶりです。昨日あたりから鬼のように寒くなり、びびってるこの頃です。

 

秋ですね。

 

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そこまで秋っぽくもない写真。

 

秋になるとスピッツが聴きたくなる

スピッツ聴いてますか? 

秋になると普段に増してスピッツが聴きたくなります。秋と言えばスピッツみたいなところが少なからずあるので。

とはいえ、周りでスピッツ聴いてる人はあんまりいないというか、

 

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僕が脳内でアンケートを採ってみた結果、こんな感じになりました。脳内アンケートなので妄想100%ですが。

さらに「聴いている」と回答した人に、「好きなアルバムは何か?」と聴いてみたところ、以下のような感じになりました。

 

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おい
冗談はさておき、周りにスピッツを聴いている人は少ないし、秋はスピッツを聴きたくなる季節なので、今日は「スピッツ秋ソング特集」です。チェリー・ロビンソン・空も飛べるはずの3つをYouTubeで聴くぐらいという人も、この機に色々聴いてみてください。頼む。

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秋だなあ(雑更新)

どうも。

 

 

 

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しばらく更新サボっててすみませんでしたぁ.......

僕の代わりに、いらすとやの画像たちを謝罪させときました。いや、一般的に言えば、ブログで1ヶ月更新ナシとかそんな珍しいことではないと思うんですけど、一応ね。元は日課としてやっていたことなので、やっぱ申し訳なく思っています。

9月は色々あって全く書けませんでした。が、10月は頑張ります(毎月そう言っている)。ブログ書くこと自体は楽しいので、読者のためとかだけでなく、自分のためにもそうしたいと思ってます。頑張ります。

 

近況など

今日は簡単に近況など思ったことを雑に書く回です。次回からはまたひとつテーマ決めて、大変大真面目に色々書こうと思っています。

先日の10月1日、内定式がありました。いや、僕は内定もらってないので無いんですが、世間的には内定式があったらしいです。

さすがに私のお就活も、10月で終わりにしたいところ。未だに進路が見えなくて不安だから、というのもあるんですが、こうやってブログ書く度に就活の報告して、「こいつまだやってんの??笑」と思われるのが嫌だからですね。いや別にこの時期まで就活してることが恥ずかしいとか、決してそういうことでは無いんですが(これは全国の就活難学生を代表して強調したい)、とにかくブログの話題としてあまりに変化がなさすぎるので。

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訃報、と簡単な近況報告

どうも。

すでにTwitterなどで情報が回っているようなので、知っている方も多いかもしれません。が、僕も一応、このブログという場で、少しだけ書いておきたいと思います。

先日、僕の指導教員の那須先生が亡くなられました。

 

 

あまりに突然のことで、僕もまだ、どう受け止めていいか整理できていません。本当に突然のことでした。

昨晩告別式に参列してきました。家に帰り、ご飯食べた後寝落ちして、深夜に目覚めてTwitterを見たら、すでに多くの方が、この度の訃報に言及されていて、僕自身、自分の置かれた状況を少し書いた方がよいように思えて、こうして更新しています。

自分のことを話すと、僕は今後、他の先生のところに「指導教員変更」という形で付くことになりました。今年度書く修論の計画などは、その先生と共に進めていくことになります。分野の近い先生なので、取り立てて指導体制などに不安はありません。自分のやるべきことをやっていかんとと感じています。

故人との思い出などについては...... あまりこういう場で書くことでもないように思えるので、あまり触れません(すみません)。

ただ、僕はこれまでのブログ記事を通して、折りに触れて「指導教員との関係が非常に希薄だ」とか、「研究の相談を全くしたことがなく、ほとんど放置状態に近い」ということを書いてきました。大学院での指導の在り方に、どちらかというと不満が多かったのは事実です。入学(院試合格)の段階から、先生が闘病中ということは知らされていましたが(ちょうど2年前の今頃の話...)、どこまでご病気が重いのかや、具体的な病名などは、ほとんど知らされていませんでした。ただ、本当に苦しい中で我々院生のことを引き受けてくださり、そのことへの感謝は、本当に亡くなられる前に伝えたいことでした。音楽性(学問的な志向性)の違いなどもあり、僕は口を開けば不満や文句ばかり出してしまいましたが、もっと本人に直接感謝の念を伝えられていればと、今はその点が本当に悔やまれます。

こうしたことを受け、これまで僕が書いたものも、昨日の時点で一部非公開に戻しました(研究室もらえないことへの愚痴回とか)。修論のこともあり、しばらくブログの更新自体休むかもしれませんが(休まんかもしれんけど)、ひとまず僕自身は元気なので、そこはご心配なく、という感じです。皆さんも体調等にはお気を付けください。

 

最後に僭越ながら、先生が書かれた論文を一つだけ紹介します。

那須耕介(2014)「グローバル化は法概念の改訂を求めているか?」『社会科学研究』65(2),113-128
...リンクは東京大学学術機関リポジトリのもの

僕が院試を受けるに当たって読み込んでいたものです。このときは「法の支配」や「法多元主義」を専門にされている方との認識でしたが、近年はナッジ関連(サンスティーン関連)の著作が多いですね。ただ、ナッジも広く見れば「法の支配」の論点に入ってくる気がするので、やっぱり僕の中では、「法の支配」を専門にされていたという印象が強いです。

www.keisoshobo.co.jp

昨年には単著も出されています。紙の本で戴いたにも拘わらず、まだ全ては読み切っていなかったため、しっかり勉強させていただきたいと感じています。

今日は以上です。繰り返しになりますが、僕は一応元気でやれているので、その辺はご心配なく、という感じです。みなさんも、体に気を付けてつつ9月を乗り切りましょう。